この恋を阻む者
「ご家族は?」
「今は誰もいないの。お母さんは地域の集まりがあって、圭ちゃんはバイトがあるし」
初めて入る彼女の部屋。
ごく標準的な広さだが、淳也にとっては可愛らしいサイズの部屋に見えた。家具や小物は淡い色で統一され、目に付いたジュエリーボックスにはヘアゴムやアクセサリーが宝石のように散りばめられていた。
恋人の部屋に招かれるなど、誰しも心浮かれる瞬間のはず。でも今の淳也にとっては天国か地獄か、その決断が下されるような気分だった。
りんごジュースで良かった? と訊きながら、里花はテーブルにグラスを置いた。本当はこんなものを呑気に飲んでいられるような精神状態ではなかったが、来客への最低限のもてなしは必要だ。
テーブルを挟んで腰を下ろしたまま、2人はしばし口を噤んだ。
一体何を言われるのか、淳也は怖かった。
何をどのように話そうか、里花は困惑していた。
「……あのね、夏見くん」
「うん」
意を決したような里花の表情に、淳也は思わず唾を飲み込んだ。
「この何日か、ずっと考えてたことがあるの」
「うん……」
「……私……」
そこで彼女の瞳が、薄い涙の膜で光った。
どうして泣くのだと、淳也は不安に任せて乱暴に問い質しそうになった。でも、こんなにも儚い様子で何かに思い悩んでいる彼女を見るのは初めてで、彼はおとなしく里花の言葉を待つしかなかった。
「……ちゃんとたくさん考えてね、それで……思ったの」
「……」
里花の眼が、淳也の瞳をしっかりと捕えた。
「やっぱり私たち、付き合わない方が良いのかもしれない……って」
悪い予感は、的中した。
突然のお別れ宣言に淳也は茫然とするしかなかった。
彼は努めて冷静な頭を作ろうとしたが、すぐに声が出ない。
息苦しくなるような、耐え切れない雰囲気がしばらく流れていった。
「……それは、何か俺がイヤなことでもしたから?」
「違うのっ、そうじゃないの」
「じゃあどうして急にそんなこと言うの? 全然理解できない」
一方的に責めるような口調に、里花の眼がまた涙で光った。俺の方が泣きたいと、彼は密かに思う。
「私……夏見くんが大好き」
「だったら」
「だから駄目なの……夏見くんは将来、立派なお家を継ぐ人だから……」
淳也はますます理解不能という顔をする。
「俺、前に言ったよね? 家は継がないって。家なんて関係ないよ」
「もしそうなったとしても……夏見くんのお母さんが悲しむもん……」
「……」
その一言で、彼女がなぜこんな大それた別れ話を口にしたのか、淳也の中で合点が行った。
探るように、彼女に問いかける。
「……もしかして、母さんに何か言われたの?」
「……」
里花は眼を斜め下に泳がせた。それが決定的な証拠だった。
「なんで黙ってたの」憮然とした顔で言う。
「ごめんなさい……」
「何言われたのか知らないけど、あの人の話すことなんて信じないで」
「……でも、夏見くんのたった一人のお母さんでしょう?」
「……」
「私……そんな人の気持ちを無視できないよ……」
母がどんな手を使ったのかは知らない。
でも自分の知らない所で里花の心がすっかり彼女の手に絡め取られていた事に、淳也は愕然とするしかなかった。
母親への憎しみが、彼の中でますます色濃くなっていく。
「里花ちゃんは騙されてる。あの人の本性を分かってない」
「でもこれは私の意志で決めたことなの。夏見くんが家を継いでも継がなくても、私の存在が誰かを苦しめるなんて嫌……」
「意志だなんてウソだ。洗脳されたんだよ」
「そんな言い方ヒドイ」
「ヒドイのはどっち? 俺の言うことを信じないの?」
「そんなこと言ってない」
「じゃあ何で今さら、付き合わない方が良いなんて言うの? 撤回してよ」
「……それは」
「ほら、ヒドイのはどっちだよ。
俺に何も言わないで一人で悩んで、勝手に別れようとか言って……そんなの俺が、絶対認めない」
「……」
淳也は里花の傍に行くと、肩を抱いて自分の方へ引き寄せた。
その手が微かに震えている。
「お願いだから、俺の気持ちを無視しないで。里花ちゃんと離れるなんて、無理だから」
「……夏見くん……」
里花の髪に顔を埋めながら、淳也は囁いた。
「俺、家のこととか将来のこととか、はっきりとケジメ付けて来るから……だからそれまで、この事はとりあえず置いておいてほしい」
「……ケジメ?」
「うん、ちゃんと母さんと真剣に話をしてくる」
淳也の瞳に、決意が宿っていた。
そして、決して彼女を手放すまいと、淳也は里花の細い体を力強く抱きしめる。
「もう里花ちゃんを、悩ませないから……」
自分の人生、そして夏見家の行く末についてはっきりさせる時が来た―――。