57話 クリスティアの涙
◇◇◇
祝勝パーティーの次の日の朝。
ベッドから重たい体を起こしたリズリーは、ドレッサーの鏡に映る自分の顔を見て、苦笑した。
「酷い顔……」
目の下の隈と、腫れた瞼に優しく触れながら、リズリーは昨夜のことを思い出した。
昨夜、ルカの転移魔法によって、リズリーは意識を失ったクリスティアと共にアウグスト公爵邸へと戻ってきていた。
夜もそろそろ深くなる時間だったことと、洗脳魔法を解かれた人間は最低でも半日は眠り続けることから、クリスティアは事前にルカが手配してくれた部屋へ、リズリーとルカも部屋で休んだ。
けれど、ベッドに潜り込んでも、眠気はこなかった。
ようやくクリスティアを洗脳魔法から解放できた喜びと、これから代償契約を破棄させることができる喜びだけが頭を支配していたならば良かったのに。
「ユラン……どうして……」
ユラン本人の口から紡がれた自白。
呪うほど憎んでいるはずのユランからの求婚。
眼差しや声色から感じ取れた執着、狂気。クリスティアに対する、嫌悪。
昨夜から今まで、リズリーの頭の中からユランのことが頭から離れなかったからだ。
「もう、訳が分からない……」
「リズリー様、失礼いたします」
「!」
いつもより少し大きなノックと挨拶。部屋に入ってきたのは、息を切らしたシルビアだった。
部屋で休むリズリーの代わりに、昨夜からクリスティアについていてくれたのも彼女だ。
「起きがけに申し訳ありません! クリスティア様が目を覚まされましたので、急ぎお伝えしなければと……!」
「……! 直ぐに向かうわ!」
シルビアの報告を受けたリズリーは、彼女に手伝ってもらいながら急いで支度をすると、直ぐにクリスティアの部屋に向かった。
「リズリー!」
「ルカ様……!」
クリスティアの部屋の前に着くと、背後からルカに声を掛けられた。張り詰めていた感情が、無意識に少し緩んだのをリズリーは感じた。
「ルカ様も来てくださったんですね」
「ああ、連絡を受けてな。洗脳魔法が無事解けているか念の為確認したいから、俺も入室しても構わないか?」
「もちろんです」
ここは対呪いの結界内だ。洗脳魔法が解けていれば、リズリーは久しぶりに何にも干渉されていないクリスティアと対峙することになる。
(嬉しいけれど、少し緊張する……)
リズリーは一度深く息を吐き、自身を落ち着かせる。
そして、意を決して声をかけた。
「お姉様、リズリーです。ルカ様と共に参りました。失礼しま──」
「リズ、リー……?」
キィ……と扉が開いた同時に聞こえてくる、クリスティアの声。か細くて僅かに震えていた。
「リズリー……っ」
再び妹の名を口にしたクリスティアの目には、涙が浮かんでいる。
クリスティアの、僅かにさえ嫌悪を抱いていない瞳。久しぶりにその目で見つめられて、リズリーは胸をギュッと掴まれたような気分になる。
ツゥ……と、涙が彼女の頬を濡らした瞬間、リズリーはただひたすら、クリスティアのもとへと走り出した。
「おねぇさま……っ」
「リズリー……リズリー……!」
クリスティアを強く抱き締めれば、彼女は縋るようにしてリズリーの背に手を伸ばした。
背中越しに感じるその手は、声と同様に震えている。
こんなに弱々しいクリスティアを見るのは、初めてだ。彼女はいつも強くて、明るくて、少し気が強くて、よく笑う人だったから。
「お姉様、大丈夫。大丈夫だから、泣かないで」
リズリーは、クリスティアの背中を優しく擦る。
子どものようにひぐひぐと嗚咽を漏らす姉を、どうしたら慰めてあげられるんだろうかという思考で、この時は頭がいっぱいだった。
「ごめっ、なさい……ごめんなさい、リズリー」
「え……?」
しかし、クリスティアは謝罪を口にながら、ずるずると滑り落ちるようにして、床に膝をついた。リズリーも続いて床に膝をつけ、クリスティアを心配そうな面持ちで見つめていると、はたと疑問に気付いた。
何も覚えていないはずのクリスティアが、何故こんなにもボロボロと涙を流しているのだろう、と。何故、謝っているのだろう、と。
(まさか……)
リズリーの中で、考えたくなかった想像が浮かび上がった。
「お姉様まさか、この三年間の私に関するできごとを、覚えているの……?」
以前、ルカからリズリーにかけられた呪いの詳細を聞いた際、一つだけ安堵した箇所があった。
──それは、記憶について。
リズリーの呪いが解ける、もしくは呪いが無効化される状況化(今で言うと対呪いの結界内にいること)において、呪いの影響を受けた第三者たちの記憶から、呪いに関係する者や事柄の一切の記憶が消えるということだ。
つまり、リズリーが呪われた三年前から今に至る前までの間、クリスティアはリズリーにしたこと、言ったこと、関わったこと全てを忘れているはずだった。リズリーに対する罪悪感も、何一つ感じずにいられるはず、だったのに。
「私、リズリーに何度も酷いことを言ったわ……何度も、何度も、貴女を傷付けてしまった……っ」
「お姉様、やっぱり全て覚えて──」
「うっ、うわぁぁっ……! ごめんなさいっ、ごめんなさい、リズリィ……!!」
……間違いない。
しゃくり上げるクリスティアを見て、リズリーは確信した。
クリスティアは、この三年間の出来事を、リズリーを傷付けてしまったことを全て覚えている。そして、罪悪感に押しつぶされそうになっているのだと。
「お姉様、もう謝らないで……! お姉様も被害者なんだよ! 何も悪くない……!」
「でもっ、でもっ、私がリズリーを呪った……! あの術式に、魔力を注いだのは私なの……! 私が、リズリーをあんな目にあわせてしまったの……っ」
「それも、全て洗脳魔法で操られていたからじゃない! お姉様の意思じゃないことくらい分かってる……! だから……!」
泣かないで、謝らないで、どうか、笑っていて。
とめどなく涙が溢れるクリスティアを、リズリーはより一層力強く抱き締めた。




