シーソーの上の夢と現実
「またサボりか……。おい、起きろ。夏見」
中央廊下から隔離されたような薄暗い場所に、ひっそりと佇む数学準備室。ここが彼の隠れ場所だった。数学教師の繭村は、様々な教具や資料が雑然と置かれている10畳ほどの部屋に、まるで猫のようにソファで丸くなっている彼を見つけた。
“夏見”と呼ばれた男、夏見淳也は、眠たそうな目を擦りながらゆっくりと上半身を起こした。まだ意識は夢の世界にいるようだが。
「……んー、今……何時?」
「午後の授業始まった」
「……お腹すいた」
繭村は呆れた様子で近くの椅子に腰かけ、胸ポケットから煙草を取りだした。もちろん校内は禁煙だが、この教え子の前では“教員”という仮面が剥がれるらしい。
「お前、授業に出なきゃ登校する意味ないぞ」
「だって本読んでたら明け方になってて……」
淳也は皺のついたシャツをスボンに入れなおし、外しておいたネクタイを手に取った。
「また辞書みたいな分厚い本か。お前気持ち悪いぞ」
「教師がそんなこと言っていいの?」
「子供がそんな本読んでるのが可愛げないだけだよ」
彼は煙草に火を付けながら、部屋に付いている小さな窓を開けた。ちょうど中庭を見渡すことができ、青空に芝生という何とも平和な光景がそこには広がっていた。
「でもお前、3年になってちょっと変わったよな。まあ、まだ始まって1週間だけど」
「そうかな」
「ああ。少なくとも、朝の出欠の時間には教室に居るようになった」
メガネの奥にある繭村の眼が微笑んだ。
小中高一貫のこの学校において彼は中等部のクラスの副担任をしていた。数学の担当学年も高等部3年は受け持っていないので、今は淳也との接点は多くはない。でも口では厳しい事を言いつつも、彼は夏見淳也という生徒をいつも気にかけていた。もちろん淳也もそれは感じ取っているから、変に遠慮のない信頼関係が続いている。
「何かあったんだろ。春休みに」
「ん、まあ……ちょっと」
淳也はあの日出逢った女の子のことを思い出した。二重の丸い瞳が印象的な、少し華奢な女の子。
「……駅で困っていたら、すごく可愛らしい子に助けてもらって」
「へえ」
「もしまた会えたら、お礼をするって約束したんだ」
無意識に顔を緩ませる淳也を、繭村は薄笑いを浮かべながら見つめた。
この男から異性の話を聞くなんて初めてのことだった。付き合った女の子は今までいたのかもしれないけれど、こんなに純粋な顔で女の子のことを語る姿は見たことがなかったのだ。
「連絡先、訊かなかったのか?」
「そんなこと出来ないよ」
「馬鹿だね、お前。そんなんじゃ一生会えないぞ」
「でも最寄駅が一緒だから会える確率は高いと思って……時々、夕方くらいから駅の前で待ってるんだ」
「通学に駅は使ってないかもしれないだろ」
繭村からの容赦のない鞭に、淳也は拗ねたように口を尖らせた。
「べつに……、彼女が好きとかそういうんじゃないし……。ただ、もしまた会えたらいいなって思うだけで」
ウソつけ。と繭村は心の中で素早く突っ込んだ。無理に強気な態度を取るほど、彼の言葉はウソになる。どちらにせよ、その出逢いが淳也にとってプラスになっていることを繭村は何となく感じ取った。
「ま、何か進展があることを願ってるよ。さあ無駄話はここまで、そろそろ授業に行け」
「あともうちょっと」
「駄目だ。仮にも受験生なんだぞ」
「進路なんて決まってないよ」
「漠然とした将来も?」
「……」
ブレザーの上着を掴み、淳也はソファから立ち上がった。昔読んだ、ある本の一節が彼の中に思い出される。“シーソーの上の夢と現実”。
シーソーの上に、“夢”と“現実”が乗っている。
子供の頃は“夢”ばかりが大きく膨らんでいるのに、大人になるにつれてそれは萎んでいき、やがて“現実”の方にシーソーは傾いて行く。
でも自分の場合、夢を見た時期があったのだろうかと淳也は思う。自分の中のシーソーにはいつも“現実”しか乗っていなかった、そんな実感があるのだ。
「……俺に待ってるのは、つくられた将来だけ」
淳也は一言そう呟き、準備室を後にした。
彼には二面性がある、と繭村は思う。普段は無邪気な少年のようで呑気に生きているように見えるが、実は自分の生い立ちや将来をかなり冷めた目で傍観しているように思えるのだ。
「……もう18か」
繭村は静かに煙草の煙を吐いた。
* *
ペインティングオイルの臭いが微かに漂う、放課後の美術室。もともと美術部は部員数が少ないので、部活の時間はいつもまったりとした空気が流れていた。
「で? 例の男子とはまた会えたの?」
「だから、あれは社交辞令なの。きっともう会えないよ」
「も~、なんでせっかくのチャンスを逃すのよ」
イーゼルの前で筆を動かす里花の横で、未咲はジュースのストローを思わず噛み締める。美術部員でもない彼女がこうしてここに居座るのはいつものことだ。
「もう私たち卒業だよ? 恋くらいしなよ」
「でも……私、未咲みたいに美人でもないし、ほら、あんまりそういう事には向いてないと思うの」
「……」
パレットを手に下を俯く里花の姿を見て、そんなことを本気思っているのかと未咲は思う。
彼女は自分の外見には魅力がないと言ったが、細い腰や手足、それに豊かな胸元を制服の内側に隠していることは誰もが気付いている。でも里花は全くそれを自覚していない。
今まで、さり気なく里花にアプローチをする男子もいたが当の本人は“鈍感”という名の残酷な刃物で見事にそれを寄せ付けず、終いには「ずっと友達でいてね」と、殺人レベルの言動をニッコリ笑顔で吐いたのだった。
未咲はこの時ほど里花のことを恐ろしい女だと思うことはなかった。
「なんで恋愛に向いてないと思うの?」
「さあ、なんとなく。それに予備校もあるから、恋をする余裕はない気がする」
「ああ、週に2回だっけ」
「今のところ合格判定ギリギリだから頑張らないとね」
適当な女子大に進学して、その後の事はとりあえずノープランという楽天的な未咲に対して、将来のためなら部活も勉強も一生懸命という里花。一見すると相容れない正反対の2人にも思えるが、これが意外と妙な化学反応を起こすのだ。
「なんで里花は自分にSなの」
「ストイックって言ってよ。なんかそれ変態みたいだよ」
「だって変態じゃない」
未咲は横分けにされた前髪を弄りながら、面白くないという顔をする。未咲こそ他人にSじゃないかと里花は思うが、口には出さずに苦笑いした。
「変態でも何でも、私は頑張るの」
「つまんない……」
「大丈夫、時間があるときは未咲のこともちゃんと構ってあげるから」
「ちょっと、何よそれ。里花のくせに」
未咲は細い眉を吊り上げたが、明らかに照れ笑いを浮かべている。口ではキツイことも言うが、結局里花が1番というのが彼女の可愛い所だ。
「そろそろ帰ろうか」
里花は色とりどりの絵の具で汚れているエプロンを外した。
時計は6時を指していた。この時間になると、彼女はふと思う。もしかしたら、彼が今頃あの駅に居るのかもしれないと。でもそんな期待をすぐに一蹴し、馬鹿だなと心の中で自分を笑うのだった。
「私、自転車取って来るから、未咲は校門で待ってて」
「オッケー」
里花は水道で手を洗いながら、排水口に吸い込まれていく水をじっと眺める。この水と一緒に、あの男子との記憶も流れ去ってほしいと思いながら。