何かが変わる
あのとき彼は、姫を守る騎士のごとく彼女の手を握り締めた。
剣も盾も馬もないが、この身で彼女を守るという強い気持ちだけを抱えたまま、必死で彼女と逃れた。
親への反抗心からなのか、それとも単なる冒険心からなのか、何となくいつもとは違うことをやりたくて初めて電車に乗ろうとした日。自分をやさしく導いてくれた彼女がいた。
そんな彼女の小さな手を今度は自分が引っ張っていた。その痺れるような甘い感覚は、今でも彼の手のひらに残っていた―――。
「淳也、最近学校へはちゃんと行ってるのか」
「うん、まあ一応ね」
「ほお……」
淳也の祖父、竜之介は意味深な表情を浮かべた。
口髭を蓄えた普通の初老の男にも見えるが、時折見せる鋭い眼光には、一代で総合病院を築き上げた威厳と誇り、そして確固たる自信が滲み出ていた。
淳也の家から電車で数十分ほどの場所に祖父の家はある。
威圧感を覚えるような重厚な門をくぐれば、そこには屋根瓦の広々とした日本家屋が建っている。決して古臭さを感じさせないのだが、夏見家の歴史がそのまま沁み込まれたような雰囲気を醸し出していた。祖母は数年前に他界し、今では祖父と使用人たちがここで暮らしている。
畳や木材の匂いのするこの家が淳也は昔から好きだった。そして皺の刻まれたカサカサの手のひらで、祖父がやさしく頭を撫でてくれるのも。
だから何かにつけて淳也は竜之介の家に遊びに来る。他愛もない雑談、将来のこと、悩み、そんなことを2人で話すひと時が彼にとってかけがえのない時間だった。
「お前を学校に行かせるようにさせたのは誰だ?」
「え?」
使用人が淹れてくれたお茶の湯呑から顔を上げる。
「誤魔化したって無駄だぞ。私には分かる」
「?」
「女だろ」
茶菓子を手に取ろうとした淳也の動きがピタリと止まった。竜之介の勘の鋭さはこんな所でも発揮されてしまう。
「やっぱりな。同い年か?」
「……うん、同じ高3。でもべつに付き合ってるとかじゃないんだ」
観念したように淳也は話し始めた。
「困ってる所をその子に助けてもらって、それから偶然再会して……」
「どんなお嬢さんなんだ」
「……結構……胸が大き」
「阿呆か」
言い終わらないうちに竜之介は淳也の言葉を容赦なく一蹴した。いたって真剣な顔でそんなことを口にする孫に、彼は軽い軽蔑の眼差しを向ける。
「冗談だって。まあ、事実ではあるんだけどね」
「この助平が」
「これが助平なら世界中の男子が助平ってことになるよ。まあ、誰かさんからの隔世遺伝かもしれないけど」
「……人をおちょくるな。話が逸れてるぞ」
バツの悪そうな祖父を、淳也は無邪気に笑う。
「でも真面目な話、すごく尊敬できる子なんだ。将来の道筋が見えてて、それに向かってちゃんと努力してる人……」
「ふうん……」
はにかむ孫を見て、竜之介はその気持ちがかなり本気なものであると感じ取った。
「さっさと告白すればいいものを」
「でも受験生だし。仮に告白して、色々悩ませたり困らせたりしたら彼女に迷惑がかかるでしょう? 受験の邪魔したくないよ……」
「……お前、あれだけ千恵子に反抗してるくせに、恋愛に関してはてんで優等生だな」
「どういう意味?」
「もう少し我儘になっても良いんじゃないか。真剣に誰かを恋しいと思った気持ちは、簡単に止められはしない」
「……それ哲学者の言葉?」
「まさか。誰でも知ってることだ」
「……」
淳也は自分の胸に問いかけた。
このまま居心地の良い友達関係を続けるのか、それとも―――。
* *
夕方ごろ帰宅した淳也が玄関のドアを開けると、ちょうど裕紀が靴を履いていた。まともに顔を合わせるのは久しぶりだった。
兄を無視して外へ出ようとする裕紀を、淳也は唐突に呼び止めた。
「裕紀」
「……」
「もう変に突っ張るのはよせ。お前が本当にしたいことはこんな事じゃないだろう」
「……なに、急に。カウンセラーにでもなったつもりかよ。気持ち悪りい」
背中を向けたまま裕紀は答える。頑なに自分を拒むような、見えないバリアが貼られているのが淳也には分かる。それをそっと溶かすように彼は言葉を紡いだ。
「……お前……医者になりたいんだろう?」
「!」
自分の心を暴くような核心を突く言葉に、彼が多少動揺しているのが見てとれる。
「お前は、俺なんかよりもずっと大人だ。夏見の人間としてこの家を守る自覚があるのに、俺は自分の事だけで何も考えてないからな。でも今お前がやってる不良ごっこは、幼い子供にしか見えない」
「……」
「母さんの気を惹きたいつもりか?」
「……っ」
これは、淳也の策略だった。
それに乗せられる形となった裕紀は、あっという間に淳也の胸ぐらを乱暴に掴んでいた。瞬間的に血が逆流していく。
「てめえに何が分かるんだよ! 馬鹿にすんじゃねえっ」
「……」
「俺はこの家なんてどうだっていいんだよ! ここに必要とされてるのはお前だろ!? だから俺には何の関係もねえんだっ」
怒りの形相を浮かべつつも、何か必死にその言葉を自分に言い聞かせているようにも見えた。
淳也は静かに言った。
「悪かったと思ってる」
「……なにがだよ」
「俺は自分だけが不幸だと思ってた。だから身近な所でお前が苦しんでるのに気付けなかった」
胸ぐらを掴む裕紀の手が、だんだんと緩んでいく。
「だから悪かったと思ってる。母さんも最低だけど、俺も相当ズルイ奴だった」
「……」
裕紀は何とも言い難い顔をしていた。悔しそうで、少し泣きそうで、でも怒りは収まっていないような。
しばらく沈黙が流れたあと、裕紀は無言で玄関を出て行った。
気味の悪い静けさの中だが、事は良い方向に動いていると淳也は直感した。兄弟としてお互いの気持ちや考えをいくらか伝え合えた気がしたからだ。
「……昔から好きだったよな。母さんのこと」
幼き日に、母親の後ろを付いて回る弟の姿が微かに頭をよぎった。