60 ミザルの懇願
なぜモーゼスがそんな話を?
白銀は語る。
「チコ、認める。私は認めるから。東アジアやSR社の方がまだまとも。私もそれは知っている。」
案外アンドロイドもそう思っているのか。
「ギュグニーが、最高と言っているわけじゃない。最近分かったのだけど、私だってそっちが楽しそうだもの。ギュグニーも嫌いだわ。
だから権力を二分しましょう。私とあなたで。それこそが世の一勢力の長期支配の形骸化現象を無くし、公平と平等を生む。」
「お前たちが思想信教集会の自由を認めたらな。」
「私は認めてるよ?でも、そうしないのは人間だもの!
それに、SR社はこの世の中であまりにも一強強大になってしまった。あなたの御父上のポラリスだって、研究ばかりに身を注いで、世の中をよく見ているわけではないでしょ?そんな一強で半社会主義を目指したら、ギュグニーや北メンカルと変わりなくなるよ?」
「人本社会主義と、神本社会主義は全く違うだろ。」
「だって、人間が神本性を理解していないんだもの。なんだって同じでしょう。」
「……」
間違ってはいない。そういって世界はこれまでどの時代でも格差社会を生んできたのだ。それが今こそ最高のものになりながら。なぜかと言えば自由世界も独裁社会も旧教新教側も経済だけは手放せなかったのだ。結局は同じものになる。物質が大好きだから。
しかし、ただ手放してしまっても、この時代ではまだ自由圏を守れなくなってしまう。
「…」
「何か言ったらどう?」
「……」
「さあ、チコ見るんだ。真実を!」
モーゼスの口調が突然変わる。
「?」
「義父に道義でも立てているのか?」
「ポラリスは誠実でも、崇高な人間なんかでもない。
お前を娘にしたのも、全部自分のためだ…。」
「……」
言われるが、それでもチコは動揺しない。
「被験体になってきた者たちへの詫びだと素晴らしいことを言っておいてな。全部自分の罪悪感を拭うためだ。
そしてお前のような被験体を手に入れるためのな…」
「……」
「…?!」
チコは何も答えない。代わりに動揺しているのは、端で聞いているしかないラスだ。全部は聴こえないが感情的になってきた白銀の声が聞こえる。
白銀はまたガッっとチコの髪を引っ張った。
「お前が一番の慰みになっただろうよ。トップクラスの被験体の上に、素直だったからな。謝れば何でも受け入れてくれるし…他の者のように、怨むこともない。」
「……」
「東アジアもSR社も嘘だらけだ。悔しくないか?同じように悪いことをしているのに…あいつらだけ賞賛を受け、甘い汁を吸っている。
知っているか?歴史はな、善人の顔をした傀儡たちに微笑むんだよ。」
「…」
「チコ、怨んでもいい。離別してもいい。ユラスも大概だ。」
それから白銀は少し落ち着いた。
「すまん、感情的になってしまった。
チコ、君のコードと私の手の内を交換しよう。それがお互いの平等な交換条件になる。大事なものを交換すれば、チコは我々に何もできない代わりに、我々も君たちに何もできない。そして、協約も生まれるだろう。」
コードとは、ニューロス体に関する所有権と操作権だ。連合国においてはサイボーグ化の場合、どんなにお金をかけてもらってもその権利が本人を離れることはない。一定の国際規定や重篤な犯罪を犯した場合にのみその限りではないが、様々な規制が行使されてもまず譲渡自体がされることはほぼない。
「さあ、こっちに来るんだ。譲れとは言わない。
チココードを共有しよう。」
「総長!俺のことは無視して下さい!」
ラスは自分も叩かれると思ったが、緋色のモーゼスは動かない。
そして、やっとチコは話し出す。
「ミクライ博士…」
「……」
白銀が無言で驚く。
「知っていたのか?」
ミクライは驚く。
「さあ。先ギュグニーで拘束されただろ?今、遠隔なのか別人なのかプログラムなのか知らんが。」
「はは、何でもいい。…チコ。君次第だ。別に私の元に来たからと、心身を拘束するわけじゃない。東アジアともユラスとも、そして我々ともバランスを取って行こうと言っているんだ。アジアやユラスだけでなく、私も大概だからな。
その鍵が君になる。」
下を向いていたチコが、ゆっくり白銀を見る。
「博士……」
「チコ、私は君を軸に、セイガの協力関係を気付いて行こうとしているんだ。
さあ。」
ミクライは握手のために手をだし、チコもそこに手を伸ばした。
「……」
ラスは気が気でない。今、何が起こっているのかも自分の選択もよく分からない…でも………
二人が互いの一手を交換する約束……
に至るかと思った時、パチンと音がする。
チコは手の平に触れることもなく、白銀……そしてその中にいる博士の手弾いた。
「…チコ?」
博士は怪訝な顔でチコを見る。
「博士、私はポラリスがどういう人間であれ、私自身の立場を譲ることはしません。」
「はっ?君はもっと賢い人間だと思ったが?」
「ポラリスが私の父であることと、研究やニューロス管理は別です。」
「………今、君は、世界の未来を変える大事なカードを切り捨てようとしている。それが分からないのか?ギュグニー関連の一端を掌握できる物を渡すと言っているんだ。」
「具体性もなく、私たちの間に信頼もありません。」
「っ!何が信頼だ!信頼を欠いたのはお前たちだろ!!」
怒った白銀が手で指示を出すと、どこに控えていたのか控えていた数体のニューロスアンドロイドか一気にもう一度チコを地に伏せさせた。
「ハッ」
喉から地面に叩きつけるように押さえ込まれる。そして白銀に横腹を蹴られ、顔を上げさせられまた叩かれる。
「やめろ!!」
ラスが動こうとすると、緋色のモーゼスが腕を抑える。このチコという人がどうであれ、女性がこんなふうにリンチのようにされるのは見ていられなかった。遠隔操作だからか、人間が動かしているからか、なぜヒューマンセーブが動かないのだ。
「やめろよ!!」
いくらチコでも、AやSクラスの完全ニューロス体複数機にこの状態から掛かられたら力では勝てない。
「くっ…ぅ」
「このバカが!穏便に済まさせようと思った私の気持ちが分からんのか!!」
「……ぅ」
しかし締め付けがきついのか、チコの息が上がる。
「おい、放せ!喉がダメになるぞ。」
白銀は首の拘束をやめさせ、チコが落ち着くのを待った。
「……私はこうして分かりやすく請求するがな、ポラリスたちあいつらは懐柔するんだ…。さもいい事のように、世界のためだと大旗を振ってな。ミザルもミザルだ。女のヒステリーに付き合わされたこっちの身にもなってみろ。毎度毎度好き勝手しやがって。」
「…ミ……ミクライ博士は…知らないから…」
チコはそれでも冷静だった。
「何がだ?」
「ポラリスがどれほど……たくさんの天秤を持って…振り切れないものもある中で……悩んで…悩んで今の道を選んできたか……」
「はっ?笑えるな。」
ミクライは笑い出す。
「先まで偉そうなことを言って、所詮いい話に懐柔されているだけじゃないか!お前とは話が通じそうにないと分かった。」
ミクライは顔をしかめる。
「お前もポラリスと同類だ!耳触りの良い言葉で世界の平和を語って、耳触りのいい言葉だけ受け入れ合う。本当の世界はもっともっと複雑なのにな。
何を言っても無駄だったんだ。甘すぎてお前には話が通じん。カストルと同じだ!」
「博士にも話が通じなさそうだから言わないだけだ……」
チコが言ったところで、ガンっ!とチコの頭が揺らぐ。さらにチコの頭を蹴った。
「…っ」
ラスがもがくが今はどうにもできない。
「ラス君、安心したまえ。この女はもう身もボロボロだ。今更どうしようが大して関係ない。」
「……っ」
「情けないな。四肢や一部だけ強化したところで、所詮生身だ。どうだ?本当に髄になるまで強化してやろうか?」
それでもチコは。澄んだ………あの誰もが欲しがった紫の目で、ただ、ミクライを見つめる。
「なんだ!この野郎!!この気に入らない目!」
気に入らないあの目の辺りをもう一発蹴る。そして仰向けにさせられ、今度は腹を抑えられた。
「!!」
ファクト!と、
ラスはどこにいるのかも分からない友人の名を心で呼ぶ。
ファクトが来ても何も解決しないかもしれない。でも、彼女はファクトの姉だ。
「あのクソが、こんなものを欲しがらなければ最初からいくらでも捕獲できたのに。こんな『目』などいくらでも作れるのにな!」
チコには分かる。おそらく、チコの肢体を欲しがっていたアルゲニブ外相のことだろう。
チコは知っている。たくさんのことを知っている。
ポラリスがどんなにこれまでの選択を悩んできたか、苦しんで来たか。全部ではないけれど、その深さも。
でもこの男にはどんなに話しても、今はきっと分からない。
同じような行動をしても、心に持っているものがあまりにも違うから。
どこにも同じ事実はある。
でもどう捉えるかは、どう位置付けるかはまた別だ。
仰向けに押さえ付けられた目尻から、下に涙が流れる。
痛みからではない。
最初はこんなふうではなかったのだ。
ポラリスやマーカー博士夫妻たちと、最初は意思を一つにしていたミクライ。なぜこんなことになってしまったのか。ミザルが優秀過ぎたから?他の博士たちの一歩手前をミザルがいつも歩いていた。それともSR社に自分のしたい研究を拒絶されたから?連合国側にも不正をする者がいることを知っていたから?その全部が積もり積もって?
その涙が……
一粒、
下に下に落ちる。
その涙はいつの涙?
今のもの?
それとももう忘れてしまった、いつかの………昔のもの?
ラボの深い電解液を通過し…………
聴こえる、
あの頃のミザルの声。
__
「チコ…あなたにお願いがあるの……」
養子になってからいつも自分を避けているのに、必要な時には頭を下げに来るミザル。
「…チコ……チコに…お願いしたいの。」
まだ頷くことしか知らないチコに出した卑怯な取引き。
声が聞こえるのか聴こえないのかも分からない少女に………
あの頃ミザルは必死に訴えた。
あの、ずっと昔のラボで。




