第一節
「はい、師匠。昨日の報告書です」
疲労と眠気でふらふらしながら、ミューネは書類の束を差し出した。頭と瞼が重い。
「ふむ……。ミューネ・ルナッド・リューゼ、これは本当に清書か?」
もちろんそうだ。それを書き上げるために昨夜は一睡もできなかったのだから。
「はい、そうです」
「相変わらず字が下手だな」
「ごめんなさい……」
師匠エルト・カール・デューはいつだって容赦ない。昨日も誘拐された直後だというのに詳細で正式な報告書の作成を命じられた。そのうえ、寝ないで書いたのにこれである。
ちょっとくらい褒めてくれてもいいのに……。
エルデルドー砦の攻防戦に始まり、帝都では敗残騎士に誘拐され、ここ数日は生命の危機が目白押しだったのだ。だから、ちょっとだけ言い返してみた。
「で、でもでも! これで皇帝陛下も戴冠式も安全ですよね! 自分でも怪我の功名だってわかってますけど――」
「怪我の功名?」
差し込む朝日にエルトの片眼鏡が光る。なにやらダメなことを言ってしまったらしい。恐くて、ついつい早口になる。やはり、魔神ディアテクロアより恐ろしい。
「へ、いや、だって、偶然とはいえ、皇帝陛下弑逆を企む反逆者は、その、討ち取られたわけですし……」
そして、尻すぼみになる。
「愚かにもほどがあるな……お前はあれを本当に偶然だと思っているのか?」
「へ?」
あー、いま私、だいぶ間抜けな顔してる。
そんな後悔をするも、わからないものはわからないのだから仕方がない。
「騎士団の介入が早いとは思わなかったのか?」
確かにそうだ。ポテルクワ城伯も異国の青年オリなんちゃらも驚いていた様子だった。
「あ、はい。なんでだろう、ってちょっと思ってました」
「気づかんとは……やはり修行が足りんな」
エルトは執務机の一角を指差した。書類や魔術書、魔術具でいっぱいだから気づかなかったなんて言い訳は許してもらえそうにない。
エルトがいつも持ち歩き表紙をとんとん叩く本の隣に、南瓜より一回り小さな青水晶の珠がひとつ。映っているのはぼさぼさの黒髪、赤いローブの小柄な少女の後ろ姿。
「あっ!」
振り返ると部屋の隅に一羽の山梟がいた。実に魔術師のそれらしい雑然とした部屋の中、止まり木からじいっとこちらを見つめている。
「三年ほど前〝エルメイバの凶鳥〟については教えたはずだ」
かつて、百眼の巨神エルメイバはその多量の目を無駄にしないため、鳥神クルコンマーナに相談したと伝えられている。善意から相談に応じたクルコンマーナよりエルメイバに遣わされたのは、その視野を水晶珠と共有する百羽の山梟。千里も万里も離れた百個の青水晶に映し出される梟たちが見た光景をエルメイバはその百眼で見続け、大陸全土の事象を知るに到ったとされる。
しかし、百の瞳すべてで水晶珠ばかり見ていたがために、エルメイバは息子であり一つ目の巨神たるイトバメイバの謀反に気づかぬまま寝首をかかれた。故に、遠く離れた青水晶に視覚を伝達できる山梟を〝エルメイバの凶鳥〟と呼ぶ。
確かに、何年か前そんな授業を受けた。
「それは、その、ちょっと、忘れてましたけど……でも、そんなスゴイの使役してるなんて教えてくれなかったじゃないですか! あのときの授業でだって見せてもらってませんし!」
「おいそれと手の内を明かす魔術師がいるか、愚か者め」
ぴしゃりと言われてしまった。その通りなのだが、それにしても人が悪い。そもそも、いつから見られていたのだろうか。いや、それよりもその目的とは。
「あ、師匠! 私のこと、囮にしたんですかぁ!?」
「愚か者め、やっとわかったのか」
悪びれる様子もないエルト。
「それって酷くないですか!? 死ぬかと思ったんですよ!?」
「何を愚かなことを」
怒る弟子を前に、師匠は呆れ顔だ。
「いいか? そも、欺された、お前が、悪い」
「ま、まぁ、そうですけど……」
噛んで含めるように一語一語ゆっくりと指摘された。
「さらに、〝ただ人〟風情にいとも簡単に攫われたお前が悪い」
「そ、そりゃ戦う魔法とか苦手にしてますけど……」
ここで言う「ただ人」とは魔力のない者、または魔術師でない者を意味する。それはそれとして、そろそろ泣きたい。
「そして、お前如き未熟者、囮の役を果たせただけでも良しとするのが当然だろう」
「むぅ……」
終いには何も言えなくなってしまった。
「だが、そうだな。成果があったことは褒めてやろう」
「へ?」
突然の賛辞にうまく反応できない。
「ここ赤龍館から情報が漏れている」
ミューネは事の重大さをようやく理解した。
「内通者か密偵か知らんが、叛徒共の手は予想以上に長いようだな」
「そっか……そういうことですよね」
秘密任務の情報が漏洩し、すぐさま対応された。宮廷貴族や役人ならまだしも、秘密主義の魔術師から漏れたとなると大事である。
一体、誰が何の為に、などと考えていたらエルトの秘書官が扉をノックした。タイミングの悪さに、ミューネの蚤の心臓は飛び跳ねた。
「入れ」
「失礼します」
ミューネと同じ黒髪の山岳ヴェリアル人――魔力はないので瞳は赤くない――の秘書官チェリス・ポルマーネ・マンシュテン女史が隙のない所作で現れた。
「デュー先生、そろそろ参内のお時間です」
「わかった」
どうやら、そろそろ朝見の儀の時間らしい。エルトはいつもの本を手に取って腰の後ろにすっと収めた。
宮廷魔術師であるエルトは就任以来ほぼ毎日、皇帝の居城ゲリークフェン宮殿に登っている。
「あ、いってらっしゃいませ」
だからこそ、自然と見送りの言葉が出たのだが、返事は思わぬものだった。
「お前も来るんだ」
「へ? 何でです?」
一介の魔術師でしかないミューネは学位と教職しか持たない。そのため、師匠がいくら出世しようと宮殿に参内したことなどない。
「陛下がお呼びだ」
「へ?」




