壁は絆を固くする
サドルに跨ったまま、淳也は彼女の携帯を鳴らした。
彼女の家の2階には、ある一室だけ明かりが灯っていた。
『もしもし』
「里花ちゃん、俺だけど」
『夏見くん?』
全ての発端になった例の別れ話から数日。電話やメールのやり取りはしていたものの、2人が直接会うことはなかった。
だから里花の声は、どこか彼を恋しく思うような色で溢れていた。
「あのね、今どこに居ると思う?」
『え? どこって……』
「窓の外、見て」
『? うん』
電話口から、彼女の移動する音が聞こえてくる。
2階の部屋のカーテン越しに彼女の影が現れ、そしてそのカーテンを捲りながら携帯を握った里花の姿が街灯に照らされて見えた。
淳也が大きく手を振ると、それに気付いた彼女と眼が合う。
里花は窓に手を付き、信じられないという顔で口をパクパクさせている。
『あっ、あの、ちょっと待っててね!』
「うん」
電話を切り、自転車を道路脇に止めて淳也は里花が来るのを待った。
ピンクの薄手のカーディガンを羽織りながら、間もなく彼女は現れた。2人とも、昂揚した気持ちを抑えたまま何日か振りの再会を果たした。
「ごめん、急に来てしまって」
「ううん、大丈夫だけど、どうしたの?」
「どうしても直接会って話をしたくて……」
里花は途端に緊張感を覚えた。夜8時過ぎに、ここに来てまで話したい事など一つしかない。
「……なにか結論が出たの?」
「うん、その事を早く里花ちゃんに知らせたくて来ちゃったんだ……今まで待たせてごめんね」
聞きたいような聞きたくないような、里花はそんな怖れを抱く。
「結果から話すと、まだ俺たちのこととか俺の進路についてはっきりとは許してもらえなかった」
「……そう」
どこかで予想はしていたものの、落胆は隠せなかった。そんな里花を見て、淳也は彼女の手をそっと握った。
「でもね、初めて家族3人で腹を割って話し合って、確実に全員が変わったんだ……良い方向に」
彼女を安心させるような声。
「だから、きっと大丈夫。
いつか絶対に母さんに認めてもらうから、これからも俺と一緒にいてほしい」
絶対に逃がしてはくれないような、そんな笑顔が里花の目の前に広がっていた。その甘い篭に眩暈を覚えながら彼女は言う。
「私、本当に夏見くんを信じてない訳じゃなかったの……でも、夏見くんの家のことを考えたら、どうしたらいいのか分からなくなって……あんなこと言ってごめんなさい」
「母さんから色々吹き込まれたんでしょ? 里花ちゃんは悪くないよ」
「怒ってないの?」
「まさか」
「本当に……?」
上目遣いに不安そうな眼で淳也を見上げる彼女。
このままキスをしてしまいそうになるのを堪えながら彼は応えた。
「里花ちゃんと離れるなんて無理だって、言ったでしょう? 里花ちゃん以外いらない」
歯の浮くような言葉に、彼女は首まで赤くなっていった。里花は握られている方の手をフラフラと揺らしながら、照れくささを紛らわそうとする。
「わ、私……この数日間、夏見くんに会えなくて、すごく寂しかった」
「うん、俺も」
「だから私も……夏見くんから離れられない」
これからまた、よろしく。
そんな言葉を心の中で交わし合うように、2人は見つめ合った。
「……“恋の翼でこの壁を飛び越えてきました”」
いつか、淳也が諳んじた『ロミオとジュリエット』の一節を、里花がふいに口にした。
「本当に飛び越えて来たみたい」
「だって前に言ったでしょ。里花ちゃんのためなら飛び越えられるって」
淳也が冗談ぽく言うと、里花は小さく吹き出した。
そして思ったのだ。その壁こそが、2人の絆を強くしたのかもしれないと。