紅茶が冷めるまで‐2
「ロミオはジュリエットが忘れられなくて、バルコニーの所へ行くでしょう?」
「有名なシーンね」
「そう。それで彼が言うんだ、“恋の翼でこの壁を飛び越えてきました”って。いつもこのセリフを読むと、自分にもそんなことが出来そうな気がしてくる」
「塀を飛び越えるの?」
「うん。俺はそこまで運動神経が良い方じゃないけれど、でも里花ちゃんの為だったら越えられると思う」
「……っ」
だんだんと、彼の瞳には熱が帯びて行った。
彼女の手から本が滑り落ちそうになる。
「なんか……ロミオみたい」
「それは少し恥ずかしいなあ。里花ちゃんがジュリエットなら良いけど」
「私とは正反対だよ」
「ううん、俺がもしロミオならジュリエットは1人しかいないよ」
お世辞と受け止めたのか、その言葉に里花は小さく苦笑した。
それを見て、淳也はふいに彼女の頬を長い指でそっと触れた。
「本当だから」
「……」
触られた頬がほんのりと染まっていく。
「里花ちゃんは優しくて、努力家で……すごく可愛くて」
「……あっ、あの……」
どう反応すれば良いのか分からず、ただ彼女は瞳を潤ませながら彼の方を見上げた。
なけなしの理性さえ奪い去ってしまうようなその瞳に、淳也は耐え切れなくなる。
「里花ちゃん……」
ついには両手で頬を挟まれ、淳也の顔がゆっくりと彼女の方へ近づいて行く。
「……夏見くん」
これから何が起ころうとしているのか、里花にだって分かっていた。足が震えそうになりながらも、彼女はゆっくりと瞼を閉じた。
圭一に忠告されてからというもの、彼女なりに心の準備は出来ていたようだった。心臓がはち切れそうになるのを堪えながら、彼の唇が下りてくるのを待つ。
2人の横顔の間隔が徐々になくなっていく。あと、数センチメートル―――。
コンコンッ。
「……」
「……」
ノックの音が、彼らの動きを静止させた。
こんなお約束な展開にした人物はあの人しかいない……。
「失礼します。お待たせしました、紅茶とケーキですよ」
「……工藤さん……」
「レモンのシフォンケーキを焼いてみたんですよ。お口に合うかしら」
何食わぬ顔で部屋に入ってきて、テーブルにカップや皿を並べる彼女を淳也は冷淡な顔で眺める。
「ねえ、工藤さんはあえて空気を読まない人なの?」
「あら、何のことですか?」
「……」
彼女の真意は謎だが、淳也は胸の中で思い切り舌打ちした。
里花は彼から少し離れ、火照った額に手を当てている。体中が微熱に包まれているようだった。
「それでは、ごゆっくり」
工藤さんが出て行くと、残された2人の間には奇妙な空気感しかなかった。先ほどのムードをぶち壊しにされてしまい、淳也は“待て”をされる犬の気持ちが今なら分かる気がした。
「じゃあ……とりあえず食べる?」
盛大なため息とともに淳也は言う。そんな様子にも里花は敏感に反応する。
「どうしたの?」
「何が?」
「怒ってるの?」
「まさか」
そう言ってベッドに腰掛け、淳也はフォークに手を伸ばした。それを見つめながら、里花は彼の不機嫌な様子を感じ取っていた。
彼女はフォークを持つ淳也の手を止めた。
「里花ちゃん?」
「……夏見くん」
「?」
「つづき……して?」
「へ?」
彼女からの予想外の言葉に、淳也は間抜けな声を上げた。
「え、でも、いいの?」
「うん……」
「……」
照れくさそうに顔を赤くしてるくせに、妙に大胆なことを言う。でもそんないじらしい態度がまた、彼の心に火を付けるのだ。
里花は淳也の隣に静かに腰を下ろした。小さく軋んだベッドの上で、彼らはしばらく見つめあった。お互いの鼓動が聞こえてしまいそうなほど近い。
淳也が、里花の細い肩に手を回した。
それが合図かのようにゆっくりと顔を近付けていく。
前髪がそっと触れて、そして間もなく唇が触れた。
2人が唇を重ねたのは、ほんの数秒間。やさしく合わさるようなキスだった。
その瞬間彼らは、指先や足先が甘く痺れていくような、そんな心地よい感覚に陥っていた。
顔を離すと、淳也は彼女の柔らかさを確認するように、やさしくその身体を抱きしめた。里花も彼に身を預けながら、淳也の匂いを吸い込んだ。
「機嫌……なおった?」
「何かそれ、俺が子供みたいじゃん」
「夏見くんは時々、子供みたいになるもん」
それ以上言葉を交わさなくても、それがどんなに素晴らしい時だったのか、2人には伝わっていた。
口にした紅茶が温くなってしまうまで、2人はそうして抱きしめ合っていた。
この幸福な秘め事を知っているのは、テーブルに置かれたシフォンケーキとカップの紅茶だけだ。