美女の正体
ホテルの一室のような、広々とした洗面所。
柔軟剤の香りのするタオルで濡れた顔を拭いていると、鏡越しに母親の姿があった。
一瞬眼が合ったが、淳也は彼女を無視する。
「あの子は駄目よ」
「……」
その一言で、寝起きの脳みそが一気に冴えていった。淳也は母親の方を振り返る。
「息子に内緒で調査するなんて、悪趣味極まりないね」
「当然のことをしたまでよ。遊びならともかく、ずいぶん本気みたいだから」
メイクをせずともその美貌は変わらなかったが、淳也にはその顔が悪魔のようにしか見えなかった。
こういう事態をどこかで予期していたものの、母親の行動は早かった。
「まさか将来は結婚したいなんて言い出したら困るもの」
「……どうせ家は継がないんだから関係ない」
「やめて!」
頬を引っ叩かれるかと思うほどの形相だった。
「そんなこと許さないわ」千恵子は淳也の肩を強く掴む。
「あなたほどの有能な人間がこの家を守らないでどうするの? それ以外の道を進むなんてあり得ないわ」
「……」
「将来を見据えてお付き合いするなら、それなりの家柄と知性のある人でなければ認めないわ」
いい加減に目を覚まして欲しいと、彼女の眼は訴えていた。でもそれは、淳也にとっては母親への嫌悪感を増長するものでしかなかった。なぜこんなにも、彼女は自分の子供のことが分からないのだろうかと……。
「彼女とは別れない」
「別れないなら別れさせるまでよ」
「そんな事はさせない……」
「……」
タオルを床に投げつけて、淳也は洗面所を出て行った。
* *
傍目にも分かるような高級車が、校門の前に停車していた。
あまりに違和感のある光景に、下校する生徒も不審な目をしながらその横を通り過ぎて行く。
「なんだろう、あれ」
「さあ、実はこの学校に大金持ちがいたとか?」
いつもとは違う校門前の雰囲気に、里花と未咲も物珍しそうな顔でその車を見つめた。
すると、彼女たちの視線に反応するかのように、ふいに運転席のドアが開いた。
そこから出て来たのは、年齢不詳の美女。風で巻き毛が翻り、それすらも絵になってしまうような女性だった。
「うわ、キレイ」
2人がその姿に見惚れていると、なぜかその女性も彼女たちを見つめている。
「……里花の知り合い?」
「ううん……」
顔を見合わせて首を傾げていると、その人はモデルのように颯爽とした動きで彼女たちの方へ向かって来た。
すぐ傍で立ち止まると、長身のその女性は無表情のまま2人を見下ろした。いや、正確には彼女の視界には里花しか映っていなかった。
「……あなた、戸川里花さん?」
「え……」
見知らぬ人物がどうして自分の名前を知っているのか、里花は少し動揺する。
「そうですけど……」
「よかったわ、会えて」
よかったと言われても、この美女には全く見覚えがなかった。
「……あの、失礼ですが、どなたでしょうか」
恐る恐る尋ねると、その人の口元がなだらかに歪んだ。
「私、夏見淳也の母です」
まさか、の出来事だった。
突然目の前に現れた女性、それが自分の恋人の母親だったなんて誰が予想しただろう。
里花の手が急激に汗ばんでいく。すぐには声も出ず、自己紹介すら忘れてしまう始末だ。
「急に申し訳ないのだけど、あなたに少しお話があるの。今からお時間あるかしら」
にこりと笑い、やさしい声音だった。
でもどこかに、拒否することは許されないというニュアンスが含まれているように聞こえたのは気のせいだろうか。
しかも会ったばかりの恋人の母親と2人だけで話し合いなど、呼び出しをくらったいじめられっ子のように、とてもじゃないが生きた心地がしなさそうだった。
里花はうろたえた。
でも、わざわざ母親の方から出向いて来るような状況を考えれば、断る勇気など湧いてこなかった。
「……はい……分かりました」
千恵子はその返事に満足げに微笑んだ。
「じゃあ、あなたは自転車だし車には乗せられないから、とりあえず駅前で待ち合わせしましょう。いいかしら?」
「はい……」
「それじゃあ、また後ほどね」
そう言い残し、千恵子は去って行った。
となりで事の成り行きを見守っていた未咲は、里花に同情するように肩に手を置いた。
「里花、気を強く持って」
「……どうしよ……怖いよお」
今にも泣きべそを掻いてしまいそうな顔で、里花は未咲の腕に縋り付いた。
果たして、どんな結末が待っているのか―――。