デートに行こう‐3
「……何から話そうか」
独り言のように淳也がそう言うのが聞こえて、気分を害したのではないかと心配していた里花は少しホッとした。
「……お家のことは?」
「家ねえ……。うちが病院なのは知ってるんだよね?」
「うん、記事に書いてあったよ。お母さんが経営されてるって」
「そっか。まあ経営は母親なんだけど、医院長は祖父ちゃんがやってるんだ」
「お祖父さんが?」
「うん。でも小さい時に親が離婚して、医者だった父さんが家を出て行ってから、祖父ちゃんの次は俺が医院長になって病院を継ぐんだって昔からずっと言われてたんだ。母さんから」
淳也は幼き日に家を出ていく父の背中を思い返す。今はもうぼんやりとしか記憶していないけれど、それはとても広くて温もりに満ち溢れた背中だったような気がする。
「で、そのためにK学院に入れられて、知らぬ間にH大医学部に進学することを決められてた」
H大学は日本の最高学府だ。彼がどれほどの能力を有しているのか、そしてどれほど自分と次元の違うステージに存在している人間なのか、里花は改めて思い知らされていた。
「小さい頃はその将来に疑問を持つことはなかったし当たり前だと思ってた。でも中学生になる頃には反発し始めてた。家を継ぐ事は絶対に自分のやりたいことじゃないって。だって全く興味が湧かなかったから。単純明快だよね」
おどける様に彼はそう言った。
「でも、だからといって自分に夢があるのかっていうとイエスとは言えないんだ。ずっと閉塞的な所にいて決められた道を歩いて来たから。自由な身になって、自由に自分の道を選択することが出来ても、じゃあその後は? っていう感じで。なんか可笑しいよね」
「……」
「きっと慣れないんだ。自分の意思で道を逸れていく事が」
隣のベンチにいた野良猫がふいに喉を鳴らした。自由気ままなその姿に、淳也は眼を細める。
「……どちらにしても、やっぱりお家は継がないの?」
「うん、それは十分考えて決めたことだから。とりあえず高校を卒業したら家は出ようと思ってる。母親は頑なに反対してるけど、祖父ちゃんだけは俺の味方なんだ」
「そう……」
初めて聞く淳也の家庭環境は平凡な家に育った里花にとっては理解しがたい所もあるが、彼女は淳也の考えていることを聞き逃すまいとじっと耳を傾けていた。
「お家のことは、なんとなく分かったけど……学校は?」
「あー、学校は最悪」
「え?」
淳也はあまりに迷いなく言う。
「まあ、それはIQのことが関わってるんだけど」
里花は新聞で眼にした“IQ190”という文字を思い出す。
「高1のときに、うちの病院の関係者で知能検査の改訂に携わっている人がいたんだけど、その人から被験者の依頼を受けたんだ。で、断れ切れなくて検査を受けたら、ああいう結果が出ちゃって」
「……あの、私詳しく知らなくて……、あの結果が凄いことだっていうのは何となく分かるんだけど、具体的には190っていう数字にどんな意味があるの?」
「んー、まずIQっていうのは“知能指数”を意味するもので、知能検査の結果を数値化して測定できるんだ。で、その知能指数の平均値は100とされてる」
「……100? だって夏見くんは190……」
淳也の叩き出した数字が、いかに常人を超越しているか里花にはようやく理解できた。
「でも知能指数の成績と学校の成績は完全にはイコールじゃないからね。べつに得することはないよ」
本人はあくまで冷ややかな顔でそう付け加えたが、H大医学部への進学を考えていた人間の言葉を里花は鵜呑みにできなかった。
「それでその検査の結果がなんでか知らないけど外に漏れて、記事にして良いかどうか新聞社から連絡があったんだ。俺はもちろん断ろうとしたんだけど、学校側が記事にするように懇願してきた」
「どうして?」
「まあ、うちの学校も不況の煽りで年々受験者数が減ってて、かなり深刻だったみたいなんだ。それで俺に宣伝役を任そうと画策した。“天才を生み出したK学院”っていう勝手なイメージを持たせるために」
「結果はどうだったの?」
「思惑通り、その年の受験者数は前年よりも増えたよ。でもそれが最悪だった」
「?」
「何が起こったと思う?」
まるでなぞなぞを出すような口調で言う。里花は何も答えなかった。
「……学校から感謝される立場になって、俺の状況は変わったよ」
「……」
「俺だけに、公然と特別扱いが許されるようになった。
たとえ学校の授業に遅刻しても、授業をサボっても、テストで赤点を取っても、教師に反抗しても、出席日数さえ足りてれば自動的に単位を貰えるんだ」
「え……?」
「画期的なシステムだろ?」
淳也は吐き捨てるように、そんな皮肉を口にした。瞳は一寸も笑ってない。
里花も言葉に詰まるしかなかった。常軌を逸するような扱いを、彼は受けていた。
「もともと、母親が学校に多額の寄付金を支払っていたから多少贔屓されてることは感じてた。でも記事の一件で、それは完全なものになったんだ。……数少ない友達も、俺から離れて行ったし」
「……ひどい……」
「異常だよね。でもそれ以上に、これほど退屈で空虚な場所はないと思ったよ」
ちょっとだけ彼の声が震えた。
里花は淳也の受けた苦しみを想像するだけで、だんだんと涙が滲んできそうだった。
「どうして里花ちゃんがそんな顔するの?」
「だって……そんなこと知らなかったから……」
「ごめんね、黙ってて」
「ううん」
眉をハの字にさせる里花とは対照的に、なぜか淳也の顔が急に晴れやかになった。
「でも俺、最近気付いたことがあるんだ」
「? うん」
「母親とは戦争中で学校は最悪、俺は目標も夢もない。本当に周りが真っ暗に見えてた……」
淳也は里花の方を見つめる。
「でもある女の子が、俺をそこから連れ出してくれる気がしたんだ。誰とは言わせないよ?」
「……っ」
その女の子の正体に気付き、里花は顔を赤らめる。
「わ、私は何もしてないよっ」
「ううん、してるよ。里花ちゃんは、俺の周りを明るくしてくれる」
「……うう……」
殺し文句のようなセリフを当たり前のように言ってのける淳也の大物さに、里花はたじろきそうになる。
「だから今のところ、俺は何とか毎日学校に行ってるし、色々なことを前向きに考えるようにしてる。もう俺は、たぶん大丈夫」
そのとき淳也が、気持ち良さそうに伸びをした姿が里花は忘れられない。
それはまるで、自然の空気をお腹一杯に吸い込みながら今にも飛び立ってしまいそうな自由な鳥のようだった。
「……話してくれて、ありがとう」
「俺も話してよかった」
* *
夕飯を食べてから、彼らは帰宅の途に就いた。夕飯は、里花が未咲とよく行くイタリアンの店だった。
「本当にここまでで良いの?」
「うん、ここ曲がったらすぐだから」
彼女の家の近くにある郵便局の前で2人は立ち止まる。辺りは薄暗く、お互いの顔ははっきりとは見えない。
「今日はありがとう、楽しかった」
「俺も、こんなに笑ったのは久しぶりだった」
「……あの、またどこかに行こうね」
「うん、今度は俺が里花ちゃんをどこかに案内したいな」
“普通がいい”と言ったことで、彼女にエスコート役を任せてしまったことを淳也は密かに気にしているようだ。
「じゃあ、送ってくれてありがとう」
「気をつけてね」
「またメールするね」
「うん………」
「……」
「……」
頭上の月が2人を照らし、淳也が自分の方を見つめているのが彼女に分かった。里花はその瞳から眼を逸らすことができない。
お互いの身体が引き寄せられるような、甘美で名残惜しい雰囲気がしばらく流れた。
彼らを現実に引き戻したのは、たまたま傍を通りがかった自転車の通行人だった。
「……あっ、あの、じゃあ行くね」
「うん……おやすみ」
「おやすみっ」
里花は手を振りながら、そそくさとその場を離れた。
(わ~、なんか今、恥ずかしかったあ)
頬に手を添えながら、里花は周りの薄暗さに感謝せずにはいられない。自分がどんな顔をしているか容易に想像できてしまう。
「里花ちゃん!」
数メートルほど歩いたところで、ふいに淳也が彼女を呼び止めた。
すぐに里花は後ろを振り返る。
「?」
「今日ずっと思ってたんだけど……その服すごく似合ってる。
それだけ言いたかった」
「……っ」
“おやすみのキスくらいするだろ、普通”。
そう言った圭一の言葉を里花は思い出した。たとえ家の前であろうと、別れ際にキスをしたくなる気持ちが里花にはようやく分かったような気がした。
離れがたくなるような愛おしさが、里花の胸に溢れていた。