第0話 第一秘書メリル
北の国にも、短い夏が始まろうとしていた。
朝の風が、はしゃぎまわる小鳥たちの鳴き声を運ぶ。
ところはスーサリア王宮。
海辺に面した東の塔、最上階の王子の間で、第一秘書のメリルは、夜勤者から引き継ぎを受けた。
王子は昨夜も熟睡。体位変更するも反応なし。言葉も苦痛の表情もなし。
そんないつも通りの引き継ぎを終えると、夜勤者は頭を下げて去って行った。
一人になったメリルは、まず複数の窓を大きく開け放った。
麻のカーテンがふくらむ。
海風の匂いが広がる。
彼女はその圧倒的な心地よさに、おもわず笑みを浮かべた。
最高の朝だ。
初夏の風が気持ちいい。
しかし内心「もう夏か、季節のめぐり、早くなっちゃったな」とも思った。
まだ三十台だし、年寄りくさいことを考えるのはよくないかもしれないけど。
いつか私も、60、70をすぎて、このような仕事を続けていったら、どうなるだろう?
タクヤ王子も成長し、家族を持ち、私はその子供たちを目に入れても痛くないほど甘やかしつつも、時にはおしりを叩いて、しっかりとしつけを教え込ませる。
そんな人生も、わるくはない。
でも、察してはいた。
わかっていたのだ。
このすばらしい風こそ、最期にふさわしいことを。
◆ ◆ ◆
王子の間に、朝食がとどけられた。
「おはようございます、王子様のご朝食です」
白シャツに黒ベストの男性スタッフが一人、銀色のワゴンを押して、王子の私室に入ってきた。ギクシャクとして見えるほど真面目な態度。あるいは筋肉質?
メリルは、スタッフを窓辺にいざなった。
「テーブルにならべください」
「わかりました。タクヤ王子、まだお目覚めではないですか?」
「そうね」
「早くお目覚めになられるといいですね」
それは朝のありふれた会話。
しかし和やかな会話の内容に反して、メリルは初対面の男性スタッフに殺気のようなものを感じた。
彼女は鋭い。
横目で、食器をならべる男を観察した。
「あなたは、見かけない方ね」
「はい、今日から担当します給仕科のフレディと申します」
「私はメリル、はじめまして。で、今日は、なにかしら?」
「野いちごのタルトが添えられています。初夏の香りとのことです」
「まあ、おいしそう!」
料理はいつも通りだった。メリルの得意技である「毒の予感」にも特に反応するものはなかった。
しかし、異変がある。
ならべられた食器の位置がおかしかった。あるべき並べ方になっていない。今日はスープを手前に置いた一般的な並べ方。しかし王子は、先にパンをかじって自身の体調を確認される。スタッフなら知っているはず……
「ちょっとここ、ソースがはみ出しているわ」
メリルが指で皿の横をぬぐって、その指を口に持っていった。ソースをなめつつ、指先から楊子のようなカートリッジを口の中に入れた。
あわせて、中指の指輪を舌でつんと押して、起動させた。
メリルが、テーブルのそばを去ろうとした瞬間、予感が的中した。男が背後から襲ってきた。
メリルの右手を、右横からつかんで、勢いに任せて前に走る。つかんだ腕の反動を利用し、次は逆に左手をとって、後ろに回ってねじりあげた。
素早く柔軟な格闘技術。
「おまえの計画を話せ」
本性を現した男の低い声。
しかしメリルは笑みを浮かべたまま。
「私はべつにあなたに語ることなんてないわ」
「折られないとわからないのか」
男が腕をねじ上げようとすると、メリルは口から細いものをプッと吹き出した。
毒針が、男の顔に刺さり、紫色の液体が染み出る。
男はあわててメリルから離れ、目の下に刺さった針を引き抜き捨てた。
「おまえ、どうしてこんなものを」
「顔に刺したのは初めて。毒が脳に回らなければいいけれど」
「よけいなことしやがる」
毒は男にめまいを起こさせていたが、かまわずにつっこんでくる。
力任せに。
メリルも女性としては身長がある方だったが、男の鍛え上げられた筋力にはかなわない。男のパンチや蹴りを、ギリギリかわしながらも、力負けして首を取られかけたところで、指にはめた指輪を、男の二の腕にスーツとはわせた。
男は「うっ」とうなり、あわてて距離をとった。
「おまえ、なにしやがった」
「筋肉が裂けただけ」
「はあ?」
「筋にそってさけるのよ」
「なに言ってるんだこいつ」
「もっと試す?」
メリルがしなやかな回転する動きで、男の左手を素早くなでた。
男はメリルの腕をつかみかえそうとしたが、力を入れた瞬間、腕が内側から破裂したかのような痛みが走った。
男はひざまづき、怒りで目を輝かせ、腕や指の動きを自ら確認した。
「肉の裂け目? 筋肉は自体は動くな。肉離れみたいなもんか。こんなの気にしなければどうってこはない。力ずくでいかせてもらうぜ」
左手をかばいながら右手でつかもうとしてくる男、その右腕にもメリルは指輪を走らせた。
苦痛に顔を歪ませた男はあらためて距離をとった。
「これはどういうことだ。仕事だからこそ、敵の情報は完璧に調べ上げるべきなのに、こんな技は報告になかった」
「そりゃあそうでしょ。我が国の秘技よ。ベルベスの指輪。知ったものは、必ず死ぬ」
「それはどうだか。オレが拡散してやる。見くびってもらったら困るぜ」
「あなた、有名なスパイなの?」
「本当のスパイは有名になんてならねえよ。死なずに仕事をかさねるだけだ」
「たしかに。勇気だけは、ほめてあげる」
「おまえ、その汚い小技で何人殺した?」
「多くはないわ」
「はっ。王宮の嬢さんは脳みそが腐ってるな。くせえぞ、おまえ」
「言うわね。あんたこそ、そんな身体でどうやって戦うというの? というか、助かるつもり?」
「簡単だ」
男がふっと身体を沈めると、壁を蹴った。
その反動で、高速の回し蹴り。
メリルの足の外側をたたいた。
そこにつま先をひっかけ、引き寄せて、絡みつく。
指がとどかない低いところから攻めれば問題ないという男の判断。
そのしなやかさとスピードは確かに常人のレベルではない。
しかしメリルの腕が自由である限り、メリルの神秘的な攻撃はとまらない。
絡みついてきた男の身体を、腕を上下させてリズミカルに、サッとなでていく。
腕、肩、背面、ほほ。
男はもう顎まで動かせなくなっていた。
たまらずメリルから離れた。
ふらつく男に、メリルが走り込んで、腹部を蹴り上げた。
秘技に頼らなくとも戦えることを宣言するかのように。
男の腹には防弾具が仕込んであったが、それでも彼は息が止まって咳き込んだ。
うずくまる男のそばにメリルは立った。
知識のたりなかった暗殺者に同情するかのように。
「スーサリアのために」
祈りを口にしたメリルが、指を男の後頭部をスッとなでた。
脳が内側で斬れ、男は意識を失い、床に転がった。
男の死体を前にして、メリルは悟った。
王子の間に刺客が来る。
こちらの動きが、悟られたのだろう。
もう選択肢は一つしかない。
諸悪を断つ。
メリルはチェストをずらし、かくされていた小窓から死体を滑り落とした。
王宮の伝統的なやりかた。
あとで庭師が処理をする。
ベッドには、点滴をつけたまま、眠り続ける王子がいた。
すでに三ヶ月、眠り続ける王子。
メリルは指輪を外し、バスルームで手を丁寧に洗った。
そして封印された小箱から、タクヤ王子を目覚めさせる薬剤アンプルをとりだし、注射器に吸わせた。その針を点滴パックに刺し、薬剤を注入。
作業を終えると、メリルはやさしい表情で王子にかがみ込んだ。
安らかな寝顔にかかる前髪を、かるく指先でよせてつぶやいた。
「目覚めてください、タクヤ様。あらゆる悪しき困難を乗り越え、恵み多き時代が、すこやかに始まりますように。……私は、今日は、ひと仕事です。タクヤ様、あとは、頼みますね」