紅茶が冷めるまで‐1
「家政婦さんがね、ケーキを焼いてくれたんだって。だからもし時間があったら、放課後にうちに来ない?」
中間テストが終わるまで、淳也は彼女と会うのを我慢していた。永遠とも思えるような苦痛な期間ではあったが、それも里花の為と考えれば乗り越えられた。すでに彼女馬鹿である。
そしてテスト最終日にさっそく彼女へ誘いの電話を入れたのだった。
自分の家に呼ぶ良い理由もちゃんと彼は準備していた。
「今日は何もないから大丈夫だよ」
「本当? じゃあ学校が終わったら駅前で待ち合わせしよう」
「でも……、お母さんがいない間に家に行っていいのかなあ」
「大丈夫だよ。少し遊びに来るだけなんだから」
不安げな声の彼女とどうにか約束を取り付けて携帯を閉じると、淳也は心の中でガッツポーズした。
付き合ってすぐに家に呼んで良いものなのかとも一瞬思ったけれど、淳也は彼女の顔が見られれば何でも良かった。
* *
広大な家を見上げながら、里花は少し圧倒されていた。
立派な表札石に刻まれた“夏見”という字が、まるで上流階級の貴族のように自分を見下ろしているように感じる。さっきの電話の中で「家政婦」という単語が出てきたあたりから、何となくそれは垣間見えていたのだが。
「早く行こう」
「あ、うん」
手招きする淳也の後を付いて行き、玄関を上がった。
「ちょっとここで待ってて」
リビングに案内されると、淳也は部屋を出て行った。
自分の部屋の数倍はあろうかという広さの空間を見回すと、カーテンは花柄のクリーム色で、家具やソファは白を基調としている。それだけで明るい印象の家に見えるが、母親との確執がここに存在しているのかと思うと何だか殺風景にも感じられた。
しばらく突っ立っているとリビングのドアが開き、エプロンを付けた見知らぬ中年の女性が入って来た。
「里花ちゃん、家政婦の工藤さん」
「あ、初めまして、戸川里花と申します」
里花は頭を下げ、緊張気味にあいさつした。工藤さんはそれを微笑ましく見つめる。
「こちらこそ初めまして、工藤です。今ケーキの準備をしてくるので待ってて下さいね」
「私も手伝いますっ」
「いいのいいの、あなたはお客さんなんだから」
そう言って、彼女はキッチンの方へと消えて行った。
「じゃあ、俺の部屋行こっか」
「うん……」
淳也の部屋には物があまりなかった。ベッドにテーブル、大き目の本棚が2つ、それらが整然と並べられているだけであまり生活感がない。
服を平気で脱ぎ捨てたままにしておく圭一の部屋がひどい有様なだけに、異性の部屋に初めて入った彼女にとっては少し衝撃的だった。
「ここに座って」
出されたクッションに里花は腰を下ろし、淳也はベッドの端に座った。向かえ側から彼がこっちを見つめている。
「テストどうだった?」
「まあまあかな」
「せっかく家庭教師ができると思ったんだけどな」
拗ねたように言う彼を見て、里花はクスクスと笑った。
「この時間はいつも家政婦さんだけ?」
「うん、だいたいは。あ、でも弟がもうすぐ帰ってるかも」
「え? 弟さんがいたの?」
「あれ、言ってなかったっけ?」
里花には自分のことを曝け出してきたつもりだったので、弟のこともすでに話していると思い込んでいた。
「いくつなの?」
「今年で14」
「へえ。似てる?」
「さあ、どうだろう」
「でもきっと可愛いだろうなあ。夏見くんの弟だし」
里花はまだ見ぬ彼の弟の姿を少し想像してみた。
「裕紀っていうんだけど、俺なんかよりすごくしっかりしてるよ。あの年で将来のこと考えてるくらいだし」
「将来?」
「うん……跡継ぎのこととか」
「……弟さんに継ぐ意志があるの?」
「おそらく。俺もそうなれば良いなって思ってるんだけど、母親が全然そのことを分かってなくて」
淳也は肩をすくめる。
弟を気にする“兄”としての顔を初めて見た里花は、彼の事を頼もしく思う。
「なんかゴメン、変な話になって」
「ううん、私で良ければもっと話して? ……か、彼女なんだし……」
言いながら、里花の顔が真っ赤になっていく。
“彼女”という響きがくすぐったくて、それは淳也も同じ気持ちだった。急に漂い始めた甘い空気に耐え切れず、彼女はおもむろに立ち上がった。
「あっ、あの、本棚、見ていい?」
「あ、うん、どうぞ……」
文庫本からハードカバーまで、本棚にはぎっしりと本が収められていた。背表紙のタイトルには、一度読んだだけでは理解できないような難解な単語があちこちに散らばっている。
「ファイナンス……フラクタル、ボルツマン? 暗号みたい」
「ファイナンスは金融とか財政のこと、フラクタルは幾何学の概念、ボルツマンはオーストリアの物理学者であり哲学者……って、こんな説明されてもつまんないよね」
一気に話しながら彼は苦笑する。
「ううん、私には難しいだけなの。気にしないで。小説とかもあまりないみたいだし……」
そう言いながら何気なく下の棚に目を移すと、やっと大多数の人間が知っているような著名な本たちを見つけた。
なぜか隠すようにして隅の方に追いやられているそれらの方へ、彼女はそっと手を伸ばした。
「シェイクスピアに、ゲーテ……」
「あっ、ちょっとそれは……」
淳也は慌てて彼女の手を止めようとしたが遅かった。
「こういうのも好きなのね」
里花は『ロミオとジュリエット』を手にしながら彼に問いかける。
「……里花ちゃんが好きだって気付いてから、何となく読み始めて……恥ずかしいんだけど」
「男子高生がシェイクスピアを読んだって良いじゃない。私も何冊かシェイクスピアは読んだ事があるから嬉しい。同じ本を読んでたなんて」
そう言って表紙を見つめる彼女の横顔を、淳也は愛おしそうに見つめた。