図書館での攻防
「里花、予備校の前に時間あるなら、どっかでお茶でもしない?」
「えと、この後は夏見くんと約束があって……ごめんね」
「……」
今にも頬を膨らませて不満を言いだしそうな未咲の顔。でもここは堪えて親友としてオトナな対応をする。
「はいはい、分かったわよ。ロミオだか何だか知らないけど、大好きな彼氏が待ってるんだから仕様がないわよね」
「……未咲、拗ねないの」
「す、拗ねてなんかないわよっ。ただちょっと……最近付き合いが悪いなって思うだけで……」
口を尖らせる彼女に、里花は困ったような笑顔を向ける。
「未咲は彼氏つくらないの?」
「私は当分御免よ、前の彼氏と色々あったし。でも、K学の人とだったら考えても良いかなあ」
横目遣いに里花を見やる彼女の瞳が、キラリと光った。
「ちょっと、夏見くんを利用しないで」
「え~、いいじゃない紹介くらい」
「だって夏見くん友達いないもん」
「……アンタ、自分の彼氏に意外とヒドイ事言うのね」
「?」
きょとんとする里花の大物さに、もはや返す言葉もなかった。
*
区立の中央図書館。
N高とK学の中間地点におよそ位置し、2人が会うには丁度良い場所だった。2階の学習スペースに設けられた机の一番端に彼らは腰かけた。
里花は英語の参考書を開き、予備校の授業に向けて復習を進める。問題を解きながら几帳面にノートをまとめていくのだが、思うように彼女の手が動かない。
眉がピクピクと動いた。
「夏見くん……」
「ん?」
頬杖をつきながら、至近距離でじっと彼女の方を見つめていた淳也。周囲から見れば異様な光景だろう。
「あの……こっち見ないで? 気になっちゃうから」
「だって他にやることないんだもん。里花ちゃんを見るしかないじゃん」
「……その理屈おかしいと思う」
こそこそと小声でやり取りしながら、どうにか淳也を説得しようとする彼女。でも嫌がる彼女のそんな素振りすら可愛く思えて、淳也は逆に苛めたくなってしまう。里花と付き合い始めてからそんな変態の素質が見え隠れしていることを本人は自覚していないが。
「これ、whoじゃなくてwhoseだね」唐突にノートを指差す彼。
「?」
「このmotherはboy’s mother、つまり“男の子の母親”を意味してるからwhose」
「あっ、本当だ」
すぐに消しゴムで消して訂正する里花。ご丁寧に淳也の言ったこともちゃんと端にメモしている。
「……やっぱり、里花ちゃんには家庭教師が必要なんじゃないかなあ」
「え?」
淳也が耳元で囁くと、机の下で彼の手が触れる感触がした。膝に置かれた里花の手を、淳也がそっと握ったのだった。
一気に身体に熱が帯びて行くのを彼女は感じる。
「ちょっ、ちょっと夏見くんっ」
里花はその手をさり気なく外そうとするが上手くいかない。淳也は知らん顔を決め込んで、参考書に目を落としている。
「じゃあ、この問題一緒に解こうか」
「夏見くん、ダメ……」
吐息がかかってしまいそうなほどの距離で、彼はちょっかいを出し続ける。
「大丈夫、誰も気付いてないよ、ここらへん人がほとんどいないし」
「そっ、そういう問題じゃないのっ。これじゃあ勉強できない」
「俺はスパルタだって、前に言ったでしょう?」
面白がるような顔で里花の手を握り続ける淳也。
この時、もう奥の手を出すしかなさそうだと彼女は悟った。
「夏見くん」
「ん?」
彼に向けられた里花の視線は、一寸も笑っていなかった。
この場が一気に氷点下まで冷え切ってしまうような、そんな目線だ。
「放してって、言ってるでしょう? それとも受験に失敗してほしいの?」
「!」
淳也は身を引きながら即座に手を放した。
「ごめん里花ちゃんっ、悪気はないんだ……その、つい……。でももう邪魔しないから、そんな眼で俺を見ないでっ」
「……」
赦しを請う彼に、里花はため息をついた。
「分かってくれれば良いの」
「うん、ごめんなさい……」
手綱を握られた馬の如く見事に操られ、彼は椅子に姿勢良く座り直した。
傍にいるだけでは物足りなくなってしまうのが男の悲しい性だ。
隣に座る彼女の、その艶やかな長い黒髪に、その柔らかな頬に、華奢な腰に触りたかった。でも彼は懸命に心の中で自分を律する言葉を唱え続け、その誘惑から逃げなければならなかった。
(辛抱するんだ……里花ちゃんの為なんだ。俺になら出来る。大丈夫だ)
そんな苦労を知ってか知らずか、里花はおとなしくなった淳也を見て再び勉強に勤しんだ。
半ば意地のように、恋愛も勉強も一緒に頑張らなければならないと、彼女は心に決めていたのだから―――。
* *
『戸川里花、N高3年。
父親はサラリーマン、母親は専業主婦。
現在は大学生の従兄と同居中。』
興信所に依頼すれば、息子に付いた悪い虫の素性など容易く知ることができた。
調査結果の書類と自転車で登校中の彼女を写した写真を見つめながら、千恵子は厳しい顔を崩さない。
「さて……どうしましょうか」
手を組み合わせ、瞳を閉じる。
既に打つ手は彼女の中にあるようだった。