ランチブレイク
宙に浮いているような、ふわふわの雲に乗っているようだった。
少なくとも未咲にはそう見える。その原因が一体何なのか、彼女の巧妙な取り調べですぐにそれは判明した。
「それでね、偶然会うことができたの。信じられないでしょう?」
恋をしないなどとつまらない事を言っていた女が、いま目の前で奇跡の再会話をやや興奮気味に話してくる。
でも彼女はきっと「べつに好きとかじゃないの」などと可愛い強がりを言うに決まっていると未咲には予想できていた。
「それで? その美少年くんが好きになったんだ」
「え、べつにそういうんじゃないのよ……」ほらね。未咲は得意げに心の中で呟いた。
昼休み。いつものように2人で机をくっつけて昼食を食べていた。里花は未咲の弁当箱に箸を伸ばし、彼女の嫌いなプチトマトを挟む。
「でも、“なつみ じゅんや”って名前、なんかどこかで聞いた事あるのよねえ……」
密かに頭に引っかかっていたことを未咲は何気なく口にした。
「どこかって?」
「んー、なんか何年か前に新聞とかで見たような……新聞って読まないんだけど、授業で使う記事を探してた時に偶然読んだ覚えがあるのよ」
曖昧な記憶を手繰り寄せようと彼女は箸を口にくわえたまま静止するが、結局それ以上の引き出しは開けられそうもなかった。
「有名人だったの?」
「さあ、思い出せない……ああ、気になる~」
未咲はフォークを咥えたまま天井を仰いだ。
* *
“また、どこかで会おうね。”
初めて届いた彼女からのメールが、彼にはひどく眩しく見えた。どこか夢見心地のようなうっとりした顔で、淳也はしばらく携帯の画面と向き合っていた。「気持ち悪いぞ」と、繭村に揶揄されるまでは。
いつものように数学準備室に入り浸っていた淳也。定位置である隅っこのソファの上で彼は昨日のことを反芻していた。コーヒー豆の薫り立つ店内で、眼を合わせるのも気恥ずかしいような、だけど今まで味わった事のない時間。
「前に言ってた女の子と会えたのか」
「え、分かるの?」
「誰でも分かるだろ。お前の顔見てたら」
ポカンとする淳也に向かって、繭村はからかうようにスーツを脱ぎ捨てた。
「さっさとデートに誘えよ」
「まだ早いよ」
「気になってるなら迷わず行動だろ」
淳也は口を噤んだ。里花のことが気になっていると再認識させられると、途端にこれから自分はどう振る舞えば良いのか悩ましく思えてきたのだ。
「あ、話変わるけどな、お前の弟、昨日夜遊びしたとかで注意されてたぞ。母親を呼び出しても“忙しい”の一点張りで来てくれなかったみたいだし」
「……」淳也は瞳を俯かせた。
現在中学2年生の裕紀は兄と同じN学院の中学に通っているが、たまに校内ですれ違うことがあっても2人は相変わらず眼を合わせる事すらなかった。いや、合わせてくれないと言った方が正しい。
「……最近、裕紀が可哀想に見える。俺は母さんに従うつもりはないから関係ないけど、でも裕紀は何かに苦しんでると思う」
「お前には分かるのか」
「なんとなく」
「弟にはやさしいんだ」
「んー、やさしさじゃないと思う。……“負い目”を感じてるから敏感なのかもしれない」
「……」
繭村には、その言葉の真意が手に取るように伝わった。自分が自由な道を選ぶことで何らかの犠牲が払われることを彼は十分に承知しているのだった。
この深刻な空気を遮るように、昼休みを終えるチャイムが鳴る。繭村に急かされて、淳也は重い腰をゆっくりと上げた。
「デートの誘いは、メールじゃなくて直接会って言えよ。最初が肝心だからな」
「それ気合い入りすぎじゃない?」
「んなこと言って、お前実は肉食だろ」
「まあ、野菜よりは肉の方が好きだけど」
「……」
繭村は顔を引き攣らせて淳也を見た。“ダメだこいつ”と言わんばかりに。
遅れて教室に入ると、すでに授業が始まっていた。
悪びれる様子もなく、廊下側の真ん中の席に淳也が堂々と座っても教師は何ら気にする事なく文学史の解説を続けている。どの教師であっても、これがいつもの授業風景だ。普通という名の異常。
机に何も出さないまま、淳也は黒板をじっと見つめた。
「先生、明治時代における日本とヨーロッパの自然主義文学の相違について意見を聞かせてください」
一気にこの場を支配するような唐突さで、淳也はそう言った。
板書する教師のチョークが止まり、クラスの視線が一点に注がれる。それは屈辱的とも言えるような、明らかに教師を挑発する発言。
でも少し間を置いた後、教師が言ったのは「それはまた今度話します」という言葉だけ。
淳也には、もう慣れっこだった。自分に向けられる“特別”という臭いを嗅がされることは。
でも戸川里花のことを頭に思い描けば、少しはその魔物のような臭いが消される気がした。彼女は今、何をしてるだろう。彼は瞼を閉じた。