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たとえ君が「サヨナラ」を告げても…


 高校の入学式当日。

私は友だちとなったばかりの子たちと別れ、この学校で有名な桜を一人で見ていた。

満開の桜は聞いていた以上に壮大で、思わず見惚れてしまうほどだったのを覚えている。その中でも幹が太く、ひと際大きい桜は「圧巻」の一言だった。

爽やかな風が吹き、咲き誇った桜から花びらが舞う。

太い幹と舞う淡いピンクの花びらがどこか幻想的な雰囲気を醸し出していた。

一番大きな桜の木の下に綺麗な人が一人立っていた。

「綺麗」という言葉を用いるのは少しおかしいのかもしれない。だって、そこにいたのは男の人だったから。

けれど、「綺麗」と称する以外にあの時の情景を表す言葉を私は知らない。

 花びらは舞い、彼の栗色の髪が揺れた。彼が手を広げると、花びらは誘われるようにゆっくりと落ちていった。絵画から抜け出したような光景だった。

「恭介」

 ふと声が聞こえた。細く高い声。彼は振り返る。

彼の視線の先を追うと、髪の長い女性が走っていた。彼女が彼の横に立つ。

彼女もまた綺麗だった。

「紗智」

 静かに、でもしっかりと彼が彼女の名前を呼ぶ。

その声には優しさが含まれており、彼らが恋仲であることを知るには十分だった。

 微笑ましい恋人同士の会話が始まると思っていた。美男美女のカップルが綺麗な桜の下で談笑をする。そんな美しい光景が繰り広げられると想像していた。

だからちょっとくらい見ていてもいいだろうと好奇心に負け、私は、少し離れた桜の木に隠れながら2人を見ていた。

けれど私の予想は外れてしまった。

「別れよう」

 そんな言葉が耳に入った。

彼女が彼に告げている。沈黙が流れた。

 髪を揺らす風が沈黙を一層引き立てる。しかし沈黙はすぐに終わった。

「いいよ」

 彼のその一言で。

「…ありがとう」

 震える声。哀しそうな彼女の表情が私の位置からでも見えた。けれど、きっと彼には見えていないだろう。だって、彼は下を向いていたから。

彼女は少しだけ躊躇いを見せたが、しかしすぐに彼のもとから去って行った。

 これ以上見ていてはいけない。私はその場を離れようとした。

けれど、結局はできなかった。

 彼が泣いていたから。

いや、涙が見えるほど近づいていたわけではないから実際のところどうかわからない。

彼は涙を拭う素振りも見せなかった。

けれど、確かに泣いていた。なぜかそれはだけは確信を持って言える。

 彼が彼女を好きだと痛いほど伝わってきた気がした。

「紗智」

 小さな声で彼女を呼ぶ。

 気が付けば私も同じように泣いていた。


 私は、知った。彼を好きになってはいけないと。

けれど、その瞬間、私は恋に落ちていた。



「坪井くん。また授業中寝てたでしょう?しっかり受けないともうノート貸してあげないよ?」

「え~結衣ちゃんそれは困るよ」

「恭介~、もしそうなったらうちらがノート貸してあげるよ?」

「…ごめん。俺にとっては結衣ちゃんのが一番わかりやすいから結衣ちゃんのがいいんだ」

「そう思うならちゃんと授業受けなよ?」

「わかった。俺、結衣ちゃんに見捨てられたら困るからね」

「も~結衣ばっかずるい!」

「はいはい。わかった、わかった。私はただの坪井くんのお世話係だから。君たちの方が数倍可愛いから大丈夫ですよ」

「結衣ちゃんは可愛いよ」

「…天然たらし。話をまとめようとしてるんだから余分な事は言わないの」

 人生とは不思議なものである。

もう二度と見ることはないだろうと思っていた彼を私は翌日見ることになるのだから。しかも自分の教室で。

よく思い出してみれば確かに彼は私と同じ制服を着ていた。

しかも、同じクラス。

クラスメイトはゆっくり覚えようと意識半分で皆の自己紹介を聞いていたのがあだとなったようだ。

 彼女も制服だったが私のものとは違っていたから別の高校なのだと思う。

 そしてあの日から半年たった今、私は彼の世話役となっている。

 彼の名前は坪井恭介。

スポーツ万能のイケメンくんだ。勉強面は中の下。けれどマイペースなためか授業を聞いていないことも多く、いつも赤点ギリギリ+もろにアウトが1つか2つ。

 うちの高校は文武両道がモットーである。だからこそ、やればできる坪井くんを勉強面でもなんとかしようとなぜか私が彼の世話役に任命された。担任から。

 担任に曰く、たまたま隣の席になり私が坪井くんにノートを貸した時の小テストの点数が良かったから、だとか。

 それから、彼目当ての女子から鋭い目で見られながら彼の世話役に徹している。

 そんな風にして不本意ながらも彼の近くにいてわかることがある。

 彼は、優しい。

困っている人がいたらつい手を差し伸べてしまうそんな人。

それから男女ともに人気がある。

スポーツは何でも得意だが特にバスケが得意。授業中はよく睡魔に負ける。

そして重要な点がもう一つ。

彼はまだ彼女のことが好き。

 一人でいる時、彼は時々下を向く。その時の彼を覆う空気は、半年前桜の木の下に一人残された彼と同じで私はいつも声をかけることができない。

そしてその度思うのだ。

彼と話すようになって、彼に近づいたと思っても、これ以上は彼に近付けないと。

見えない円が彼を囲んでいて、その中に入れるのはきっと彼女だけなんだと。

 わかっていてもつらくなるから、やっぱり人生は不思議だ。


「はい!じゃあ、今日のHRは終わり。明日は土曜日で休みだけど、部活や勉学に励めよ。それから、坪井!」

「え…あ、はい」

「お前だけ今日の小テスト赤点だから放課後に課題をやること」

「…先生、俺部活あるから」

「大丈夫だ。俺に抜かりはない。今日は、バスケ部は休みだと顧問の先生から聞いている。だからたっぷりできるぞ」

「…」

「悪いけど遠藤、また見てやってくれ。それじゃあ、以上」

 若者感覚を持ち、話しやすいが何事にも熱い所が欠点である担任は何の関係もない私にそんな課題を残し、爽やかな笑顔で教室を去って行った。

「また?結衣ばっかずるいよ!本当に!!」

 可愛い女子たちが私を睨んでいる。押しつけられただけなのだから、睨まれても困るのだが。

けれどまあ、確かに彼女たちの言うことはもっともなのかもしれない。

勉強面ならノートを貸したりわからない所を教えたりするだけでよい。ただ、私自身世話を焼いてしまう性格であるためおっとりしている坪井くんにあれやこれやと世話を焼いてしまうのだ。

そしていつの間にか教師たちの間でそれが当たり前の風景として映ってしまったらしく、事あるごとに世話役としての活躍を頼まれてしまうようになってしまった。

「皆の坪井くん」などというつもりはないが、確かに彼の学校での時間を独占しすぎている。

坪井くんはもてるが遊び人というタイプではないため、学校の外で彼と接点を持つことはほとんどあり得ない。だからこそ、彼と一緒にいられるのは学校生活だけ。

それなのに、そのほとんどの時間を私がまとわりつくようにいたら、腹が立つのもわかる気がする。

今は可愛く文句を言うだけだがこれがどう転ぶかもわからない。できれば面倒事は避けたい。

そもそも私のような可愛くもなく、性格も悪い人物が彼と一緒にいられるだけですごいことなのだ。

その上独占なんてもってのほか。

「恭介~。今日ぐらいはうちらも一緒にいていいでしょ?」

「え…あ、でも…」

「勉強の邪魔しないし、皆でやった方が絶対効率いいよ!」

「そうそう。課題って数学でしょ?私数学得意だし!数学なら結衣よりテストの点数いいよ!!」

「えっと…でも…」

 恋する乙女は時に偉大だ。

目をキラキラさせて坪井くんに迫る女子たちの姿を見ながら私は思った。

 坪井くんが助けを求めるような視線でこちらを見ていた。

けれど私は気付かない振りをする。

だって、私にはできない努力をしている皆の邪魔をすることはできない。

「あ、そうだ!」

 私の声に皆の口が止まった。多少わざとらしいがしかたがない。

「どうしたの?結衣ちゃん」

「私、用事があったんだよね。ごめんね、坪井くん。皆に教えてもらって」

「え…。結衣ちゃん?」

「あ~そうなの?残念だね。でも、うちらに任せて!」

「ちゃんと教えるから!」

「そうそう。大丈夫だよ」

 坪井くんの戸惑いを遮るように皆が言葉を紡ぐ。そんなに邪険にしなくてもいいのに。

私はただの世話焼きで君たちのライバルになんかなれないんだ。だから心配しなくていいよ。そう心の中で呟き、私は笑顔で教室を後にしようとした。

「ちょ、ちょっと待って!」

 あわてたように坪井くんが声を出す。私がいなくなると知ったせいか、気が付けば数名の女子が集まり坪井くんの周りには小さい輪ができていた。

私が坪井くんと一緒にいすぎるせいで、最近では、私と坪井くんが付き合っているという噂が流れている。そのせいか私は坪井くんの女避けとして一定の効果を持っていた。入学当初に比べ坪井くんの周りを囲む女子たちの数は減ってきている。

だからこそ、女子に囲まれるなんていうのは久しぶりなんだと思う。焦ったような声が上がるのもしょうがないのかもしれない。

 けれど、彼女でもなんでもない私が恋する乙女の邪魔はできないんだ。

「どうしたの?」

「結衣ちゃん帰っちゃうの?」

「うん。用事があるからね」

「…俺、結衣ちゃんのノートじゃないと理解できないんだよね。だから俺も…」

 次の言葉を繋ごうとしていた彼の前に静かにノートを差し出す。

「はい。貸してあげる」

「…」

「皆、これ見て教えてあげてね」

「うん!」

「ありがとう、結衣」

 笑顔の皆と呆然と立っている坪井くんが対照的過ぎて面白かった。

「よ~し。恭介。さっそく始めようか?」

「私、結構教えるの上手いんだよ」

「…うん。ありがとう」

 もう言い訳が思いつかないのか大人しく席に座った坪井くんを見て、多少申し訳ないなと思いながら私は教室から出て行った。

 教室からは楽しそうな笑い声が聞こえる。

それが少し哀しかったのは気のせいだと思いたい。

 

 

 夏の日暮れは遅い。夜の7時近いというのにまだ外は明るかった。

淡いオレンジ色の空。私の部屋は2階の南側に位置しているため、まだ電気を付けなくても明るかった。

「~♪」

夕食を食べ終え、のんびり過ごしていると不意に着信音と共に携帯が揺れた。

「坪井恭介」

 ディスプレイが発信者の名前を示す。

坪井くんとメールのやり取りはあったが電話をしたことはなかったので私は少なからず驚いた。

一度深呼吸をし、電話に出る。

「もしもし」

「結衣ちゃん、今大丈夫?」

「あ、うん」

「あのさ、今ちょっと外出れるかな?」

「え?」

「ノート」

「…?」

「ノート持ってきたんだ。今、結衣ちゃんの家の前にいる」

「え?」

 私は驚いて窓に駆け寄った。確かに坪井くんが立っている。

私に気が付いた坪井くんはノートを片手にこちらに手を振ってきた。

「今行くから」

 そう言って携帯を切ると私は音を立てて階段を駆け降りた。部屋着に邪魔な前髪をゴムで結んだ気の抜けた格好。それを見られたくはないが、彼を待たせるよりはましだと自分に言い聞かせる。

「坪井くん!」

「あ、結衣ちゃん。急に押しかけてごめんね。これ、ノート。すごく助かったよ。ありがとう」

 渡されたノートを受け取る。

「別に月曜日に返してもらえればそれでよかったのに」

「ん~でも、月曜日小テストあるでしょ?結衣ちゃんノートないと困るかなって思って」

 私の可愛げのない言葉にも坪井くんは優しい笑顔を浮かべてくれる。

「…ありがとう」

「いえいえ。ありがとうは俺の方だしね」

「でも、なんで家わかったの?」

「この前一回送ったからね。その時に覚えた」

 そう言えばこの前勉強を教えていて遅くなってしまった時があった。空はそんなに暗くなかったので1人で帰れると言ったのだが、坪井くんは「送る」の一点張りだったのだ。

「そういうことの記憶力はいいんだね」

「うう…。結衣ちゃんきついな」

「あはは。ごめん、ごめん。でも本当にありがとう。遠回りになっちゃうのにごめんね」

「それはいいんだけどね」

 含みのある言い方に私は首を傾げる。

「結衣ちゃん。今日俺の『助けて』メッセージ無視して帰ったでしょう?」

「…」

「女の子は可愛いけど集団だと怖いんだよね…」

「ごめん、ごめん。だけど、楽しそうにしてたじゃない」

「でも、結衣ちゃんと一緒の方が楽しいよ」

 彼がさらりと吐く言葉に私は時々言葉を忘れる。

必死で距離を保っているのだから惑わすような言葉を言わないでほしい。

「だからさ!俺を一人で置いて行ったお詫びしてよ」

「…お詫び?」

「そう」

「それって自分から言い出すものじゃないでしょう?」

「だって、結衣ちゃんあんまり悪いと思ってないんだもん」

「…ま、それは。可愛い女の子たちに囲まれて嫌な人はいないでしょう?」

「いや、それは楽しかったけどね。でも、俺は結衣ちゃんとがよかったの。だから、お詫びして」

「……月曜日のお昼おごろうか?」

「え?お詫びしてくれるの?」

「だって坪井くんしつこいんだもん」

「うう…。今日の結衣ちゃん厳しいな」

 腕を目元にやり、泣き真似をする。

「はいはい。ごめんね」

 そんな投げやりな謝罪でも彼は満足そうに頷いた。

「それで…」と少しだけ躊躇う表情を見せた。

「…?」

「…あのね。お詫びしてくれるなら、おごるじゃなくてお願いがあるんだけど」

「叶えられる範囲ならどうぞ?」

「結衣ちゃん、明日暇?」

「何、急に?」

「いいから!明日暇?」

「…暇だけど?」

「じゃあ、明日一緒に買い物に行こう?」

「…え?」

「買い物!」

「…なんで?」

「いつも結衣ちゃんにはお世話になってるから何か返したいと思ってたんだよね。だから一緒に遊びに行こう?」

「いいよ、別にそんなの。私も好きでしてることだから」

 私の言葉に彼は「だめ~」と腕でバツをつくる。

「俺が何かしないと気が済まないの!結衣ちゃん、暇なんでしょ?じゃあ明日1時に迎え来るから」

 そう言うと坪井くんは慌てる私をよそに手を振って帰って行った。

坪井くんの姿が見えなくなった頃、私は急にそわそわしてきた。

いつものお礼とは言え、坪井くんと休日に一緒に出かける。その事実が嬉しくて、けれど素直に喜べない自分がいた。

深入りしたくない。

それが私の一番の本音。傷つくのは怖い。

中学生の頃、好きな人に私が好きな事が伝わって嫌な顔をされたことを急に思い出してしまった。

自分に自信がない私はどうしても恋に臆病になってしまう。

しかも、坪井くんには好きな人がいるのだ。

あんなに綺麗な人が好きならば、私のことを見てくれる筈もない。

彼はただ純粋に友だちとして遊びに誘っているだけ。

頭では理解しているのに。それでいいとわかっているのに。少しだけ哀しくなるのはどうしてだろう。

自分の思いが矛盾して、嫌になる。

坪井くんは格好良くて優しくて、きっとこれ以上一緒にいたら、もっと好きになってしまう。好かれたいと思ってしまう。

だから、私は完璧な友だちにならなきゃいけないのに。



 次の日は、雲一つない快晴で、吹いてくる風も心地よかった。

私は、Tシャツにジーンズというラフな格好で坪井くんが来るのを待っていた。

 約束の時刻の5分前。坪井くんは小走りでやってきた。

「おはよう。暑いから家の中で待っていてくれてよかったのに」

「おはよう。さっき出てきたばかりだから大丈夫だよ。ありがとう」

「ならいいけどね」

「坪井くんこそ、走ってこなくてもよかったのに」

「結衣ちゃん待たせるわけにはいかないもん」

「はいはい。ありがとう」

「ところで、どこ行きたい?」

「どこでもいいよ?」

「それじゃあ、映画でもいい?」

「うん」

 私の家の近くには、大型の複合施設がある。

色々なお店が入っており、最上階には映画館も設備されている。ショッピングもでき、映画も見られるため友だちとはよくそこに遊びに行く。

 友人に見られたら厄介だな、と思いながらも私たちはショッピングビルに向かった。

 坪井くんが選んだのは、最近話題のラブストーリー。

出演者も豪華であるが、それに劣らず内容がよいと評判だ。見たと言っていた友だちのほとんどが感動したといっていた。

「『君がサヨナラを告げても…』か。最近話題だよね?私も見たいと思ってたんだ」

「この映画、実話をもとにつくられたらしいよ?」

「そうなんだ。楽しみだね」

「うん。俺たちの席Lの23と24だって」

「ちょうど見やすい所が空いててよかったね」

 しばらくすると、暗くなり、上映が始まった。

 

 始まると同時に、大きな桜の木がスクリーンに映った。淡いピンクの花びらが静かに舞う。

髪の長い女性と主人公が桜の下に立っていた。

「別れよう」

女性が主人公に告げる。

私は、あの日の情景を思い出した。

気になって坪井くんを横目で見る。坪井くんは真剣な表情で映画を見ていた。

私の視線に気が付いたのか、坪井くんがこちらを見て、「ん?」と首を傾げる。

「ごめん。なんでもない」

 そう言って私は目の前の映画に集中した。

 夢を追う主人公のために別れを決意した彼女。彼女のために夢を追いかけた主人公。2人の思いが縺れ、すれ違い、それでも最後には交わった。

『君がサヨナラを告げでも、僕は君に愛の言葉を贈るよ』

 主人公はそう言うと彼女を思いっきり抱きしめた。彼女も静かに主人公の背に腕を回す。

感動的なシーンに私は思わず涙した。横を見ると坪井くんも綺麗な涙を流している。

 思い出したくはないのに、またあの時のことを思い出してしまった。

坪井くんの彼女もきっと、愛の言葉を望んでいたのだろう。だから、あんな哀しそうな顔をしていたんだ。

 坪井くんは今でも彼女のことが好きで、きっと彼女も坪井くんのことをまだ好きなのだと思う。

 両思いなのにすれ違う2人が作中の2人と重なった。

私はきっと、主人公の背を押した主人公の友だちにならないといけない。主人公のことが好きなのに、それを伝えることなく、彼の背中を押したその人のように。

自分を頼ってきてくれることを嬉しく思いながらもそんな自分を叱り、主人公の幸せだけを考えた彼女のように。

 

 映画が終わり、エンドロールが流れる。

「面白かったね」

「うん」

泣いたために目が少しだけ痛い。よく見ると坪井くんの目も少し赤くなっていた。

「この後どうしようか?結衣ちゃん、どうしたい?」

「ん~、ちょっとお腹が空いたかも」

「下の階にカフェがあったから、そこに入る?」

「うん」

 そして私たちは映画館を出ようと席を立とうとした。しかし、足は止まった。

「恭介!」

 不意に聞こえたそんな声によって。細く、綺麗な声。

「…紗智」

 坪井くんの小さな声が耳に入る。

黒髪の綺麗な女性が坪井くんの肩を掴んでいた。彼女だった。

桜の下で坪井くんに「別れよう」と告げた、坪井くんが今でも好きな人。

 彼女は私を見ると慌てたように坪井くんから手を離した。

「ぐ、偶然だね。…彼女?」

「違います。ただのクラスメイトです」

 坪井くんが言葉を発する前に私はそう伝えていた。

彼女の緊張した表情が一瞬安心で緩む。

「恭介。…あの…私、どうしても話したいことがあるの。ずっと話したかったけど、アドレスも電話番号も変わってたから連絡できなくて。恭介の高校に行っても会えなかったの。お願い。話を聞いて」

「…見てわからない?今俺、この子とデート中なんだけど」

 初めて聞く坪井くんの冷たい口調。『デート』という嬉しい筈の単語がひどく滑稽に思えた。

「…恭介。お願い聞いて。今言わなきゃ私絶対後悔する。……私、ずっとあの日のこと謝りたかったの」

 彼女の言葉を無視して、坪井くんは私の肩に手をかける。

「結衣ちゃん、行こう」

「恭介!お願い…」

 エンドロールも終わった映画館は明るく、だけれど人はほとんど残っていない。先ほどまでちらちらと私たちを見ている人は数人いたがもういない。

沈黙が痛かった。初めて見る表情の坪井くんは別人に見えて怖かった。

「結衣ちゃん、行こう」

 坪井くんが私の背を軽く押す。けれど私は動かなかった。

「結衣ちゃん?」

「…ちゃんと話した方がいいと思う」

「え?」

「私、見たの。半年前、校庭の桜の木の下で2人が話しているところ。…坪井くんの涙も、彼女の哀しそうな顔も。…まだ好きなんでしょう?ただすれ違っちゃっただけなんだよ、きっと。だから、ちゃんと話しなよ。……ちゃんと話さないと、もう二度と坪井くんと口きかないからね」

 私は肩にかかっている坪井くんの腕を外した。

こちらを見ている彼女に一礼すると、映画館を速足で後にする。

 映画に出てきた主人公の友だちのように背中を押すことはできただろうか。

一瞬そんなことを考えたが、追いかけてくる足音を気にしている時点で、やっぱり私はそんなに強い人にはなれないのだと思った。

 土曜日のショッピングビルはにぎわっていて、BGMも大きな音で流れている。その喧騒の中、私は耐えきれず、少しだけ泣いた。

ビルの外に出ると、まだ太陽は明るくて、街はにぎわっていた。セミの鳴く声が聞こえる。

私は後ろを振り返った。

急ぎ足で歩いている人たちはいても、坪井くんの姿は見つけられなかった。

今頃は彼女と話し合っているのだろう。彼女があの日のことを謝罪し、今でも好きだと告げるのだ。そして坪井くんもそれに頷く。

再び美男美女のカップルが誕生するのだ。

きっと明日から坪井くんが時より見せる哀しい表情がなくなる。私は、明日、「どうなったの?」と聞いて、それから「おめでとう」と笑わなければならない。

いつものようにノートを貸して、笑い合わなければならないのだ。映画に出ていた主人公の友だちのよう。

 セミの声が聞こえる。暑さで汗が出てきた。けれど、なんとなく家に帰りたくなくて、遠回りの道を選ぶことにした。


 20分で帰れるところを1時間かけて帰った。空は徐々にオレンジに染まりつつある。

やっと過ごしやすい気温にまで下がり始めていた。

決して平気になったとは言えないが、それでも心はだいぶ落ち着いた。そう思った頃にちょうど家が見えてきた。

しかしそれと同時に見知った人影も目に入る。

家の塀の前にしゃがみ、汗を拭いているその人影は、間違いなく坪井くんだった。

 私が彼に気付き、歩みを止めた瞬間、彼もこちらに気が付いた。

「結衣ちゃん!」

 彼の声に私は思わず駆けていた。

逃げたかったのではないと思う。ただどんな顔をしていいかわからなかった。心の準備は一晩かけてするつもりだったから。

「結衣ちゃん、待って!」

 坪井くんもすぐに追いかけてくる。全力疾走したが、所詮男と女。しかも、坪井くんは運動神経がいい。

私はすぐに捕まった。

「なんで、逃げるの?」

 私は必死で首を横に振る。質問に応えられないほど息が上がっていた。

私たちの目の前にはちょうど小さな公園があった。

坪井くんは私の腕を掴み、公園に入っていく。水色に塗られたベンチに私を座らせた。

近くの自動販売機でお茶を買い私に差し出してくれる。

 冷たいお茶が喉を通る。息が徐々に整い、私は落ち着きを取り戻した。

「大丈夫?」

そう言いながら坪井くんが私の隣に座る。

「ありがとう」

「ところで結衣ちゃん、なんでそんなに必死に逃げたの?」

 怒気が含まれた言い方に私の肩は僅かに上がった。

「ごめんね」

「うん。ごめん、じゃなくてね」

「…」

「…じゃなくて、あ~。こんな風な言い方したいんじゃないのに」

「…?」

 急に頭を抱える坪井くんに私は首を傾げる。

「違うんだ。結衣ちゃんを責めたいんじゃなくて…。ただ、あんなに必死に逃げられてちょっとショックだったって言うか」

「…ごめん」

「あ~そうじゃなくて。謝ってほしいんじゃなくて…。どうしてか、聞きたいんだ。どうして、逃げたのか。どうして、紗智と話せなんて言ったのか。結衣ちゃんがどう思ってるかちゃんと知りたいんだ」

「…」

「半年前に見たって言ってたよね?桜の木の下で」

「うん」

「俺が…フラれるところ見たんだよね?」

 私は小さく頷いた。

「ごめんね。…綺麗なカップルがいるなって思って、坪井くんたちを見てたの。そしたら、別れ話が始まって…」

「うん」

「坪井くんの彼女が何か言ってもらいたそうな顔をしてたのも、坪井くんが哀しそうな顔をしてたのも見てたの。…時々坪井くんが哀しそうな顔をするのも知ってる。だから、まだ好きなんだなって。…お互いがお互いのこと想ってるんだなって思ったの」

「だから、俺に紗智とちゃんと話せって言ったの?」

「うん。だって…」

「だって…何?」

「だって……坪井くん、紗智さんのこと好きでしょう?」

 風が吹いた。

髪が揺れる。このまま風の音にまぎれて何も聞こえなくなればいいと思った。

 隣で坪井くんが立ち上がる気配がした。

 不意に目の前に人影ができる。

坪井くんが立っていた。

「もう、好きじゃないよ。さっきも、そう告げてきた」

「…」

「やり直そうって言われたけど、無理だって伝えてきたんだ」

「だって、坪井くんは…」

 ずっと見てきたからこそ、私は知っている。彼の哀しそうな顔も、時より桜の木を見てしまう癖も。けれど私の言葉は続かなかった。坪井くんがかぶせるように話し始めたから。

「…俺、自分でも、さっき紗智に会うまでまだ紗智のことが好きだと思ってた。でも…違うんだ」

 何を言っているのかわからなかった。

私は何もせず、ただ、坪井くんの顔を見上げていた。

「紗智の哀しそうな顔より、結衣ちゃんの哀しそうな顔の方が見たくないよ」

「…」

「結衣ちゃんに嫌われる方が嫌なんだ。だから、ちゃんと紗智と話した」

「…」

「ノートだって、結衣ちゃんのは見やすいけれど、他の人のノートを借りても代用できる。でも、俺は結衣ちゃんのじゃないとだめだし、結衣ちゃんと話してる時が一番楽しい」

「…」

「…今日だってお礼じゃなくて、ただ、結衣ちゃんとデートしたかっただけなんだ」

「…違うよ。坪井くん。だって…私知ってる。坪井くんが時々すごく哀しそうな顔すること。…あの時の、桜の木の下で見た顔と同じだった。…まだ、紗智さんが好きなんだよ」

「俺は、結衣ちゃんと一緒にいるようになってから、毎日楽しくて、哀しそうな顔したつもりなんてないよ?」

「私、ずっと見てたから、…してたよ?哀しそうな顔」

 私の言葉に坪井くんは少し考えるような素振りを見せた。

「…確かに紗智と別れて哀しかったよ。初めて付き合ったのが紗智だったからね。…でも、それだけなんだ」

「…」

「結衣ちゃんが好きなんだ」

 その言葉に溜まっていた涙が零れ落ちた。

けれど気にせず首を振る。

「私なんて可愛くないし、性格良くないし…」

「結衣ちゃんは可愛いよ。優しいし。…だって、結衣ちゃんは俺のために泣いてくれた」

「…」

「俺ね、知ってたんだ。結衣ちゃんがいたこと。校庭の桜の木の下にいたの見てたんだ」

「…」

「少し離れた桜の木の下に、結衣ちゃんがいて、座りこんで泣いてた。…なんで泣いてるのかなんてわからなかったけど、なぜか俺は、俺の代わりに泣いてくれている気がした。それを見て、心が楽になったんだ。…そしたら次の日同じクラスに結衣ちゃんがいて、気付いたら一緒にいるようになった。一緒に笑って、話して、優しくしてもらって。結衣ちゃんの隣を独占してた。…嬉しかったんだ」

「…」

「信じて。俺は、結衣ちゃんが好きだよ」

「だって…私、可愛くない」

「可愛いよ。客観的に見てどうかなんてわからないけど、俺から見たら誰よりも可愛い」

「…」

「俺は…紗智には無理だったけど。でも、結衣ちゃんには、たとえ『サヨナラ』って言われても、俺は好きだよって伝えるよ」

『君がサヨナラを告げでも、僕は君に愛の言葉を贈るよ』

 さっき見た映画のフレーズ。

 涙で視界が歪む。真剣な顔をした坪井くんが目の前にいた。

涙が頬を伝う。それを坪井くんが優しく吹いてくれた。

「ごめんね。…泣かせたいわけじゃないんだ」

 困ったような表情。

違う。そんな顔させたいわけじゃない。

「でも、ごめん。結衣ちゃんには『いいよ』って言えない」

 それは私と坪井くんにしかわからない、最上級の愛の言葉に聞こえた。

「…うん。……『いいよ』なんて言わないで。……私も、坪井くんが大好きだから」

 そっと優しく包まれる。

「ありがとう。結衣ちゃん」

「ごめんね。…ありがとう。坪井くん」

 目が合った。2人で笑い合う。

 オレンジに染まった空がやけに綺麗に見えた。「…もう泣きやんだ?」

「うん。…ごめんね」

「ううん。俺も泣かせてごめんね」

「…坪井くん」

「ストップ!」

「え?」

「坪井くんってよそよそしくない?恭介がいいな、俺」

「……恥ずかしいから、無理」

「え~。俺は今すぐにでも、『結衣』って呼べるのに」

 坪井くんが急に呼び捨てにするから私の体温は急激に上がった。

「…耳まで真っ赤」

「うるさい!」

「も~結衣は可愛いな」

「…これからも『坪井くん』決定ね」

「え~、結衣~」

「それに……皆、『恭介』って呼ぶんだもん。名字で呼ぶのは私だけだし」

「結衣」

 少しだけ坪井くんの声が低くなった。

怒ったのかと不安になる。けれどそこには満面の笑みをした坪井くん。

 そして、いつの間にか彼の腕の中にいた。

「…え?」

「可愛すぎ、それ」

「…何言ってんの?」

「いいよ。今はまだ、『坪井くん』でも。結衣だけ特別だしね」

「…」

 自分で言った言葉が急に恥ずかしくなる。

「でも、もう少ししたら、『恭介』って呼んでね」

「…練習してみる」

「うん。楽しみにしてるね」

 そう言って笑う坪井くんが本当に嬉しそうな顔をしてたから、今度こっそり練習してみようと思ったのは内緒だ。

 

 君がサヨナラを告げたとしても、きっと私も愛の言葉を贈るよ。




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