70 道のない道
話があっちこっち飛びますが、河漢にすぐ戻ります。
ムギは駆ける。
河漢の地下を。
「おい、シェダル。お前に連絡だ。」
「…俺?」
河漢の端から、艾葉付近まで降りてきたシェダルは連絡を変わった。
「換わったけど誰?」
『もしもし、シェダルさん?』
「そうだけど。」
「私。ミツファ響の友人です。ムギって言います。』
「……」
一瞬止まる。
「何?」
『響に、河漢や艾葉のDP(深層心理)に入ってもらったんです。響なら大丈夫だと思うけど……思いたいけど……。なんの保険もないから、もし何かあったら見てあげて下さい。』
「……?」
『私の連絡先はこっちね。でも、大まかなことは東アジアのこっちにお願い。』
連絡先が示される。
「んあ?」
意味が分からない…………けれど考える。
つまり今、何が渦巻いているのか分からない、ギュグニーが開いた後のこの河漢に響を放り込んだということだ。
「お前、何言ってるんだ。何がしたいんだ?ファクトは??」
『ファクトは行方不明。電波の届かないところにいるのかな?シャプレー社長は忙しそうだし、まだコントロールできないって。』
「………」
「黒豚はどこにいるんだ?」
『黒豚?』
「響だよ。」
『艾葉の地下の中心だよ。』
パーッと地図が示される。
「なんでそんなところに?」
『二人で行ってみた。』
「??バカなのか?俺は、もう黒豚とは関わらねーから。豚が嫌だって言ったんだよ。」
『そんなこと言わないで。今日のこの今だけでいいから。考えたら心理層って結構危ないのかなって……』
「俺も知らねーよ!」
勝手に行き来していただけなのでシェダルもよく知らない。でも、豚は危険だとも言っていた。
実はシェダルも、ファクトほど実体に繋がる心理世界を響と共有していない。ファクトと響は心理層当人たちの目線で、時に俯瞰で観るようにDP世界を見ていたが、シェダルは見られている側だった。あとは対話だ。
おそらくギュグニーの中ですら、響は自分の出口を持っているだろうと予測できるが、肉体が安全地帯にあってのことだ。艾葉自体が危ないのに、肉体もそこにあるとはこいつは何を言っているんだ。
今、艾葉中心は各箇所爆破に見舞われているのだ。
「………」
横で聞いていた東アジア兵も驚いている。
『身の安全は、こっちもユラス軍人がいるから大丈夫だと思う。』
「……」
思うってなんだと、デバイスの向こうのガキンチョにシェダルも思う。
『私、心理層ってよく分からないんだけど、お願いしちゃったから何かあったらよろしく。』
「はあ???」
分からないのに行かせたのかと驚くしかない。
***
一方、響は知ってしまった。
この地下に、このアンタレスの地下に、信じられないほどの亡霊が住み着いている。
ギュグニーとも違う、都市と、廃墟と渦巻くスラムの気運。
本当の亡霊になろうとしているギュグニーと、今も生きようとしているアンタレスの亡霊たち。
虐待を受けてきた者、放置された者、生きる気力を失くした者、倫理を喪失した者、医者にもかかれず少しずつ身を削った者、いつの間にか死んでいた者、誰にも覚えられなかった者。
全ての自由があるはずの大都市に、流れ着いて、ここしかなかった者。
赤星にはその全てがある。
どこかにラボが見える。どこの?
まさかこの地下に?
「………」
信じられない顔で、響は全てを見晴らす。
生命になり切れない命がここにはたくさんあった。
たくさんの試作機や失敗機器にの向こうに見える、形容のしがたい肉の命。
アンタレスの平和に見える場所にだって悲しみはある。簡単に関係を持ち、堕胎された多くの命。捨てられた赤子。前時代より減ってきてはいるが、それでもアンタレスだけで年数万単位である事情。
でもそれとも違うのだ。そこにはまだ、人の人生がある。
でも、この地下に潜むものは、人にもなりきれず、魂が居場所を定められず、戸惑いながら彷徨う命の器。喪失した両親、人格性。
人なのか、臓器なのか。どちらとも言えない体。
見ていられずに意識を背けると、底の底に溜まった、水に流れた遺体の流れ着く場所。
誰も知らない場所に溜まる白骨もある。老若男女、全てがいる。
自分が死んだとすら気が付いていない者もいた。
河漢の底に一つの都市を作るほど膨大な霊世界。
進むことも下がることもできず、各々が各々のままに、まさに同じことを繰り返す混沌の意識世界。
いつかのように、また、響の目に涙があふれてくる。
「………」
駄目だと、胸の奥が警告する。ここに相対してはだめだ。
そうしてもう一度目を横に向ける。
今度。見えるのは河漢ではない。
アンタレスだ。
若き日のカストルが見える。宗教総師長になる前のカストル。
たくさんの人間と交渉し、右には左と言われ、左には右だと言われ、アジアにはユラスと言われ、ユラスにはアジアだと言われる。
この後、もっと言われることであろう。
河漢の売春宿にも出入りする。
でも、向かうのはさらにその奥。
高級なものに囲まれているのに、ひどく雑然としている場所でまた交渉をしている。
銃を所持する男たちに囲まれてやっと出てきたのに、外での評価は生臭坊主だった。安全な場所で生きている牧師や僧たちが、マスコミに乗って流す噂。
欲望や特需をむさぼる男、戦争を誘導した男と。
けれどカストルは下を向かない。
前人から受け継いだアンタレスの冬眠地帯。河漢と、いつかベガスと呼ばれる場所。
既に地下は動き出している。
いつかひっくり返るであろう。全ての土地が隆起するように。
今、涙し懸命に生きる者と、整えられた寝床で尊大に世界を評価する者とが、
いつかひっくり返る。
自分の死後でもいい。ただせめて、時代の領分の責任は果たしたい。
時は進んだのか遡ったのか分からない。
男たちが円卓を囲む。
「グラフィアスが天暈と南斗でも拒否されました。」
「……」
一人の男がため息をつく。倉鍵はもちろんだめだった。
一人の目が澄んだ青年。グラフィアスはまだ若く、クスリにも貸付にも手を出していないし、女商売もさせていない。裏の世界で生まれて裏の世界で生きてきたが、個人としてはまだここから出すことはできる。そして彼は温厚で賢かった。
「唯一受け入れてくれたところが大房だ。」
「……」
今度は皆がため息をつく。
倉鍵で100出来ることが、大房では0……せめて1でもできればいい方であろう。
大房は東アジアアンタレスの一角として認識されているが、歴史の中で移民が移民を呼んで先祖の代からいる者とも婚姻を重ね、境がなくなるほどにアンタレスと混ざり合ったような地域だ。ただ、大戦後の前時代初期からの帰化人の商売地域であり、入ってきた者たちも商業に通じていたため、中小企業や商店があふれる、でもぼろ儲けもできず、目立ちもしない特色のない地域になった。
余所者やはぐれもの、アウトローな人間も受け入れる下地があったからか、アスと愛称を持ったグラディアスは大房に住み着き働きが評価され、まとまりのない大房を整備していった。
サルガスの曽祖父である。
また時は前後する。
アンタレスの有名な教会と寺の聖職者三人に同じ預言が下った。
アンタレスでということは、世界に影響を及ぼす東アジア直管都市フォーマルハウトに並ぶ最大規模の教会である。
『アンタレスの廃墟に大学ができる。
最初に七人、それから七十人の流れの女を通わせ、
次に七百人の。
そして、七千人の女たちを、
最後に七万人の女たちに修士を授けなさい。
赤星はそれによって贖われる。』
アンタレスの廃墟といえば、西の廃虚都市か、巨大スラム河漢であろう。
一人は騒ぎを起こしたくなくて、それをなかったことにした。
一人は多くの努力をしたが、河漢は7年経っても何も起こらなかったので、周りの説得もあり諦めた。
流れの女たちも非常に身勝手で、大学どころか義務教育の勉強すら嫌。教えても分からない者も多かった。それに、特別学校に通わせれば、牧師やスタッフ、生徒に手を出したからだ。さらに何人かは、どう手にしたのか高級な住まいを持って好きに生活をしている。自分勝手に世を叫んで、混乱を作る者もいた。
ほんの少しの賢い女たちは、いつの間にかどこかに散って行った。
預言を受けた最後の一人は、新教教会の副代表牧師である。
彼はその預言の後に起こったあることが気になっていた。
アジアラインの西の国。聖典旧約の初期に少しだけ出てくるユラスの子孫、ユラス人の国で最大民族ナオス族ナオス家の族長が虐殺されたニュースが入ってきたのだ。
彼は聖典歴史から数千年、初めて東アジアに歩み寄った内陸部族長であった。
そのため一旦多くのことが白紙になり、そしてさらに混乱を招いたと聞いている。
預言は羅針盤だ。
その通り進むこともあれば、最初の針の方向を誰かが指で意図に変えてしまい、成されない場合もある。
預言や聖典歴史は、一見あやふやな言葉でも、必ず実世界と関連している。しかもそれは、頭と足先が離れていても一つの体であるように、最北端も最南端も全てが繋がっている。東と西も。一点だけ見ていては重要なことを見失う。世界の中心アンタレスと、皆に知られない世界のどこかも、連動しているのだ。そして時代もまたに掛ける。その時々の中心が違うだけで。
知らないどこかの地域、あまり世になじみのないのユラス。
ユラスは人の子であれば、横の家庭の子でも、孤児でも、他民族でも教育をさせる国であった。戦争をしてはいるが、それでもほぼ義務教育を経ているし、大学進学率も高い。戦地でも勉強する者がいるほどだ。
『人は誰しもが、神に似たものでなければならない』
という聖典のみ言葉に沿って、全知全能の神の吐息ほどでも世の理を知っていないといけないと考えているからだ。
牧師は、ナオス族族長がその預言に深く関わり、彼を喪失してしまったことにより、多くのことが水の泡となって消えてしまったのだと理解した。
そして水のみで四十日四十夜祈り、多くの文献を読み、時に様々な垣根を越えて小さな人にも教えを請い、その預言の撤回を改めて感じなかった牧師は、天の願いをかなえるために予言を叶える別の道を探ることにした。
天は髄が消える前までは、その民族を、人を、事を用いることができる。
そして彼は、誰も話しを聞いてくれず教会でも大騒動が起こったため、天だけを握りしめ、たった一人、アンタレスという荒野に身を放った。
けれど彼の心は、誰よりも楽しさに満ちていた。
みなが無理と言い、実際当代も次の代も何も起こらなかった廃墟に、たくさんのの文献を読み漁り現在の治世を見る中で、既に大きな青写真を描いていたからだ。




