その1
本作中に弥招栄先生の「雪月花」が出てまいりますが、先生には事前にご了承頂いております。心より感謝申し上げます。
ううっ、あ、暑い……。
今日も仕事でくたくたになって家路につく。
まだ5月だってのに、ああ暑い。私はしなびた体に鞭を打ち、家の玄関をあけた。
「ただい──」
「うわああぁぁん、お、おねいぢゃんがっ!」
「うっさいのよ、大樹がどんくさいのが悪いのよ!」
「うおっ、うおおぉぉぉ、えぐっえぐっ!」
うるさい。
ドアを開けるなり我が家の怪獣が戦いを繰り広げている。毎日毎日飽きることなく繰り返される喧騒の嵐……。
「やああかあましいわっっ!」
あまりのドスの聞いた声に、身の危険を本能で察知したのか気圧されたかのように一瞬黙る子供ら。
我が家の珍獣の愛の鞭の音がする。
ボグッ、ボグッ……。……。
「うう、ご、ごめんなさい、おがあぢゃん……」
「ご、ごめんなさいいぃ!」
そんな毎度の騒ぎの中、居間へ入る私は虚脱の塊であった。
「あっ、おかえり父ちゃん」
長男の大樹が駆け寄ってくる。4歳のやんちゃ盛りだ。
「父ちゃーん!」
ハハ、今泣いたカラスがもう笑いながら私めがけて一目散に走ってくる。かわいいじゃないか。
ドスッ!うっ!……。
まっすぐに走ってきた4歳児の身長はまっすぐに私の股間を直撃した。
「あれ、お父ちゃん、泣いてるの?」
私は股間を押さえて悶絶していたが無理やり笑顔を作った。
「な、泣いてな───」
「あ─、泣いてないない、さ、ゴハンにしよ」
またもや鶴の一声でさっさと事を片付けられ、晩御飯の席に四つんばいに這いながらつく。
「あっカレーだねえ、やったあ」
長女モモコは大喜び。カレーが大好きな小学1年生だ。
「そうだねえ、今度はいつまでもつかねえ」
「ねえ─!」
なんの疑いもなく子供達はなべを覗き込みながら屈託なく笑っている。
カレーのなべのフタをあけながらニコニコしているのは我妻、郁子。
32歳の豪傑だ。
我が家ではカレーの場合、いつまで持つかが会話の中心となるように仕向けられてしまった。
我が家で一番大きいなべに、ひとたびカレーが作られると延々と空になるまで食卓に上る。
朝、昼、晩と昼夜を問わず、カレーの王子様テイストの連続攻撃だ。
加齢臭ならぬカレー臭が漂っているのではないかと夏場は特にヒヤヒヤする。
「ぼく、きょうきめたんだ」
カレーの王子様を頬張りながら我が家のカレー王子が言い出した。
「何を?」
私は一本目のビールを飲み干しながら相槌を打つ。
「ぼく、やっぱり消防車になるよ! 決めたよ」
ああ、はいはい、せめて人間になろうよ。
なんでいっつも車なんだ。この前は救急車でその前は戦車。
物騒なこと極まりない。まあ、子供の言う事だから……。
「あたしはね、市やくしょの、水道かのクジョウショリ係りのおねいさんになるの」
あまり具体的なのもどうかと思うが……社会見学授業の時のことを言ってんだな。
「あら、すごいわ、モモコ、公務員が一番! お母ちゃん、安心だわ」
そういう夢のないこと言うのやめて。
私は2本目のビールを出そうとした。
「あらっ、ダメよ、今月は晩酌ビールは一本でしょ?」
見つかってしまった。
「暑いからさあ、もういっぽ──」
「だめ」
秒殺だった。ありがとうグレイシーさん。
まあでも私の稼ぎが少ないのに無理をして中古住宅を購入してしまい、郁ちゃんのやりくりのおかげでなんとかやってるんだから仕方がない。
あ、私は福田寿志、35歳。
妻と子供二人の4人暮らし。郊外に中古一戸建てを購入したばかりで、仕事はサラリーマン。
趣味は、今はお金のかからないネット小説を読むこと……くらいである……涙。
自分の食べ終わった食器を流しに持っていくと、台所のカレンダーの昨日の日付にP2と書いてある。
「何これ?」
私が尋ねると妻は生ゴミの口を縛りながら淡々と答える。
「あ、それね、ペナルティー。ペナルティー10になったらおこづかいからゲームソフト買ってもらうから」
「え?」
「あっ! 水筒出してない。それからトイレの便座を下げてなかったからまたマイナス2点ね」
えっ! ということはペナルティーが4じゃないか。
いつからそんな制度が導入されたんだ。
どうやら私だけが評価対象のようだ。
なんで?
突然このようにルールが出来上がっている。おちおち帰宅もできやしない。
「ちょっと、お風呂はいっちゃってよ」
「あ、うん」
返事はしたもののナイターの結果が気になって30分ほどテレビを見ていた。
よし、じゃ風呂だと台所を横切っていくと、ん?
ペナルティーひとつ増えている!
しかもご丁寧に(すぐに風呂に入らなかったから)と書いてある。
うう……これ以上少ないこづかいから何を絞り取ろうというのだ。財布を逆さに振ったってホコリもでないからねっ。
くそう、明日から今まで以上に緊張して生活をしなくてはならない。
風呂からあがると妻は子供たちを寝かしつけていた。
私はパソコンの前に座る。
やっとわずかな自分の時間の到来だ。ネットを開いていつものサイトを呼び出す。
《小説ばかになろう》
私の唯一の楽しみである。
このサイトは一万人以上のアマチュア作家の小説が読めるサイトでコンセプトは書くほうも読むほうも一緒になってばかがつく程小説好きになろうぜ! 集おうぜ! ってことらしい。
まだバカがつく程の極みはわからないがここで小説を読むようになって一ヶ月ほど経っている。
最初は2〜3分程の短い作品を暇つぶしに読み出したのがきっかけだった。
主にホラーやコメディを読んでいる。
最近は少しずつ読了時間の長いものを読んでみたり、いろいろなジャンルを覗いてみたりしていた。まあ10分〜15分程度のものだが……。
今日は何を読もうか。麦茶を片手に考える。
「まだ寝ないの?」
妻が風呂からあがってきた。
「うん、少し小説読んでから寝るよ」
「やっだ、どうせエロ小説でも読んでるんでしょ。やあね」
妻の返答にムッとした私は、
「文学だよ、文学。俺だってねえ、いろいろ考えているんだよ」
と強気になってハッタリをかましてみた。文学など一度も開いたことはない。
しかも18禁小説は昨日読むか読むまいか悩んだところだった。
「あら、そう。じゃ先に寝るわ」
「ちょっと待て。すぐ寝なかったからペナルティーとかあるの?」
「は? あなたお子様ですか? 寝坊したらつく」
「うう、わ、わかった」
妻は私に一瞥をくれるとさっさと寝てしまった。
私はしみじみ考えた。私はこの妻が怖い。妻にはめっぽう弱い。
これでいいのだろうか。いや、よくない。いいわけがないのだが、まずはこれ以上悲惨にならないために現状維持するしかない。
私は心を落ち着けた。尊敬される人間にならなければならない。
《そうだ、文学を読もう!》
とりあえず椅子に座って気を取り直し、小説ばかになろうサイトの文学をクリックしてみる。
タイトルがやたら漢字だらけなものばかりである。すでにひるんでしまった、だが、しかし! ここでくじけては負け犬だ。
あらすじを追って見ても難しそうな内容ばかり。どれを読めばよいのかわからない。
仕方が無い、私はレアな個性を追求するタイプだが、ここはオーディエンスに頼ろう。
私は必殺ランキング戦法を実行する。まあ部門のランキング上位を読めばまちがいないだろう。普段はこのランキングに頼らず、野性のカンとタイトルで決める。
独身の頃、CDのジャケ買いでほぼ失敗している私の感性をなんとかしようとする試みで私はこれをESP実験と勝手に称している。
さっそくランキングの1位を開いてみた。
【雪月花/作者:弥招 栄】
ふーん、まずは作者の名前が読めない……。
作者紹介ページを見ると(ヤマネキ シゲル)と書いてある。シゲル……私の死んだばあちゃんと同じ名前。
急に親近感が湧いたが問題は次である。
【17173文字 読了時間35分】
い、いちまん、ななせん……文字。そして35分という私の今までの平均読了時間の3倍は超えている。
この時間を費やしていいものなのだろうか。もし、もし、ぜんっぜんわかんなかったらどうしよう、時は金なりじゃないか。タイム・イズ・マネー。
心を落ち着けてあらすじを読んだ。
【地方大学の医学部に通う啓治を、携帯の着信音が叩き起こした。幼馴染みの仁史からの電話。彼と暮らす悠理が倒れたと言う。彼女は、啓治が思いを寄せている女性でもあった】
い、医学部。まちがいなく勝ち組の話だ。ささやかな安らぎの時間に私の劣等感を逆撫でされるのだけはゴメンだ。
よし、とにかく出だしを見てみよう。このサイトは出だし150文字が見れるシステムになっている。
【月の光が舞い落ちる。花のように、ひらり、ひらり。月の光が降り注ぐ。雪のように、しんしんと。病院の屋上から見る町の灯は、薄汚れていた。月の光が花ならば、すべてを飾ってくれるのに。月の光が雪ならば、すべてを隠してくれるのに。月は、暗く照らすだけ──】
月の光が舞い落ちる、花のように、ひらり、ひらり……月の光を見て花を連想したことなど一度も無い。しかも花びらと書かれていないのに、ひらり、ひらりで花びらを連想してしまった私はしてやられたという気になった。
そして、月が暗く照らすの意味がわからない。暗く照るとは一体どうゆう事なんだ。
小学校の漢字テストなら×だろ?
読むか読むまいか悩んでいたら声が聞こえた。
(まあ、読んでおきんしゃい)
……私ははっとしてあたりを見回した。それは確かに死んだばあちゃんの声だったからだ。
この人はシゲルばあちゃんの生まれ変わりかもしれない……。
私は私にとっての超大作を読むことに決めた。
本文をクリックし、読み始めた。
40分後、私は椅子の上に正座をして、泣いていた。
ネット小説を読んで泣く日がくるとは思わなかった。
「おとうちゃん、泣いてるの?」
はっとふりむくと、夜中のちっこに起きたモモコが目をこすりながら、椅子に正座で泣いてる私を不思議そうに見ている。
「泣いてないよ、さ、おしっこしたら寝よう」
モモコを寝かしつけ、再びパソコンの画面に向かう。モモコのちっこのせいで作品世界の余韻が冷めてしまうのではと心配したがそんなことはなかった。
会話が全て広島弁だったがそれがとても自然にはいってきた。
男二人(啓治、仁史)女一人(悠理)の同級生三人組の話なのだが、ああっ、私にはボキャブラリーが無さすぎて、上手く表現することができないっ!
そしてその他にも主人公の父親(文啓)やら、看護士さんやら出てくるのだがどの登場人物も物語なのに実際にいる人のように感じてしまった。振り向いたら文啓父さんが座っているかもしれない。
私はどの人が雪でどの人が月なのかさっぱりわからなかったがとにかく感動し、作者の後書きを読む。
【拙作をお読み頂き、ありがとうございます】
拙作ってなんだろう。私は辞書を引く。
〔下手な作品の意〕
私は驚愕した。
ええっ! これって下手なの。審査員とか誰かが決めるの?
しかし続きをよく見ると自分の作品の謙称とある。ああ、なるほど。
安心して続きを読む。
【広島弁は、読みづらくなかったでしょうか。 このストーリーは、あなたの心に、何かを 届けることができたでしょうか。
もし何かが届いたのならば、それを教えていただけると、私は涙の海で溺れても悔いはありません。この作品を気に入っていただけた方にも、そうでない方にも、最後まで読んでくれたすべての皆様に、百万遍の感謝を。ありがとうございました。】
私は感動した。今まで生きてきて百万遍も感謝されたこともないし、したこともない。
何かが届いたからお知らせしなければと思った。
さすがに涙の海で溺れても悔いはありませんは嘘だろうと思ったが、この先生に今の感想を伝えなければという熱い思いで胸が一杯になった。
モモコがはじめて私を、「父ちゃん」とはまだ発音できず、「おじちゃん」と呼んだ時の気持ちと似ている。
この後書きも文学的だった。モモコの結婚式の謝辞の時に参考にして使わせていただこう。
さっそく感想のところに書き込む。
【はじめまして。私は35分という私にとっては初の超大作作品でしたが感動しました。
先生はきっと死んだ祖母の生まれ変わりなのではと思いながら読ませていただきました。読んでよかったです。すばろすかったです。そして、誰が雪で誰が月で誰が花なんでしょうか。そして、月は暗く照らすのは暗いんでしょうか、明るいんでしょうか。本当に百万遍もお礼を言うのはこりらです。では失礼します】
初めて感想などを書いてしまった。緊張するものだ。
はっ! すばらしかったが、すばろすかった、こちらですが、こりらですになってしまった!
【こりら】ってちょっとかわいい。
しかし既に時は遅しで、自分では削除することができないシステムだ。ああ〜……軽くショックだったがしかたがない。
私はこの作品を読んで、せめて感想くらい上手く書けるようになりたいと強く思った。
よし、たくさんの作品を読もう。
小説ばかの入り口に立ったような気がした。ありがとう弥招先生。
私は感動を胸に床についた。
朝も清々しく目覚め、ペナルティーにはならない。
歯を磨こうと台所を横切る時、カレンダーにペナルティー6と書かれていた。
ひとつ増えてるじゃないか! なんでだよ。
(トイレの電気がつきっぱなし)
頭を抱えた。モモコのちっこのせいだった。