恋の悪魔
「IQ190の天才?」
「うん、新聞に書いてあった。しかもお家は病院なんだって……」
「へえ~、やっぱり新聞に載ってたのね」
廊下を掃除していた里花と未咲。その最中に、里花は新聞の記事の事を未咲に打ち明けた。未咲はほうきに顎を載せながら、里花が暗い表情なのを不思議に思う。
「なんでそんな顔をするのよ」
「だって……なんだか急に夏見くんが知らない人に思えて。住んでる世界が違うっていうか……」
里花は壁に寄り掛かりながら、どこか寂しげな眼をする。未咲は「馬鹿ねえ」と言って笑った。
「そんなことを夏見淳也が聞いたら、きっと悲しむんじゃない?」
「だって……」
「どんな彼でも、彼は彼でしょう」
そう言って里花の頭を撫でる未咲。それがあまりに優しいから、里花は子供に戻ったような心地で思わず笑みを零した。
「ありがとう、未咲」
放課後、未咲と一緒に帰る支度をしていると、里花の携帯に淳也からメールが届いていた。早速メールを読むと、それは思いがけない内容だった。
「里花、早く行こう」
先に支度を終えた未咲が里花のもとにやって来るが、里花は携帯を見つめたまま静止している。
「ちょっと、里花?」
「どうしよう」
「え?」
「夏見くんが今、校門のところに居るって」
「は?」
今行くから待ってて欲しいというメールを返信してから、2人はとりあえず教室を出た。予想外の行動に里花は驚きを隠せなかったが、未咲の方はかねてから聞いていた“夏見淳也”がどんな人物なのか、内心興奮しているようだ。途中、駐輪所から里花の自転車を引っ張り出し、彼女たちは校門に向かった。
「あ、あそこ」
すぐに、K学の制服を着た彼の姿が彼女たちの瞳に映った。彼のそばを通り過ぎる他の女の子たちが、憧れと好奇の眼差しをその男子に向けている。
「かっこいい~」
耳打ちするように、未咲は彼への賞賛を漏らす。
2人がこちらに向かってくるのに気付いた彼は、途端に破顔しながら片手を挙げた。その笑顔に自分の顔も蕩けそうになるのを堪えながら里花も小刻みに手を振った。
「里花ちゃん、ごめんね。急に来ちゃって」
「ううん、今日は部活もないから大丈夫。それよりどうしたの?」
「あ、うん、ちょっと話しがあって……」
「? うん」
「でもその前に、そっちの子は?」淳也は里花の背後に目配せした。
そこには、意味深にニヤニヤとしながら2人のやりとりを聞いている未咲がいた。里花は少し慌てて紹介を始める。
「あ、彼女は私の友達の神田未咲。未咲、こちらが夏見淳也くん」
「初めまして、神田です。噂は聞いてましたよ」
「夏見淳也です。どんな噂かどうかは、あえて聞かない事にするよ」
初対面の彼らの波長はなかなか合うようだった。
「じゃあ場所移そうか? 神田さんも一緒に」
「え、私はいいわよ」
「でもせっかくだし行こうよ。里花ちゃんのことも色々聞きたいし」
何気ない言葉に、里花の肌が独りでに赤らんでいく。
「あら、じゃあ教えてあげようかな。あーんなことや、こーんなことを」
「未咲、変なこと言わないでね」
里花には、いたずらっぽく笑う未咲に悪魔の尻尾が生えているのが見えた。
* *
この前里花と淳也がコーヒーを飲んだカフェに3人は入った。
ここに来る間も、淳也は当たり前のように里花の自転車を代わりに押してくれたり、店に入っても、当たり前のように自分が注文してくるから2人は席を取っておいてくれと言った。そんな姿を見て里花は、やっぱり彼は彼なのだと思えるような気がしていた。
3人分の飲み物を持ってやって来た彼が揃い、ようやく落ち着いた雰囲気に包まれる。
「里花ちゃんて何の部活に入ってるの?」
「美術部よ」
「へえ、今度見てみたいな」
「ダメ。下手だから」
その謙虚な言葉に、未咲はすかさず「うそつき」と突っ込む。ついでに、1年生のときの美術展で里花の作品が佳作に入ったことも未咲によって明らかにされた。
「里花はね、テスト前に“全然勉強してないよ”って言っときながら普通に良い点取ってるような子なのよ」
「そんなことないよっ」
目くじらを立てる里花とは対照的に、彼女たちの様子を淳也は可笑しそうに見つめた。こんな風に怒る彼女は新鮮だった。
「そうえば、今日は髪結ってるんだね」
「あ、うん。学校では邪魔だから」
里花はひとつに結った髪の毛を触りながら、「変かな」と少し心配になる。淳也はそっと首を横に振った。
「全然変じゃない。でも下ろしてるのも可愛いよね」
「!」
深い意味はないと自分に言い聞かせつつも、あのキラースマイルでそんなことを言われてしまっては誰も敵わないと里花は思う。隣に座る未咲にもその恥ずかしさが感染していた。
「……夏見くんさあ、それわざとなの?」
「え? 何が?」
「んー……読めないわ」
「?」
真意が分からない淳也の発言に未咲は頭を抱えるようにして小さく唸った。もちろん淳也としては、感じたことをそのまま言っただけなのだが。
3人のお喋りはその後もしばらく続いたが、ほとんどが里花のことや彼女たちの学校のことになっていた。そのことに里花が気付き始めた頃には、すでに彼女のタイムリミットが迫っていた。
しかし、それを知らない淳也はチャンスとばかりに密かにタイミングを見計らっていた。未咲がついさっき化粧室へ行きまたあの時のように2人きりになったため、彼にとっては任務を遂行する絶好の機会が訪れていたのだ。
「夏見くん、今何時?」
淳也の付けていたステンレスの腕時計が目に入り、里花は訊いた。
「もうすぐ5時45分だけど」
「そっか、ありがとう」
「何か予定?」
「うん、このあと6時半から予備校があるの。もうそろそろ行かないと」
「……」
その言葉に淳也はなぜか急にそわそわし始めた。スティックシュガーの空袋を器用に結び、それを手の中で転がす。
「あの、里花ちゃん、さっき話したいことがあるって言ったんだけど」
「あっ、そうだったよね、ごめん」
里花は彼の言ったことを忘れて他のお喋りに夢中になっていた自分が少し恥ずかしかった。
「何? 話したいことって」
「うん……あの、お願いがあって」
「?」
「来週の休みに、2人でどこかに出かけたいんだ……」
「……出かける?」
手のひらの中の砂糖の袋が、握り締めた拳のせいでくしゃくしゃに潰れていた。淳也は緊張で身体を強張らせつつも、彼女と眼を合わせたまま返事を待った。
一方の里花は、初め“出かける”という意味があまりピンと来ていなかった。こんな事を異性から言われるなんて生まれて初めてだったのだから。それがようやくデートの誘いだということを理解した時には、嬉しさやら驚きやらが彼女のなかで存分に溢れているようだった。
「あの……、ダメかな?」不安げに訊く淳也。
里花は目一杯首を振った。
「ううんっ、大丈夫。日曜なら何もないから」
「そっか、よかったあ」
安堵感の広がる彼の笑顔に、里花もつられて微笑んだ。彼らの気持ちはすでに、遠足を待ちわびる子供のようになっていた。
その後、化粧室から戻って来た未咲は2人の様子が変わっているのをすばやく感じ取った。何か進展があったのだろうと、彼女は密かにほくそ笑む。未咲のもくろみはどうやら成功したらしい。
「里花、あとで何があったか教えなさいよ」
「……」わざとらしく素知らぬ顔をする里花。
結局未咲は最後まで、キューピットに化けた悪魔のようだった。