77 心頭滅却すれば火もまた涼し。熱いけど。
「ファクト…」
シリウスの唇が近付き……
「好きなの…ずっと……」
全てを受け入れようとするその瞬間……
「ごめん」
と、シリウスには小さく聞こえ、
「え?」
と反応した時には既にシリウスの体は宙に浮いていた。
しかも、ぐぼっと目が歪み、ファクトはシリウスの目に親指を、こめかみを他の指と手の平で抑え、胴体を足で蹴り上げ頭上に飛ばしたのだ。
「ぅああっ!!!」
と、驚きのままシリウスはズダーーーン!!!と、横になったファクトの頭上の壁に吹っ飛ぶ。
ファクトは、スタっと体を起こして構える。
「…シリウス…。ごめんね。」
「……」
体勢だけファクトの方を向くと、少し抉られた目が、信じられないものでも見るように見開いた。
少しドキリとするファクト。でも、もう自分を揺るがせない。
「……ファクト…」
「いや、ほんと、ごめん。でもダメだ、やっぱり。」
「…ファクト…どうして……」
シリウスは反撃することもなく、呆然とファクトを見ている。
そして、泣く機能があるのかないのか。
感性と連動しているのかどうなのか。
潰れた眉間から、さめざめと涙が落ちる。
シリウスの歪んだ顔は、瞬きもしないが涙を止めることもしない。
「ここまで来たら……もう意地だし。」
先、モーゼスにも同じことをしてしまった。もう、無敵になるしかない。人間だろうが、ヒューマノイドだろうが女性はシャットアウトである。あちこち誰かに揺らいでいる時点で、自分には一人の女性を受け入れる資格がない、とそう思うしかない。
思うのだ。妄想チームに根拠はない。
しかし、しばらくしてシリウスは動き出す。
「………………」
歪んだ目のままに、ファクトにまた近付き腕を掴んだ。
「うっっ」
やっぱり力では敵わない。また乗りかかられそうになり、顎を抑えられる。
「…諦めたらいい。今だけだから―――」
「う゛っ……」
が、ファクトは一瞬パン!と、小さな電気だまりを爆ぜさせた。そしてシリウスの手元が緩んだ隙に、組み技で位置を逆転して地面に押さえ込む。
けれど、当たり前だがすぐにまた押さえ込まれそうになる。どうにか立ち上がり、側頭部に思いっきり蹴りを食らわした。
ガンっ!!とシリウスが床に叩きつけられる。
人間のような感触。ただ、もしかしてこっちが怪我をしないように、何かモードを切り替えているのかもしれない。
けれど、シリウスはファクトに掛かってきた。少しもみ合い、回した肘がシリウスの顔にヒットする。
一息するように間を置いて、シリウスは不安定なまま立ち上がろうとするも、そのまま地面をスライドし、ファクトの足元を取る。今度はファクトがまた床に傾き、加減はされるがそれでも衝撃はきた。
「うぐっ!」
頭はカバーされたが、シリウスの方が圧倒的に力があり、また手首を取られる。
「シリウス!やめろ!」
これは無理やりであると言いたいが、頭が回らない。
「ファクト、どうして?!あなたとなら!」
「シリウス!!」
と、叫んだと同時に、ファクトは叫ぶ。間髪入れない。いれたら迷う。
少しまた爆ぜさせゆるんだ隙に、
「ライ……」
「らい?」
「……デーンーーーーー!!!!!」
と、大きく閃光を散らした。
あの、妄想チームで決められた名前に捻りがない必殺技。あいつらに言っていやりたい。ダサいだけでなく、ランデーンは言いにくい。「やあ!」で十分である。しかし、妄想チームの領分は守った。
ダーーーーーン!!!!!
とシリウスの周りに、ものすごい閃光と音が光った。
電子機器が最も弱いものは電気でもある。電気のくせに。ファクトの周りにもバジバチ音と閃光が続いていて、体が浮く感覚がした。多分、これは電気を生み出す技なのではなく、誘導しているのだと思うのだが、この地下のどこにこんなに電気があるのか。
「……」
焦げた匂いがして、一瞬自分も死んだかと思ったのに、死にそうになっていたのは近くに倒れ込んだシリウスだった。頭片面が少しチリヂリになって、顔が一部焼けている。そっと半身を起こすと、服は半分燃えていて、同じように焦げた手で落ちた服を胸までたくし上げた。
ひどい罪悪感と、それでも湧き上がる何か、扇動心。
「…………」
けれど今は、先人に学ぶ。
『心頭滅却すれば火もまた涼し』
前も使った気がするが、この一文に限る。
自分が開発した『ライデーン』よりよっぽど戦いにふさわしい。
今目の前のアンドロイドたちの目的は人間を落とすことだ。その主権をかっさらう事。たとえアンドロイド自身にその自覚はなくとも。
エバが手放したものを、人間以外が奪ったように。
なりふり構っていられないのだろう。ファクトはバイトや平社員のようなものだが、今、あらゆる立ち位置が全ての中核と繋がっている。
倉鍵、蟹目、大房、河漢、ベガス。
東アジア、SR社、正道教、ユラス。親戚とはいえ、族長家系。
DPサイコス。
学生と社会人、子供たち。教師と生徒。
一気に網に掛けられる。
心を制するしかないのだ。
まず、シリウスの中には北斗さんがいる。自分の母親以上世代である。それがたとえ分解された要素としてでも。しかも、自分の父世代やそれ以上のたくさんの妻たちをも抱えている。
はい、もうこの時点で自分の心を萎える方に持っていくしかない。
ちょっと雰囲気に飲まれたい思いもなくはなかったが、自分の人生全体を見る。ここで決めてはならないと。ゲンナリするしかないではないか。おじさんたちに申し訳なさすぎる。テニアのおじさんになんと言うのだ。
シリウス単体で見れば、藤湾大にもいそうな学生で通じそうだが、恐ろしい蛇でもあるのだ。最新であるからこその、デジタル化した世界に出力された、最も古い蛇。
あれこれ思いながら、自分を律する。
要するに、今は言い訳をしてでもこの場を乗り切る。
片や、未だ信じられない顔でファクトを見つめているシリウス。
「……あ…」
シリウスのこんな姿でも、女性を扇動的だと思ってしまう自分がいたからだ。男とは現金なものである。でも、目を逸らさず自分の来ていたパーカをその肩に掛けた。
「シリウスっ?……」
自分から技を仕掛けたのに思わず駆け寄って。
『ファクト…』
「あ!ごめん、ホントごめん!」
さすがに人の姿をした者に対して心が痛む。
「……痛い?」
「…痛い……」
「えっ?マジ?」
「……」
「……わけないよ。」
「…あ、え?ほんと?……よかった……。
その…よくはないんだけどね…ごめん……」
その後のシリウスの音声は口からではなく他の場所からした。
『バカだよね…、あなたがそうしたのだから、早くここを逃げればいいのに…』
と、すると亡霊のようにシリウスはガッと姿勢を正し立ち上がった。ひどく機械的に。
「っぃい!」
怯えるもシリウスはもう何もしない。
そしてファクトを見て冷たく言う。
『もしかして、バカ高い機体をぶっ壊して、今度はいくら借金を背負うんだろうって心配してる?』
「え?借金……」
それは困る。1億7千万どころではないだろう。シリウスの機体1台は一体いくらするのか。空母並みというウワサがあるも、ある情報によると総合的には値段の計算ができないほどらしい。こうなると、値段以上に恐ろしいのはそれだけの人の期待、労働や研究含む、時間と価値を一瞬で壊してしまったことだ。プライスレスで許してもらえないだろうか。
『…大丈夫。このくらいでは根幹部分は壊れないし…大元はここだけではないから……。
でも、この…この機体で……私たちは……。
赤ちゃんのあなたを見て……年老いて、いつか土に帰っていくいくあなたを………』
シリウスが、ミザルの中で見た胎動。
胎動は聴くだけじゃない。見て触れて感じる、温かい不思議な感触。
プログラムは何でも数字に置き換えるけれど、命は記号じゃない。こんなに小さくても命って触ることができるんだって分かった、あの時のミザルの気持ち。
世界の構成は全部数字に置き換えられるのに、計算が追い付かないほどの躍動。
科学者たちが心血を注いでも完璧なものは作れないのに、自動で物質を、命を作っていく不思議な人体。
神の設計図。
全てが流れていく。
___
「ラスーーーー!!タロウに餌やった~?」
「これ以上あげちゃだめだってさ。」
「なんでー?もっとあげたいよーー。」
これは誰の記憶?誰の声?
空気に散り注ぐ、冷たい水。
タニアの滝で――
初めて見た、バカみたいに能天気な男の子。
そしてこれは過去?未来?
でもこれも、全部流れる。
きれいな結婚指輪だった。
もうそんなものも要らないと思ったけれど…
彼はそれをはめようとしてうまくいかないから、左の手にひばり結びではめてくれた。
知ってる?
その時涙が出たんだよ。それは捨てたものだったのに。
全ての思い出と共に。
受け取ってよかったのか、放り投げたらよかったのかなんて分からない。でも、彼は…ずれ落ちる腕に、それを自分のヘアゴムできちんと結んでくれたから…
私の腕は動かなかったから……
この身から外せなかったんだよ……。
「……シリウス?」
それ以上は何も言わないけれど………、少し涙目のままのシリウス。
シリウスは、スーと横を向く。
『…あっち……』
「あっち?」
何?と、思ったとたん、シリウスは壊れて少し肌が見えたままの胸元をぐっと上げて、ザンっと壊れた上の大きな排気口に飛び乗った。
そしてそのままどこかに去って行く。
「シリウス?!」
置いていかれたファクトは唖然としてしまうも、またどこかで大きな音がする。




