第一節
青空から降り注ぐ春の日差しが海面を輝かせている。
煌く水面に白波を立て、晴天に白煙をなびかせる蒸気船ガブレーサール号。見上げればカモメが悠然と舞い、埠頭に目を遣ればこちらへ向かう渡し舟。それらは、ここが長い船旅の終点であることを意味していた。
ここマリーワール港は西新大陸最大にして唯一の国家たるヴェリアリープ帝国の、最大にして唯一外国に開かれた港湾都市である。この日も繋留は順番待ちで、先を急ぐ彼らには渡し舟があてがわれた。港内は様々な国旗を掲げた船が行き交い、ここだけ見れば千年続いた鎖国政策が嘘のようだ。
「ここが、西新大陸」
甲板に立つ青年――オリビノエイタ・エパスタの鳶色の瞳は青い海に負けないほどの輝きを帯びていた。憧れの西新大陸が眼前に広がっているのだ。大学の貧乏講師だった彼はついに、広大な研究対象へと手を届かせようとしている。
「ここが、白き土の大地」
彼ら旧大陸の民からすれば西の新大陸なのだが、この地に住まう者は〝白き土の大地〟と呼ぶ。古の昔、神々の争いを生き抜いた楽園とされていて、それを証明するかのように、この大陸には不思議な事物が多い。そのひとつが〝魔術〟である。
「魔術師に会えるかなぁ……」
西新大陸にはまじないや祈祷といった土着信仰を越えた超自然現象たる〝魔術〟が存在する。開国十七年目を迎えた今や、新聞や書籍で世界中の誰もが西新大陸の魔術というものを知っている。それでも、魔術などというでたらめは目の当たりにするまで信じられないものだ。机上の研究に終始していたオリビノエイタにとっては、この旅でもっとも興味深い研究対象だ。
「騎士に、教会に、亜人……ホント、おとぎ話みたいな国だよね」
厳然たる身分制によって貴族階級である騎士が国を支配する。その支配権を担保し、道徳を説く僧侶たち。少数でありながら強大な力――魔術を操る魔術師たち。政治と産業における革命を成し遂げて近代化した旧大陸諸国からすれば、ヴェリアリープ帝国はまさに童話やおとぎ話のような〝中世暗黒〟の世界だといえよう。
さらには、亜人に魔獣である。北方魔領で邪教を信仰する魔人族。灰の砂漠からリアンチェス河を越えて平原を侵略せんとする鬼人族。エインタースの樹海で今なお神々と暮らす妖人族。双頭の獅子、空飛ぶ龍、角を生やした熊、火を噴く蜥蜴、歩くにんじん。大陸の辺境には神々の末裔とされる異形の存在が住まう。
これほど胸躍る地が他にあるだろうか。まるでデート前夜の少女のような瞳で、オリビノエイタは陸を眺めた。
すぱん。
夢見る青年は唐突に後頭部をひっぱたかれた。こんなに小気味いい音で人の頭を叩ける人物などひとりしか知らない。
「あ、アミー」
オリビノエイタが振り返ると、彼女は腕を組んだ。怒り半分、呆れ半分。幼い頃からの彼女の癖だ。
「こら、オリタ!」
彼らアルテプラーノ人は名前が長く、親しい間柄では愛称で呼び合うのが一般的だ。オリタはオリビノエイタの、アミーはアニエミエリの愛称だ。これから付き合う西新大陸人にこのややこしい習慣を理解してもらうのは骨の折れることだろう。
「何ぼーっとしてんの!」
「ご、ごめん」
彼女――アニエミエリ・フローナーストはオリビノエイタの幼馴染みであり、今は彼の雇い主でもある。
オリビノエイタは一張羅の安い背広を着ていたが、彼女は堂々たる格好だった。アルテプラーノ共和国陸軍が誇る青と白の軍服に身を包み、幼年学校から鍛えられた完璧な姿勢で仁王立ちしている。筒型軍帽の羽根飾りや腰に巻かれた赤い飾り帯――どちらも彼女が将校であることを示している――が誇らしげに見える。
陸軍騎兵中尉アニエミエリ・フローナーストは〝ヴェリアリープ派遣アルテプラーノ陸軍教官団〟の団長である。刀槍弓馬という中世の戦い方しか知らないヴェリアリープ帝国に乞われ、近代戦を教えるために新大陸へとやってきたのだ。
すぱん。
「早く下船の準備しなさいってば!」
またひっぱたかれた。一つ年上の彼女には幼い頃から頭が上がらない。騎兵将校だけあって手綱の扱いにも慣れた彼女の平手は幼少期とは比べものにならないほど痛い。それでも、彼は彼女に文句のひとつも言えなかった。今回の渡航がアニエミエリのおかげに他ならないからだ。
「アンタには研究のついでかも知れないけど、ちゃんと給料分働きなさい!」
「あ、うん。ごめん」
オリビノエイタは学者としてではなく、将校に雇われた従卒――すなわちアニエミエリの使用人として教官団に随行していた。
本来なら大学から派遣される学術調査団か何かに参加したいところだが、彼のような未熟な講師に席はない。それでも、どうしても西新大陸に渡りたかったオリビノエイタに思わぬ幸運が訪れた。幼馴染みのアニエミエリがヴェリアリープ帝国に派遣されることになったのだ。
学問以外取り柄のない彼を従卒として雇ってくれたのはひとえにアニエミエリの優しさによる。
「さぁ! わかったらとっとと私の荷物持ってくる!」
今年で二十六歳になるオリビノエイタは史学や社会学を教えながら大学で燻っていた。いくらがんばっても教室や研究室に真理はない。彼女の好意を無下にしないためにも、この旅で何らかの研究成果をあげねばならない。彼はそう心に誓っていた。
だから、素直な気持ちが唇からあふれた。
「本当にありがと。西新大陸に来れたのはアミーのおかげだよ」
オリビノエイタはそれだけ伝えると、荷物を取りに船室へと駆けていった。この旅に連れてきてくれた彼女に感謝しながら。