17話 違い
ムードの体が、上に浮かんだ。
ムードが困惑する後ろで、陸田の腰が持ち上がっていた。
陸田は両足を床につけ、腰を持ち上げることで、ムードを前に倒したのだ。
ムードが咄嗟に、右腕を床につけて倒れるのを止める。
だが、すぐに反省をした。
選択を誤ったと。
ムードが必死に思考を巡らせ、相手の次の一手。
それは、当たってしまった。
当たってほしくない技だった。
しかし、一方的にかけられるわけには行かない。
こちらも、同じ技で返す。
でもそれには、少しの距離と、支えが必要。
相手より一拍、遅らせないといけない。
それでいい。
決めた瞬間、陸田の両手が伸び、一拍遅れてムードの両手が伸びた。
二人が選んだ技、それは首絞め。
単純であり、最も怖い技。
ムードの両手が、陸田に遅れて、首を絞めた。
両者、力む。
重力が乗っかっている分、ムードの方が強く締めれている。
ただ、陸田の力に勝てるかと聞かれた時、悩むほどの微力である。
さらに、陸田の方が早く首を絞めている。
ムードには、勝機がないように思えた。
試合を観戦していた者たち、それを感じていた。
たった二人を除いて。
ムードとの試合経験がある二人、敗北経験がある二人。
ハリッド・マヤールと、鷹田降雄である。
歯がギシギシと鳴り、両者が互いに締め上げる。
二人とも、顔が赤くなった後、二秒ほどで青くなっていた。
「かっ…」
陸田が声を上げた。
これは、酸素がまだあるということなのだろうか。
それとも、酸素が完全につき、少しでも呼吸をしようとしているのか。
答えは…。
数瞬後、相手を押しのけて、立ち上がった。
押しのけたのは、足場がなかったからである。
答えは、後者。
「勝負あり!」
夢坂が手を振り上げ、ムードの叫びが試合場に響き渡った。
ムードが勝てた理由、それは、時牧に格闘技を持ち込んだことである。
レスリングは本来、絞め技は禁止されている。
しかし、裏格闘技に禁止はない。
組まれた時、咄嗟に相手の首を絞める闘士は、少なくはない。
何度も締められる内、肺活量の鍛錬を始めた。
そもそも、レスリングで鍛えられた肺活量が、中心的に鍛え上げられた。
結果、少しの差、陸田に勝った。
陸田は、両手を広げ、床に倒れている。
気を失っているようだ。
体が大きく浮き沈みしている。
ムードが息をつき、リング端に向かった。
ハリッドが見上げているところに、目線を向けた。
三回戦出場者は、ムード・スロック。
龍一が深呼吸をし、試合会場一歩手前で留まっていた。
もちろん、緊張していたのもある。
だが、一番の理由は、対戦相手のシミーア・ウォールに、どう対抗するかを考えていたから。
分かっている情報は、中国拳法の中でも、八極拳は使えるということだけ。
対抗手段なんか、考えられるわけがない。
龍一は、心の奥底でシミーアを恐怖していた。
そのせいで、一歩歩き出せないのだ。
「龍一君」
後ろから、声が聞こえた。
若々しくも、雄々しい。
龍一が振り向くと、視界の中央には高野勇と、高野武人がいた。
「勇…」
「私の分まで、勝ってきてくれ」
勇が右手を、龍一の背中に当てる。
「頑張ってください、龍一様」
武人が、頭を下げた。
「…うん」
龍一が二人に向けて、力強く応えた。
一歩、踏み出した。
「ったく、どっちがセコンドだよ」
勇に総一郎が話しかけた。
試合場には、既に二人の人間が立っていた。
審判、楼 王宣。
そして、シミーア・ウォール。
龍一は、シミーアから目を離さず、右手を一番下のロープにかけ、リングに乗った。
「霞原龍一、君に出会えてよかった」
シミーアが喋る。
観客がざわつくのを見るに、今まで声を出してこなかったようだ。
「私の目的はただ一つ、勝つこと」
シミーアが、本格的に構えをする。
右手は握り、後ろに下げる。
左手は開き、掌が下を向いて、龍一の前に突き出される。
足は大きく開き、腰を沈めていた。
空手の正拳突きの型に似ているが、左手は開き、腰がさらに落ちている。
呼吸方も、不思議なものだった。
深く息をすい、浅く吐いている。
肺の中には、古い酸素が溜まり続けているであろう。
何故するのか、それは分からない。
しかし、警戒しながらも、龍一は構えた。
ボクサーのように構えている。
二人は、鋭く睨み合っていた。
「霞原龍一、身長百七十九センチ、体重八十二キロ。時牧戦録、十一勝無敗」
龍一が息をつく。
「シミーア・ウォール、身長百八十五センチ、体重八十三キロ。時牧戦録、十六勝無敗」
シミーアは、龍一を睨んでいる。
「では、始め!」
王宣が手を上げた瞬間、シミーアが右足で地面を蹴った。
そして龍一の前で、ぴたりと止まった。
「シッ」
シミーアが右拳を突き出す。
龍一が両手で、右腕を掴んだ。
だが、右手は止まらずに、そのまま腹に突き刺さった。
龍一の体が、後ろに吹き飛んだ。
「かっ…」
龍一が、リングロープにぶつかって止まった。
地面に片膝を立て、腹を抑えている。
歯を噛み締め、声を枯らして、シミーアを睨みつける。
シミーアは、再び構えなおし、龍一が立ってくるのを待っていた。
龍一は追撃してこないことをいいことに、深く考え込んでいた。
相手のスピード、威力の源は何なのか。
その時、あることを思い出した。
シミーアの呼吸法。
明らかに、持続する呼吸法ではなかった。
なら、あの酸素をため続ける呼吸法は、瞬発的な力を出すためのものだろう。
それは分かった。
次は、対処法だ。
持続しない呼吸法。
それを利用する。
龍一が、痛みが引いたのを確認すると、すぐに立ち上がった。
そして、シミーアに向かって、全速で走り始めた。
シミーアは動かない。
カウンターを狙っているのだろう。
龍一は、シミーアの目の前で足を止めた。
シミーアは数瞬考え、右拳を突き出した。
すると、龍一が右に飛びのき、ロープに体を預けた。
シミーアがその方向を見た瞬間、ロープの反動で龍一が一気に迫ってきた。
シミーアは両腕を動かすが、どの動きにも間に合わず、龍一の右腕が顔面に当たり、そのまま突き抜けていった。
ラリアットが、シミーアに直撃した。
シミーアの体が仰け反り、後ろに倒れこみそうになる。
だが、右足をつっかえ棒にして、倒れるのを防いだ。
シミーアが後ろを振り向くと、すでに龍一が目の前まで迫っていた。
顔面に左ストレートが飛んでくる。
シミーアは直に受け、血を吹きだした。
そして、殴りぬけたことで後ろに行った龍一が、後ろから両腕を伸ばしてきた。
右腕を相手の首に回し、左腕は相手の左肩に肘をつけて立てて、右手で左腕をがっしりと掴んだ。
チョークが決まった…かに思われた。
シミーアは右腕が回ってきた瞬間、左手の四本の指を、首の間に挟んでいたのである。
わずかながら、呼吸が通る。
龍一が狙っていたのは、締め技。
相手の呼吸が長く持たない、それを締め上げるつもりだ。
しかし、不意を突いたチョークは失敗。
(なら…)
龍一は両腕を解き、すぐに背中を蹴り飛ばした。
シミーアは数歩歩いて立ち止まり、龍一の方を向いた。
その時、龍一はロープまで下がっていた。
そして、跳んだ。
回転しながら、右足の甲を、相手の前頭部へ降り落とす。
回天落とし。
タァンと、部屋中に響いた。
龍一の右足が触れたところは、シミーアの前頭部ではなかった。
両前腕だ。
シミーアは龍一の回天落としを見極め、ガードして見せたのである。
龍一は、両手を床につけるように落ちた。
龍一が体制を戻そうと、からだを後ろに回そうとした。
動かない。
シミーアの右手が、龍一の右足首を掴んでいた。
龍一の背筋が、氷のように凍てついた。
シミーアは龍一の右膝を引っ張り、自分の右膝で下から打った。
ミシッと、骨の軋む音が、二人のそれぞれの足を伝わって聞こえてきた。
龍一は抵抗し、左足でシミーアを蹴った。
当たりはしたものの、ダメージは薄い。
だが、龍一の狙いは、ただ蹴る事ではなかった。
シミーアが、頭に違和感を覚える。
龍一の左足が、シミーアの髪の毛を引っ張っている。
シミーアの右手が緩み、そのすきに龍一が脱出し、体勢を立て直した。
左足で掴まれた部分を、手で触れて確認している。
「龍一、耐える準備をしておいた方がいい」
シミーアが頭を触れながら言った。
「なに?」
「今から、私は全力の技を叩きこむ。負けてくれるな」
言い終わると、シミーアの体が動いた。
先ほどと同じように、龍一の目の前に立つ。
龍一は右肘を振り下ろした。
狙いは、脊椎。
だが、それより早く、シミーアの手が龍一に触れた。
一つではなく、いくつも。
胴に、何発も掌底を叩きこまれる。
合計七発の掌底が、龍一の内臓を叩く。
龍一が、血を吐いた。
内臓に損傷が起こる。
龍一の視界は、ぐにゃぐにゃに曲がっている。
これでは、攻撃に対処できない。
そう考えた瞬間に、視界に何かが入ってくる。
シミーアの右足だ。
甲で、龍一の顔面を蹴り上げた。
龍一の体が仰け反ると、シミーアはその体に抱きついた。
その勢いのまま、龍一を床に倒す。
傷ついた内臓に衝撃が加わり、痛みが伝わる。
吐き気がする。
胃酸が込みあがっている。
シミーアの両掌が、龍一の胴の中央、心臓部に触れる。
龍一の頭に、嫌な光景が思い浮かんだ。
シミーアが息を吸い、両手を触れたまま、肩を持ち上げた。
肩を落とされたら、どうなるのか。
龍一は頭より、体が先に動いていた。
右掌底が、シミーアの額を打った。
左肘と前腕を地面につき、体を持ち上げている。
シミーアが後ろに倒れ、龍一は飛びのいて立ち上がった。
龍一の息が荒い。
焦りによるものだろうか。
シミーアは追撃してこないのを見ると、ゆっくりと立ち上がっていった。
「龍一様は、大丈夫でしょうか、兄様」
武人がリング下で話す。
「龍一君の勝ち目は、正直薄い」
勇が言った。
「龍一の奴、不安だな」
総一郎が、煙草を咥えながら言う。
龍一は、心の奥底から焦っていた。
だが、すぐに焦りは薄くなる。
対抗手段が思いついたのだ。
龍一は呼吸を整えると、じわじわとシミーアに近づいて行った。
シミーアは気づくと、再びさっきの構えを取った。
龍一の構えは、シミーアの見たことのない構えだった。
空手の前刃の構えに似ているが、指が第二関節で直角に折れていた。
龍一の足は、爪先立ちになっていた。
足は上げず、床を擦って近づいてくる。
シミーアの警戒は、段々と高まっていた。
龍一とシミーアの距離が縮まり、残り二メートルほどになった時、龍一の歩みは止まった。
どちらが攻撃をするにしても、一歩踏み出さなければいけない距離である。
お互いの間合いが、ぎりぎり触れていない状況だ。
シミーアはさっきと同じく、カウンターを狙っているだろう。
なら、打たない。
龍一の作戦は、後攻になって初めて、成功する。
待てばいい。
龍一の精神は先ほどと違って、静まっていた。
対してシミーアは、警戒の波が立っていた。
首元が少し震えている。
二人は動かず、数十秒間睨みあっていた。
そして、シミーアが踏み出した。
前に出ていた左手を、掌底に変えて放った。
その左掌に、龍一は右掌を抑えた。
久慈島流道場で習った足腰、その力を腕に流し、相手の内部に向かって放つ。
シミーアの左腕が、音を立てた。
ミシッのようにも、バキッのようにも聞こえる。
シミーアの左腕の骨全体に、ヒビが入った音だ。
技の名は、百血飛乱。
古八木智戦で見せた、あの技である。
しかし、違うところがある。
智は、腕から大量の血が噴き出ていた。
だがシミーアは、骨が割れた。
なぜここまでの差が出たのか。
それは、相手の状態が原因である。
智はドーピングをし、血流が激しく回ることで、体中に血管が浮き出ていた。
それに比べ、シミーアは違う。
血管は、腕の奥に隠れている。
そう、本来百血飛乱は、割れた骨を血管に刺す技である。
血管が切れることで、相手の腕を封じる。
龍一はシミーアの骨が割れた瞬間、また飛びのいていた。
「全治半年、ってところかな」
シミーアは、左腕を優しく抑えている。
激痛が走っているだろう。
それでも、表情に苦痛を表さない。
汗をかいている程度だ。
シミーアの呼吸が、観客もわかるほど荒くなる。
「シミーアさん、終わらせよう」
「…あぁ、勝たせてもらおう」
にやりと、ぎこちなく笑った。
龍一が飛びかかる。
シミーアは右拳を突き出し、龍一の腹を狙った。
それより速く、シミーアの顔面に、龍一の左足が叩きこまれた。
シミーアは、ゆっくりと後ろに倒れていった。
まだ、立てるだろう。
しかし、痛み故か、立とうとはしない。
「審判、私は棄権する」
シミーアは痛みを噛み締めながら言った。
「棄権により…勝負あり!」
王宣が、勝負ありの声だけをしっかりと言い、右手を振り上げた。
「一本取られた。あなたを倒せなかった」
龍一が右手を額に当てる。
「あくまで棄権。負けてない」
少し、シミーアが笑った。
17話 違い 終
17話後書き。
今回、主人公龍一の試合です。
二回戦を書くとき、最初は二話使おうかと思ったんですが、無理ですね。
実は6話にてミスをしていて、名前の読みがわからなかった高野武人。
しっかり明かしておきました。
因みに、シミーアの使う武術は、八極拳以外にもありました。
長曾流八極拳、風楼流太極拳、蟷螂拳、鷹形拳です。
シミーアは26歳なのですが、15の時に中国に行き、数か月でこれらを習得しました。
さて今回は、高野武人です。
身長179センチ 体重82キロ。
では。




