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第一節

 騎士の怒号、蛮族の雄叫び、翼龍の咆哮、騎馬の嘶き。絶え間なく聞こえる断末魔の悲鳴は兵士のものか亜人のものか。

 決して広くもない城壁の内側で双方の軍勢が入り乱れている。鬼人族を容赦なく蹴散らす騎馬。倒れた兵士の頭蓋を幾度も砕く鬼人の戦士。松明を投げ入れられ燃え盛る厩。青空を舞う翼龍へ射かけられる矢。

 砦の中庭に立つ少女はそのすべてを見聞きしていた。そこが戦場の中心だからだ。天守でもなく総大将でもなく、彼女こそが戦場の中心であったからだ。

 死神が闊歩する饗宴の中、ミューネ・ルナッド・リューゼは魔術師としての責務を果たさんと詠唱に集中していた。

「カンディアバルの息子、百と十四の氏族を統べる頭領、ウェミクパナンの守護神、千の獣の王マアハピオロンよ」

 かつて鬼人族を焼き払ったとされる太古の獣神へと少女は呼びかけた。

 目の前に鬼人が躍り出たが、逃げるわけにはいかない。術式が完結するまで呪文に集中せねばならない。

 幸い、眼前の鬼人族は後頭部に矢を受けて倒れた。矢を射った弓兵も、直後に城壁から叩き落された。あの高さでは助からない。

「汝が屠りし悪鬼羅刹の末裔を、我らが共に拓いた白き土の大地より、燃え盛る火炎の息吹によりて祓い給え。薙ぎ払い給え」

 獣神マアハピオロンへ、その炎の吐息による助力を願う。地面に描かれた魔術陣の中心には破邪銀で作られた小さな燈籠が据えられている。ミューネの魔術によって火が灯れば、鬼人族に対する死の結界が完成する。

 迫る鬼人の軍勢はこの燈籠か魔術師の少女を狙っていた。

「汝、マアハピオロン。我、ミューネ・ルナッド・リューゼ。我、汝に乞う。汝の――」

 最後の一節に差し掛かったとき、亜人の射手が短弓に毒矢を番えた。彼女は恐怖に慄いたがどうすることもできない。黒蠍の猛毒をたっぷりと塗られた矢が刺されば、たちまち意識を失い術式を完結させることはできないだろう。

 矢が放たれた。

「我、汝に乞う! 汝の息吹を!」

 魔力を消耗し、成功の確率を下げるとわかっているが、同じ節をもう一度叫んでしまった。直面した死と敗北に、幼い魔術師は動揺せずにいられなかったのだ。

 少女の赤い瞳は飛来する矢を睨みつける。だが、ひとりの騎士が視界を遮った。

 その騎士は馬も槍も失っていたが、自らの肉体を楯として奉げた。距離が近く、毒矢は甲冑をあっさりと貫いた。

 あっという間に痙攣を引き起こすはずだが、騎士は地面から敵の棍棒を拾い上げた。そして、そのまま駆けると彼を射った鬼人を叩き殺し、自らも息絶えた。

「汝の息吹を! 汝の炎を! その一片を! 今一度、貸し与え給え!」

 唱えあげた。

 しかし、燈籠を凝視しても、獣神の炎は灯らない。

 なんで? なんでなの?

 際限のない不安と答えのない自問。眩暈が少女を襲う。小さな体は震え、全身から汗が噴き出した。呪文はすべて唱え終えたが、魔術は発動していない。

 失敗。全滅。死。

 恐れていた最悪の結末が迫っている。どうしていいかわからず、ミューネは立ち尽くした。その間も友軍は戦い、傷つき、死んでいる。

 バカ! 私のバカ!!

 少女は自身を叱咤すると、修士の学位を示す首飾りをぎゅっと掴んだ。その手癖によって集中力を取り戻せることを彼女は知っていたのだ。学び舎で過ごした厳しい修行の記憶がミューネに自信を取り戻させる。

 力尽くで従わせるつもりで呼びかけなければ神々は応えない。師の教えを思い出す。

 もう一回! もう一回だけ、最後の一節を!!

 今にもミューネの魔力は尽きかけていたが、これ以上の失敗はあり得ないのだ。少女は覚悟を決めた。

 その決意に気づいたのか、龍に跨った鬼人が鞭を振るう。一騎の翼龍が羽ばたき、小柄な少女目掛けて急降下した。

 鬼人族だけが従える翼龍は人間にとって天敵と呼べるほどの脅威である。大空を自在に飛びまわり、鋭い爪や牙で分厚い胸甲をも切り裂く。さらに、いくら矢を放とうとも羽ばたきに気流が乱され、騎手を射落とすことができない。今も弓や弩が鬼人の騎手を狙うが、矢は虚しく空を切った。

 こんな時こそ異国の鉄砲とかいう兵器があれば。そんな開明的な思考がミューネの脳裏をよぎる。だが、彼女はすぐにそれを振り払った。今やるべきは思考ではない。

 集中しろ! 集中しろ、私!!

 これが最後のチャンス。

 絶対に、できるッ!!

「汝、マアハピオロン! 我、ミューネ・ルナッド・リューゼ! 我、汝に乞う! 汝の息吹を! 汝の炎を! その一片を! 今一度、貸し与え給え!」

 空からの敵意に気づいた馬上の騎士も間に合わない。龍の牙と少女の言葉による一騎打ち。あれほど悩ませ続けた戦場の喧騒も、今や彼女の耳には届いていない。

 そっと、銀の燈籠に緑の炎が灯る。

 その瞬間、魔力の波動が暴風を巻き起こした。白土に記された魔術陣は淡い光を帯び、砦を飛び出し、直径およそ一里にまで膨れ上がる。もとよりぼさぼさのミューネの黒髪も、銀糸で刺繍された王立魔術院の赤いローブも、竜巻にでも飛び込んだかのように吹き上げられた。天守に掲げられた帝冠白翼旗が盛大に翻る。騎士や兵士たちは荒れ狂う強風に戸惑った。

 人間に害のないその風も、鬼人族には死をもたらした。この結界の中では、古の戒めにより鬼人族は心の臓を働かせることが出来ない。

 ミューネの魔術が成功したのだ。

 ばたばたと倒れる鬼人たち。主を失って飛び去る翼龍。唐突に訪れた静寂によって、帝国の誇る騎士や兵士は己の勝利を知った。一瞬の沈黙の後、彼らの挙げた鬨の声を聞いて初めて、ミューネは勝敗を意識した。大勝利をもたらした張本人であるにも関わらず。

「やった……できた……!!」

 ミューネはそう呟くと、その場に座り込んだ。

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