第2話 ミルシードとユリ 1/4
眠りからさめたタクヤは朝食を前にした。まずはコンソメスープ。スプーンから一杯。その一杯こそ、めちゃくちゃ困難な目標に感じられた。長く休み続けたお腹に、これはムリでは?
猫のように慎重になめ始めたタクヤだが、養分が身体に染み入ると、まもなくスイッチが入った。若者の身体の順応は早い。パン、卵料理、サラダと、どんどん食べていく。
一方、メリルは、てきぱきと電話で各所に「王子お目覚め」の報告を始めた。
そのうちの一つが城内の診療所だった。長期睡眠後の身体のチェックは必要だ。
事情を知ったドクターは「それはおめでたい。往診にうかがいます」と申し出てくれたが、メリルは「祈りが必要になるでしょうから」と伝え、タクヤ本人がむかうように話を進めた。
「タクヤ様、城内の診療所ですが、ご自身でむかわれるということでよろしいですね?」
「診療所?」
「まずは体調確認を」
「わかりました。自分で行きます。身体を動かさなきゃだし、いろいろ見ると、思い出すこともあるかもしれないし」
「城内ですから、心配はいりません。迷わないようにあとで地図をお描きしますね」
「おねがいします」
彼は満ち足りた気持ちで食事を終えると、浴室にむかった。
シャワーをあびようと服を脱ぐ。
そこで初めて身体の異変に気がついた。
右足の後ろ側が、濃く色が変わり、小さな凹凸がある。
まるで無数の虫が張り付いているかのよう。
ゾッとして観察すると、それはやはり虫ではなく皮膚そのものの変異だった。
一瞬迷ったが、医療行為までしてくれたメリルなら問題ないだろうと、下着姿のまま声をかけた。
「メリルさん、ちょっといい」
「なんですか?
「見て、これ。なんだろう、きもちわるい……」
タクヤの下肢を見たメリルは、硬い表情でうなずいた。
「聖印ですね。王家を継ぐものに現れる試練と聞きます。とりあえずそれも診療所の先生にご相談なさるとよろしいかと」
「もともとはなかったよね。眠っているうちにできたんだね。皮膚の凹凸もある。これ、龍の紋様に見えない?」
「そうですね、怒れる龍のよう。迫力を感じます。痛みはないのですか?」
「ぜんぜんないです。でも、あらためて見てみたら、ちょっとひどい。見てるだけでぐあい悪くなってきた」
「しっかりなさってください。診療所はここを降りて、バルコニーから庭園を通ってすぐですから」
タクヤは簡素な日常の服を着て、手書きの地図を受けとると、いよいよ一人で部屋を出た。
螺旋階段を降り、ひとけのない回廊をぬけていく。
庭園に向かってパッと視界が開け、幅のあるバルコニー階段に出たところで……
◆ ◆ ◆
「タクヤさまー、ご機嫌うるわしゅう!」
「あ、どうも……」
「朝からこんなところでタクヤ様とお会いできるなんて、ワタクシ、なんて幸運なことでしょう!」
知らない女性との遭遇。
彼はとまどいを隠せなかった。
「あ、いや、幸運ってほどじゃないと思うけど」
「ね〜え、タクヤ様!」
「なに?」「そんなに逃げなくても!」
「あ、いや、近いし」
彼はさらに一歩下がって距離をキープした。
彼女は目を丸くして笑った。
「逃げると、おいたくなっちゃうわ」
「えっと、君は……?」
「あらいやだ、泣く子も黙るカリシア家ミルシードにございます。ミルシード・エス・ラ・カリシア」
彼女は礼儀正しく腰を下げた。
タクヤには心当たりはなかった。
「ミルシード……」
「まさかお忘れですの?」
「いや……えっと、今日、ちょっと調子、悪くて。いろいろ忘れがちなんです、僕」
「私の名前が思い出せないとあっては、真面目に心配になってしまいますわ。タクヤ様が、バカになってしまわれた……」
そうかもしれないけど、その言いかたはないんじゃないかな、と彼は相手をにらみつけた。しかし彼女はむしろうれしそうに笑うばかり。
「で、いつ、お目覚めに?」
「さ、さっき、かな……」
「そのニュース、まだどなたもご存じないのでは?」
「秘書の人が連絡とかしていたけど」
「でもでも、とびっきり新鮮なニュースであることにかわりありませんわ。わーお。で、どちらまで?」
「診療所……って言うの? ドクターに診てもらうことになってて」
「なるほど、泣く子も黙るミルシードも納得いたしましたわ」
「ねえ、その『泣く子も黙る』って、なに?」
彼は疑問を素直に口にした。
その真正直ぶりに、ミルシードは手を口に当てて大笑いした。
「あらいやだ。ほっほっほ。美しすぎて、泣いている子も黙ってしまう、という意味に決まっているではございませんか。もう、タクヤ様ったら、ワタクシに本当のこと、言わせないでくださいまし!」
目鼻立ちのくっきりとした美少女のおふざけ。
彼女は、さらに顔を近寄せてきた。
「ちょっと、タクヤ様!」
「は、はい? ねえ、君、とりあえず顔近すぎない?」
「あのぉ、ちゃんと笑うべきところで笑ってくださらないと、ワタクシ、ただのバカみたいなんですけど!」
「あ、ごめん。なにせ、自分、今日は、あれが、あれなもので、ははは」
「はいはい、お医者様ですわね」
「そ、そうなんだ。診療所って、あれだよね?」
タクヤが指さす。
ミルシードは、ふと、首を傾げた。
「ああ……そうか。今は王宮の医療チームは誰もいませんものね」
「ん?」
「王の付き添いで外遊中だから。ねえ、ここの庭園って、ちょっと迷路っぽいの。ご案内いたしましょうか?」
彼女が腕をのばして先を指さすと、彼女の豊かな胸の豊かなふくらみが彼の視線の前で強調された。
良いスタイル。美しい金髪。すっきりとした鼻のライン。
彼女は『美しすぎて』という形容を冗談として口にしたが、タクヤがすぐに笑えなかったのは、実際にとても美しい女性だったからだ。
「いや、自分で行くよ、ありがと」
「もうっ、今日はノリの悪いタクヤ様ですこと。別人みたい。まさに『深刻な寝起き状態』ね。あのね、私、本当のことを言いますと、すでに大遅刻なの」
「授業?」
「『タクヤ様を診療所までご案内差し上げたものですから遅れてしまいました』という言い訳作り、したかったな……いじいじ」
「そんな言い訳を考えているより早く行ったほうがいいんじゃない?」
「おっしゃる通りね。でも、そう、ひとつ、ご提案。お昼、ご一緒しません? たとえば、庭園の東、バラの広間で」
「いちおう僕の予定については、秘書の人の確認が必要と思うけど……」
「お昼くらい自由になされば?」
「ま、まあ、考えておくよ」
「私、ダメ元で用意させますわ。だって、タクヤ様の好物については、もうバッチリ調査済みなんですもの」
美少女は目を輝かせてウィンクした。
タクヤは記憶を探る。
「僕の好物ってなんだっけ……」
「ハンカチのフライ、モグラのお刺身」
「え……あれ……そ、そうだっけ……」
「あら、いやだ、冗談ですって。ほんと、今日のタクヤ様はノリがお悪いですわ。しっかりお医者様に診てもらってくださいませ」
「あ、はい……」
「でも……」
美女は急に真顔になって目をふせた。
「ここでお目にかかれてラッキーでした。お昼のことも、冗談ではないの。こんな私でも、心配事はある。だって、最近、大人たちがヘンなんだもの」
「大人がヘン?」
「数日前から、他国の政治家や企業関係者まで王宮に出入りしていて」
「悪いこと?」
「王は、不在中なのよ。悪巧み以外のなにがありまして?」
タクヤは苦笑した。王宮の道すら憶えていないのに、そんな心配事はとても理解できない。
ミルシードは彼の肩をポンポンと叩いた。
「お昼のこと、忘れないでくださいまいし。では、またのちほど!」
彼女は上品に腰を下げて、はずむように去っていった。
タクヤは、ホッとした。
美しいけど、疲れる女。
ミルシード?
彼女のことは思い出せないけど、それはべつにいいか……