闇に染まる 【月夜譚No.371】
好きなものを嫌いになるのは難しい。
楽しい、美味しい、面白い、可愛い……ポジティブな感情は心の中で花開いて、余程のことがなければ対極の気持ちは中々生まれない。心地良い思い出はそのまま、温かく残るのだ。
――ずっと、そう思っていた。
先ほどまで小降りだった雨脚が強くなって、視界が煙る。車道でタイヤが水飛沫を上げる音がやけに大きく響き、それ以外の音が判らない。
庇の下にいた彼女は、傘もささずに雨の中に足を踏み出した。一瞬で全身がずぶ濡れになる。
雨に体温を奪われて、指先から冷えていくのが判る。けれど、雨を避けようという気力はなかった。
ゆっくり歩く歩道に人気はなく、一人でただ周辺を彷徨った。
頭を占めているのは、数分前に見た光景。たった一つの厭に赤い傘の下、影を重ねた後で楽しそうに会話をする男女の笑顔だけだ。
あまり利かない視野と肌を流れる感覚は、雨だけのせいなのだろうか。それすらも、もう彼女には判らない。
見てしまったものが、彼女の心を塗り替える。明るく華やかだった感情は、憎悪の黒に染まってしまった。
好きなものは、好きでいたかった――。
微かな願いは花火のように散って、凍てついた星月のない夜空が支配した。