決勝戦《控え室》
やっと最後までかき上げることが出来たのでUPします。大変長らくお待たせしました。
ヴァイスが骸骨になる前――つまり、彼がまだ人間だった頃。彼は付与魔道士として、ごく普通の人生を送っていた。
ヴァイスの魔法は『成長促進』という、戦闘には一切使えない補助魔法だった。
その効果は、魔法を付与した対象の肉体的・精神的能力の成長度合いを向上させるという、言うなればレベリングの為に存在する、そんな魔法だ。
一見、如何にも役に立たなそうな彼の魔法。しかし実際は、彼の魔法は役に立たないどころか、むしろ極めて有用な魔法だった。
例えばここに、レベル上げをしている新米冒険者パーティーが居たとしよう。彼らは新人の集まり故に、ゴブリン一匹を倒すのにすら苦労し、そしてようやく倒せたとしても、それによって得られる経験値は極めて少ない。ゴブリンより数段強いオークを倒せるほどになるには、数ヶ月の期間を要する。
しかし。そんな彼らのパーティーに、『成長促進』の魔法が使えるヴァイスが居たなら? その場合、彼の付与する成長促進の魔法によって、レベル上げの効率が格段に上がる。多少の個人差はあるだろうが、恐らく1ヶ月もかからずに、オークを倒せるようになるだろう。
つまりだ。一見、全く戦闘に利用できないこの『成長促進』の魔法。見方によっては、他のどんな魔法よりも遙かに有用であり、軍隊で兵士を訓練する教官達などからすれば、喉から手が出るほどに欲しい、そんな魔法であるのだ。
そして実際、ヴァイスはその魔法のお陰で、平均的に言えばかなり恵まれた生活を送っていた。
ヴァイスの仕事は、彼に依頼してきた冒険者パーティーに同行し、彼らに成長促進の魔法をかけることによって、そのレベル上げを手助けするというものだった。
本来、長い時間をかけて行わなければならないレベル上げ。しかしヴァイスが居れば、その労力は格段に減る。そのメリットはとても大きく、その為ヴァイスに同行を依頼する者達は、後を絶たなかった。時には、国の軍隊から『練兵のために軍に入隊してくれないか?』という打診さえあった。
そんな恵まれた生活を送っていたヴァイスに、ある時転機が訪れる。
彼にレベル上げの手伝いを申し込んできた、とある新米冒険者パーティー。そのパーティーのリーダーを務める、一人の女。名をナターシャというその女性に、ヴァイスは一目惚れしたのだ。
恋に落ちたヴァイスはすぐさま、ナターシャに告白した。恋人になって欲しいと。
本来、自分の方が同行を申し込むはずだったのに、同行どころか生涯の伴侶として一緒に居て欲しいと申し込まれたナターシャは、最初酷く困惑した。そして悩んだ末に彼女は『一度一緒に冒険に出て、その後返答する』とヴァイスに告げた。ヴァイスとしても、いきなり告白して受け入れて貰えるとは思っていなかったので、彼女からのその申し出を、喜んで受諾した。
その後、ヴァイスはナターシャがリーダーを務める冒険者パーティーに同行し、レベリングを手伝った。結果、彼らはごく僅かな期間で、目を見張るほどの成長を遂げることとなる。
予定していたレベリングを終え、街に戻った後。ヴァイスは再び、ナターシャに恋人になってくれるように申し込んだ。
「…わかったわ。そこまで言われたら、断れないもの」
そしてナターシャは、その申し出を受け入れた。こうして二人は恋人同士となったのだ。
それ以降、ヴァイスは他の冒険者パーティーのレベリングを手伝う仕事を辞め、ナターシャのパーティーの一員として、彼らのレベル上げを手助けする様になった。
ヴァイスは幸せだった。愛する人と共に、冒険が出来る。ずっと一緒に居られる。それだけで、言いようがないほどに幸福だった。
そして――ヴァイスが加入したことにより、彼らのパーティーは、瞬く間に実力を付けていった。その成長はめざましく、ほんの数年で、彼らは『国でも有数の冒険者パーティー』とまで讃えられる程の実力を付けていった。
ヴァイスとナターシャが付き合い始めてから、五年が過ぎた頃。ついに彼らは結ばれ、夫婦となった。その半年後、子宝にも恵まれた。
愛する妻と娘に囲まれ、さらには国有数の冒険者パーティーとして名声まで手に入れ、羨まれ――当時のヴァイスは幸せの絶頂に居た。『これ以上はない』とすら思えるほどに、幸福だった。
そして実際――それ以上は、なかった。
その日彼らは、とある古代遺跡の探索に赴いていた。その遺跡は、太古の昔に存在したという超古代文明が遺した迷宮であり、その内部には莫大な財宝が眠っていると言われていた。しかし――この数十年間、迷宮の探索は遅々として進んでいなかった。
強力なモンスター。次々に襲い来る罠。それらが、探索の妨害をし、多くの冒険者達の命を奪っていたのだ。
そんな危険な迷宮。そこに行こうと最初に言い出したのは、他ならないナターシャだった。
「大丈夫よ。私達ならきっと、迷宮だって攻略できる」
彼女の身を案じるヴァイスに、ナターシャはそう答え、『悪い予感がするから』と探索に乗り気でなかったヴァイスを無理矢理に、遺跡探索へと同行させた。
そして――ヴァイスの予感は、最悪の形で現実となる。
迫り来る数多のモンスター。それらを何とか撃退しながら、彼らは迷宮を奥へ奥へと突き進んだ。そして遂に、その最奥にある、宝物庫にたどり着いた。
見渡す限りの財宝。恐らく、残りの人生は遊んで暮らせるほどの、莫大な宝物。それらを前に、パーティーの者達は歓喜した。
しかし――その歓喜はすぐに、悲鳴へと変わった。
――ザシュッ! ザシュッ! ザシュッ!
突如。冒険の成功を喜ぶ仲間達の背中を、ナターシャが斬り始めたのだ。ナターシャに攻撃された者達は突然のことに為す術なく、全員が地に倒れた。その中にはナターシャの夫である、ヴァイスも含まれていた。
愛する妻に斬り付けられ、地面に伏したヴァイス。彼は、狂行に走る妻に「何のつもりだ!?」と叫び聞いた。
「あら、まだ死んでなかったの。運が良かったわね。それにしても『何のつもり』ですって? そんなの見てわかるでしょ。殺してるのよ、この場に居る全員」
「なっ…なぜ、なぜそんなことを!?」
「口封じの為よ」
「…!? 口封じ…だと!?」
「そうよ。本当はね、貴方だけ殺せれば良かったの、ヴァイス。貴方さえ死ねば、それで十分だった。だけど貴方を殺したことがバレないようにするには――口封じのためには、この場に居る全員を殺さなきゃならなかった。だから皆には悪いことしちゃったわ」
「俺を…殺す!? なぜだ! 何故そんな…必要が…!?」
「ヴァイス、貴方こう思ってるんでしょう? 私は貴方を愛しているって。だから、貴方と一緒になったんだって」
「違う…のか?」
ヴァイスの問いに、ナターシャは残酷な笑みを浮かべる。
「ぜーんぜん。好きじゃなかったわ。貴方のことなんて。愛してなんかいなかった。単に、『手っ取り早くレベル上げをする』のには、恋人のフリをして貴方を利用するのが一番だったから、愛している演技をしてただけよ」
「なっ…」
「本当は結婚するつもりなんてなかったの。それなりにレベルが上がって用済みになったら、さっさと捨てるつもりだったのよ。でも…あぁ、忌々しい。油断してたのね、私。貴方に隠れて不倫していたのだけど、お酒に酔った勢いで…子供なんて作っちゃった。焦ったわ、とても。もし貴方にバレてしまったら、貴方は私の元から去ってしまうかもしれない。それだけはどうしても避けたかった。少なくともあと数年は、私の傍で役に立って貰わなきゃならなかった。だから仕方なく――誤魔化すために、貴方なんかと結婚する羽目になっちゃった。可哀想よね、私。好きでも無い相手と一緒にならなきゃならないなんて」
「…っ!」
ヴァイスは驚愕する。嬉々として残酷な真実をヴァイスに伝える、ナターシャに。これまで一度も見たことがない、悪魔のような表情に。
「でも、もう貴方は用済み。ねえ気づいてた? 最近私、殆どレベル上がらなくなってたの。多分、限界までレベルが上がったのね。そういうわけで、貴方もう必要なくなったの。だから、邪魔になったゴミを掃除しようってことで、こんな危ない場所まで来たってわけ。ここなら、たとえ私が貴方を殺しても、事故死って事にできるでしょ? 他の連中を口封じで殺しても『自分だけが生き残った』って言えるし。ついでに財宝も独り占めできて、一石二鳥よ」
ナターシャは、まるであざ笑うかのように、足下で項垂れるヴァイスにそう教えた。それを聞いたヴァイスは――ほんの少し前まで、あれほど愛していた女のことを、酷い憎しみの眼差しで、見上げていた。
「これで晴れて私は自由の身ってわけ。貴方という呪縛から解放されるの。あぁ、なんて清々しいんでしょう」
「ナターシャ…お前!」
「あ、でもそうね。あの子がいるから、完全に自由ってわけじゃないのか。困ったわ…もういっそ、あの子も片付けちゃおうかしら」
「…!?」
「何よその顔。別に構わないでしょ? 言ったじゃない。あの子は貴方の娘じゃない。血のつながりなんて無いの。他人なのよ? そんな子供をどうしようと、貴方には無関係でしょう?」
ヴァイスは憎々しげに歯を食いしばる。
「このッ…この外道め! 俺は…俺はお前の事を…どれだけ…! なのに…! クソッ! 呪ってやる! 絶対にお前を…!」
「あっそ。勝手に呪えば? そんなことしても、何の意味もないのにね」
「…っ!」
「じゃーね。退屈な日々を、どうもありがとう。せいぜいそのまま、野垂れ死になさい。それが貴方にはお似合いよ」
そう言い残すとナターシャは、ヴァイスに背を向け歩き去って行った。ヴァイスはただただ、己の体からこぼれ落ちた血の池の中で慟哭するより他に無かった。
◇
「助けてあげましょうか?」
ナターシャが立ち去り、数時間が経った頃。出血により意識を失う寸前だったヴァイスの耳に、そんな言葉が聞こえてきた。
「私の声、聞こえてますか? 聞こえていたら返事を。声が出せないのなら、手でも足でも動かしてみてください」
「誰…だ…」
ヴァイスは口から声を絞り出した。
「この迷宮の中に住んでいる者です。こちらから強い魔力反応を感知したので、様子を見に来ました」
ヴァイスは『住んでいる? こんな危険な場所に?』と疑問を抱いたが、しかしそれを思考できるだけの体力は、最早彼に残されていなかった。
「酷い有様ですね。まるで奇襲でも受けたかのような…あなたも、あなたの仲間の方達も全員、背後から急所を一突き。よほど狡猾な魔物にでも出くわしたようですね」
狡猾? そんな生やさしいものではない。あの女は――あの屑は、俺を騙していただけに飽き足らず、用済みになったからというそれだけの理由で夫を殺そうとし、そしてこれまで共に冒険してきた仲間達までも口封じのためだけに襲った外道だ。あまつさえ、実の娘すら殺そうとする女だ。あんなものは人間では無い。人間の皮を被った悪魔だ。あの女のやった行為が『狡猾』などという陳腐な言葉で表されて良いはずがない。
「…と、そんなことより。今はあなたの方ですね。他の方々はもう手遅れですが――あなたは運が良い。まだ助かる可能性が残されています。と言っても、助かるには条件が――」
「頼む…!」
ヴァイスは息も絶え絶えに、目の前に居る女の腕を掴んだ。
「頼む…! 俺を…助けてくれ!」
「……」
女はヴァイスのことをまじまじと見る。その目には、憐れみの情が微かに浮かんでいた。
「どんな条件…でも…良い! 金も…名誉も…地位も…いらないから…! 何でもやる…! だから…頼む…! 助けて…くれッ…!」
「…そんなに命が惜しいですか?」
女は静かにそう尋ねる。それにヴァイスは迷うこと無く「ああ…!」と答えた。
「…忠告しておきますがね。生きるって言うのは、あなたが思うほど良いものじゃありませんよ。あなたの何千、何万倍もの時間を生きてきた私が言うのだから、間違いありません」
「…!?」
何万倍…? 待て、この女何者だ? もしその言葉が本当なら、途方も無い年月を生きてきた事になる――いや、いい。この際そんなことは気にしない。とにかく命が助かるのなら、今はそれで良い。今の自分には、何としても生きて帰らなければならない理由があるのだ。
女はため息交じりに言葉を続ける。
「これから私は、あなたにある『呪い』をかけます。それは『人間性の喪失』と引き換えに、生命を復活させる――所謂『死体復活魔法』です。これは私が1000年前に生み出した――神が私にかけた『不死の呪い』を研究している際に見つけた、言わば副産物のようなものです」
1000年前…? やはりこの女――
「人間性の喪失。それは生半可な代償ではありません。あなたは肉を失い、精気を失い――とても人とは呼べない、化け物となってしまいます。化け物の姿のまま、第2の人生を過ごさねばならなくなるのです。それでも構いませんか?」
女はヴァイスの覚悟を試すように、そう尋ねる。そしてそれに対するヴァイスの返答は早かった。
「構わない…やってくれっ…!」
「……」
女はしばし沈黙した後、呪文の詠唱を始めた。
そして半刻が過ぎた頃には、もう既に、ヴァイスは『ヒト為らざる者』へと変貌を遂げていた。
◇
「気分はどうですか? 化け物になった気分は」
目を覚ましたヴァイスに、女はそう尋ねた。しかしヴァイスは、骨だけとなった自分の右手を黙って見ているだけで、何も答えない。
「…ご覧の通り、あなたは骸骨となりました。化け物です。もはや人間として生きることは叶わないでしょう」
「……」
黙ったままのヴァイスの姿を見て、女はため息を零す。
「後悔していらっしゃるのでは? 醜い己の姿を見て、怪物となった自己を省みて、死にたいと思っているんじゃないですか?」
「…いや、そんなことはない。感謝している」
「…そうですか」
ヴァイスは立ち上がる。そして歩き始めた。
「どこに向かうつもりですか? そんな姿で」
女は立ち去ろうとするヴァイスにそう聞いた。
「帰るのさ、俺の家に。……娘がいるんだ」
「血の繋がっていない娘さんが?」
「…!」
ヴァイスは驚いて振り返る。
「…聞いていたのか。いや、見ていたのか? 俺が…俺達が、あの女に殺されるところを?」
「えぇ、実を言うとそうです。けれど、あんな話を聞かれていたと知るのは、嫌だろうと思いまして。先程は知らぬふりをさせて頂きました」
「…そうか」
「一応言っておきますが、『見ていたのならどうして助けてくれなかったのか』なんて言わないでくださいね。そもそも私には、あなた方を助ける義理なんて無いんですから。あのまま見捨てても良かったんですよ、あなたの事を」
「なら何故助けた?」
「さあ、どうしてでしょうね? 私にもわかりません。多分、子供のように泣き叫んで悔しがるあなたの事を憐れんだからじゃないでしょうか。もしくは…己の運命を嘆く姿に、私自身の境遇を重ねたからかも――いえ、すいません。今のは忘れてください」
「……?」
「それで? 本当に家に帰るつもりですか? 娘さんの元へ、その姿まま?」
「…あぁ。あの女は『娘も邪魔だから片付ける』と言っていた。だから今すぐ戻って、あの女を――」
「復讐ですか?」
女の問いに、ヴァイスは「…それもある」と静かに答える。
「今までずっと騙されてきたんだ。それにこんなことまでされて――殺されかけて、復讐したいと思わないわけがない。だがそれ以上に――復讐よりも、まずは娘の命を守らなければならない。あの女の手から」
「…わかりませんね。実の娘ではないと、そう彼女は言っていたじゃありませんか。血の繋がらない赤の他人なんて、放っておけば――」
そう言いかけたところで、女は口をつぐんだ。その瞳には、骸となったヴァイスの顔が反射していた。
「…いいえ、今のは忘れてください。野暮でした。そうですね、血のつながりなんて関係ありません。実の娘を躊躇いなく殺そうとする親も居れば――血のつながりなど無関係に愛する親も居る。それだけのこと」
「…」
「早く行ってください。彼らの遺体は、私が埋葬しておきますから。あなたは一刻も早く、娘さんの元へ」
「あぁ…助かる」
ヴァイスはそう言うと、再び背を向けて走り出そうとする。しかし直前になって、女の方を振り向いた。
「あんた名前は?」
「名前?」
「あぁ。助けて貰ったんだ。名前くらい聞いておこうと思ってな…いつか恩も返したい」
「…気にする必要はありませんよ。助けたのはただの気まぐれですから。それに――あなたが戻ってくる頃にはきっと、私はもうここに居ないでしょうし」
「…?」
「この世界で試せることは、全て試しました。けれど――私の欲するものは見つからなかった。もうこの場所に居る意味はありません。別の場所に旅立つつもりです」
「…そうか」
女はヴァイスの方を見て笑みを浮かべる。そして告げた。
「あなたがこの先、どのような人生を送るのかはわかりません――が、祈っています。その限りある命を、悔いなく過ごせることを。後悔無く、生きていけることを――」
そう言った女の表情は、どこか寂しげだった。
◇
女と別れた後、ヴァイスはただひたすらに、休むこと無く走り続けていた。今は一分一秒が惜しい。僅かなその遅れが、もしかすると――。そんな恐怖心が、彼の足を動かし続けていた。
家で待つ、幼い娘。その首元に、あの恐るべき悪魔の毒牙が今この瞬間、襲いかからんとしている。そのことを考えるだけで、ヴァイスは心が締め付けられるようだった。
なぜこれ程までに彼が、自身の娘――それも血の繋がっていない娘に執着するのか。それは至極単純な理由であった。
『自分を愛してくれる人を、もう失いたくない』そんな願望が、彼を突き動かす原動力だったのだ。
ナターシャ――あの悪女はこれまで、さもヴァイスの事を愛しているように振る舞っていながら、裏では愛するどころかその真逆の事をやっていた。
自分の事を誰よりも愛してくれていると思っていた妻は――ヴァイスの事を愛してなどいなかった。その事実が彼に叩き付けたショックは、計り知れないものだった。それこそ精神が崩壊してもおかしくない程の。
それ程までに、彼にとってナターシャという女は、心の支えだったのだ。彼女が自分の事を愛してくれている。その事が、今まで彼の心を支え続けていた。生きる糧だった。しかしそれはまやかしだった。彼の精神的支柱は失われてしまったのだ。
そんなヴァイスに残された心の支えは、もはや――娘だけだった。血の繋がらない、たった一人の娘…彼女だけが、今のヴァイスにとって唯一の支えなのだ。娘の為に生きる。それだけが、彼に残された『意味』だった。
これはある種の現実逃避なのかもしれない。自分はこの世界に独りぼっち――愛してくれる人間など誰も居ない。そんな耐えがたい現実から逃れるために、彼は娘という『失った妻の代わりになるモノ』を求めているだけなのかもしれない。精神的支柱を。
しかしそのことに半ば気がついて居ながら、それでもヴァイスは娘という存在にすがらざるを得なかった。人間であることをやめ、骸骨となり、血も繋がっていない娘のために懸命に走り続ける――そうしなければならなかった。でないと彼は――彼の心は、今度こそ本当に壊れてしまうから。
妻を失い、娘も失い――そうなったとき彼に残されるのは、今よりもよっぽど空虚な現実だけ。それだけは何としても避けねばならなかった。せめて娘だけは――たった一人でも良いから、自分の事を思ってくれる家族が欲しかった。
故に走った。走って走って走り続けた。その骨だけの体で。中身の無い空虚な肉体で、心で。ヴァイスはひたすらに走り続けた。
そして三日三晩走り続け、ようやく自宅に辿り着いたヴァイスが目にした光景。
それは実の娘の首を絞め窒息させる、悪魔の姿だった。
あまりにも救いようのない、残酷な現実だった。
◇
その後のことは、あまりよく覚えていない。気がつくと俺は、動かなくなった娘の骸を抱きかかえ膝をついていた。
部屋の隅を見ると、そこには肩で息をする女が――否、老婆が俺のことを睨み付けていた。その老婆がかつて愛した女であること――妻であることに気がつくのに、時間は不要だった。
「殺してやる…殺してやる…」
老婆はそのしわがれた声で、俺に呪詛を吐き捨てる。けれどその体は――老いたその肉体は、自身の意思に反して動かせないようだった。
あれほど憎かった――恨んでいたはずの女の変わり果てた姿を前に、俺が感じていたのは歓喜でも、ましてや達成感でもなく…虚しさだけだった。
ナターシャの老いさらばえた姿と、そして俺への敵意を見るに、恐らく彼女を“こう”したのは、俺だ。彼女から若さを奪ったのは。自分でもどうやったのかはわからないが…。
でも、もうどうでもいい。恨みも、仇も、憎しみも――全てが空虚だ。俺は全て失った。肉体も、心も、愛も――家族も。今の俺はただの空っぽな――骸骨だ。
もう、もう無理だ――俺はこれからどうすれば良い? どう生きれば…どうすれば俺は…誰かを愛せる? 誰かに愛されることが出来る? こんな姿で…こんな経験をして、誰を――信じる事が出来る?
家族に裏切られ、娘を失い…誰からも愛して貰えない、骸となった俺は――どうすれば幸せになれるというのだろう?
きっとこれから、俺は追われることになるだろう。娘を殺し、ナターシャをこんな姿にした罪を問われるに違いない。魔物として駆除される――
『生きるって言うのは、あなたが思うほど良いものじゃありませんよ』
俺を助けてくれた彼女の言葉が頭の中で反響する。確かにその通りだ。なぜ俺は生きなくちゃならない? こんなにも空虚な――復讐を遂げても何も感じなくなった、こんな心で、体で、頭で――何を目的に生きれば良い? 何を生き甲斐にすれば良い?
あぁ、もういっそ死んでしまおうか――楽になってしまおうか。そうすれば俺は――俺の心は……。
迷い、苦しんだ末に。俺は遂に死ねなかった。
そして十年が経ち――俺はこのトーナメントに連れてこられた。
《控え室》
(…しまった。寝てしまっていたか)
ヴァイスは控え室のベンチの上で目を覚ます。どうやらここまでの戦いの疲れからか、居眠りをしてしまっていたようだ。
(対戦相手は…まだ来ていないか。助かったな。試合前の攻撃は反則とは言え、こちらが疲労しているという事を知られるのは得策では無いからな…)
ヴァイスは既に二人の人物と戦っている。いや、正確に言えば1戦目の相手――氷賀キリヤに関しては、彼の不戦敗によって戦っていないのだが。しかしそれでも、氷賀キリヤとの一連のやりとりは、ヴァイスにとって非常に体力を消耗するモノであったことは間違いない。
氷賀キリヤの持つ洗脳能力。それによって洗脳され、彼を――氷賀キリヤを救世主と思い込んだ。そして直後、キリヤは試合前に対戦相手に攻撃をした咎によって処刑された。
突如救世主が目の前に現れ、そして直後その救世主が殺されるという経験。ほんの数秒の間に起きた“それ”が心身に及ぼす影響は決して小さくは無い。実際、ヴァイスは一時あまりの心的外傷により廃人も同然の状態となっていた。
そんな状況で臨んだ第二回戦。悪役令嬢である黒宮治棘との死闘。あれを生き残ることが出来たのは、本当に運が良かったと言うほかない。
黒宮治棘の能力、それは鞭で攻撃した相手を洗脳できるというものだった。もし一回戦でヴァイスが彼女と戦っていたならば、きっと彼は黒宮治棘の能力に為す術無くやられていただろう。一回戦で氷賀キリヤと会話し、洗脳攻撃への耐性を獲得していなければ――今ここに居たのは、ヴァイスではなく黒宮治棘の方だったに違いない。
そう言う意味で、ヴァイスは幸運だったと言える。もっとも実際は、ヴァイスが幸運だったのでは無く、ただただ黒宮治棘が不運であったというだけなのだが。彼女が悪役令嬢という『不運属性』を神から与えられていたという、ただそれだけの事だったのだが。
(……まだ残っているな、感触が)
ヴァイスは自身の手を見下ろす。つい先刻、黒宮治棘の心臓を握りつぶした己が手を。
黒宮治棘はヴァイスに『心臓を潰して殺してくれ』と懇願した。ヴァイスは彼女に安楽死させてやろうとしていたのにだ。いやそれどころか『生き返らせてくれなくていい』とすら言った。生きることを拒んだのだ。
ヴァイスはふと、考える。もしや彼女も――黒宮治棘も自分と同じ境遇にあったのではないかと。孤独で、空虚で、何もなくて――生きることに苦しんでいたのでは無いかと。だから生き返ることを望まなかったのではないかと。死ぬことを望んだ、かつての自分と同じように。
『生きるって言うのは、あなたが思うほどいいものじゃありませんよ』
「……」
ヴァイスはかつて言われたその言葉を思い出していた。生きることは、良いものじゃない。実際の所、それは真実だ。この十年間、怪物と恐れられ、孤独に生きてきたヴァイスには、それが痛いほど良くわかる。そしてきっと、彼女――黒宮治棘も、そう思っていたに違いない。だから死を望んだ。永遠の安寧を。
だが――確かに生きることは、思っているほど楽しいものではないが、しかし――それでも捨てたものではないと、ヴァイスは今更になって思うようになっていた。
氷賀キリヤ。初めは彼の甘ったるい理想論に、怒りすら感じていた。しかし、それがどうだ。今やヴァイスを突き動かす原動力は『氷賀キリヤを生き返らせたい』という、その思いだ。
もしかすると、ヴァイスは未だに氷賀キリヤの洗脳下にあって、そのせいでこんなことを考えているのかもしれない――しかし、それでも良いとヴァイスは思っていた。
たとえ今のこの気持ちが偽りだとしても――それによってヴァイスが幾ばくか救われていると言うことは、紛れもない事実なのだから。
まやかしでも良い。偽物でも良い。今はただただ、縋りたかった。何かに。誰かに。幸せになりたかった。その為にヴァイスは、今ここに居る。
妻に幸福を求め、そして失った。今度は娘に愛を求め、そして失った。つい先ほど、氷賀キリヤに救いを求めて、そして失った。なら次はどうする? 決まっている。取り戻すのだ。今度こそ。全てを取り返す。このトーナメントに勝ち残り、願うのだ。自分の失った全てを取り戻すことを。そうすることで自分は初めて――本当の意味で、幸福になれる気がする。
『準備はよろしいですか?』
控え室で一人決意を固めていたヴァイスに、そんな言葉が投げかけられる。ヴァイスはあたりを見まわす。自分以外には誰も居ない。
「…俺の対戦相手がまだ来ていないようだが?」
『はい。彼女は既に闘技場にてウォームアップをしていらっしゃいます。『勝っても負けても最後の戦いなんだから、最高のコンディションでやりたい』とのことでしたので』
「……」
ヴァイスの脳裏に一瞬不安がよぎる。どうやらこれから戦う相手は――相当な戦闘狂らしい。きっと厳しい試合となるだろう。
だが、負けるわけにはいかない。
『どうなさいますか? もしお望みでしたら、ヴァイス様にもウォームアップの時間を――』
「いや、必要ない。…転送してくれ。今すぐに」
『わかりました。それではご健闘をお祈りしております』
このまま最終話まで更新する予定なので、よろしければ最後までよろしくお願いします。




