2-2.勇者召喚を阻止せよ
魔王は目の先の人影をじっと見つめた。
激しい雨の中、傘を差している。前に傾けているので顔は隠れて見えない。上半身が白く腰辺りから下が濃い紺か黒っぽい。おそらくそんな色の服を着ているからだろう。分かるのは色ぐらいで、どんな服かは激しい雨に煙る中この距離ではさすがの魔王でも分からない。脚があるはずの辺りは白っぽくも見えるが、足もとに至っては雨跳ねがひどいのでまったく見えない。
「ううむ……」
思わず魔王は唸った。対象者の姿はまだ良くは見えぬとはいえ、回りの家々との比較で大きさぐらいなら分かる。それが想像と違っていた。小さかった。いや、“小さい”だけでは正確でない。想像していたよりも“ずっと”小さいと言わなければ。
召喚勇者といえば、伝説では当時の魔王を少人数のパーティーで討ち果たした者。いま目の先に見えるあの者はまだ召喚されてはいない。しかしこのままいけば間違いなく召喚勇者となるはずの存在。召喚されてから体術や剣技、魔法などの特訓を受ける必要があるとはいえ、それらを短期間で習得して使いこなすことのできるはずの存在だ。ならばたとえ召喚前であってもそれなりの肉体を備えているであろう。そちらの世界においてもひとかどの実力を持つ者であろう。――プロジェクトに関わったすべての魔族関係者がそう考えていた。もちろん魔王とて例外ではない。
しかし前方に見えるあの者、あれはどうだ。腕の太さや胸板の厚さはまだ分からない。しかし少なくとも背格好は「小柄」としか言いようがない。あんな人間が本当に魔王を倒せる存在になり得るのか? 何かの間違いではないのか? しかしレーダーは対象者が魔王のすぐそばにいると示している。周りを見渡す限り魔王とあの者以外に人影はない。どう考えてもあれが召喚対象者だと断定せざるを得ない。
(何か、我が想像もつかなかったことがあの者にあるのではないか?)
魔王は胸騒ぎを感じていた。一段と激しくなる鼓動。
(何だ? あやつにいったい何があるというのだ? あのような小童、普通に考えれば魔王である我の敵であるはずはない。人族の勇者を一蹴した我にとっては、たとえ召喚対象者であろうと問題であるはずがない。しからばなぜ胸騒ぎがするのだ? 鼓動が激しくなるのだ? それだけあやつが「特別な」存在であるということなのか? もしかしたらあやつは我々魔族にとって、いや今この場の我にとって、とてつもなく重要な存在なのではないのか?)
胸騒ぎは不安へと化し、胸打つ鼓動は激しさを増すばかり。この不安を打ち消す決断が今すぐ必要とされていた。
(ならば一刻も早くあやつを抹殺しなくてはなるまい。)
魔王は頭をひとつブルッと振った。雑念を振り払った。再び前方を見据えた。
「いざ!」
魔王はただひと言言い放った。対象者めがけて猛然とダッシュした。このとんでもない異世界に来てから最大、最高の速度で駈けた。魔王の気迫に降りしきる雨は自然と道を開き、あがる水しぶきは一陣の白い彗星のごとく魔王とともに地を駈けた。
あっという間に距離が詰まる。
激しい雨音のためか対象者は魔王の接近に気づかない。あと少し。あと1ブロック……。
しかしまさにその時、思いも掛けない事態が対象者の足もとで起こった。対象者の足もとを囲うように地面に輪っか状の緑の光が輝いた。怪しげなもやもやしたオーロラ状の光も立ち揺らめく。と、見る間に緑の輪っかはオーロラを従えたまま音もなくサイズを広げた。直径にして1m強か。オーロラ状のもやもやももそれに合わせるかのように高さを増し、まるで対象者を包み込もうとしているかのよう。輪っかの内側には同じような輪っかが同心円状にいくつもあり、それらの間には複雑な文様がびっしりと埋め尽くしていた。
「えっ、何!」
思いも寄らぬ事態に対象者が声を上げた。体が硬直した。細かく体を震わせている。周りで起きていることが理解できないらしい。すなわちそれは、この事態が対象者が意図して引き起こしたものでは決してない、ということを示していた。ではいったいだれが?
魔王の目が緑の輪っかに釘付けになった。彼はその正体を見知っていた。
(あれは、人族の魔法陣!)
魔王は思わず拳を握りしめた。歯を噛みしめた。すべては明白。「あり得ない」と考えていたはずのことが起こっていた。あり得ないはずだが最も恐れてもいたことが現実になってしまっていた。
(人族の奴らがあやつを召喚しようとしておる!)
そうだ、それしか考えられなかった。人族王城の連中はどのようにしてか最後の勇者レオンの敗北を知ったに違いない。いやもしかしたら勇者が敗北した場合の保険としての行動かもしれない。しかしそんなことはどうでもよかった。重要なのは今まさに目の前で展開している事態。人族が「勇者召喚」の儀を行い、この世界の対象者を自分たちの世界へ召喚しようとしているという事実。もしこの者が召喚され召喚勇者となってしまったならば、魔王や魔族にとって最大最強の脅威となるであろうという確信だ。
魔法陣がいっそう輝きを増した。同心円間の文様が互い違いにグルグルと回りだす。それに合わせるかのようにそれぞれの円から伸びるオーロラ状のもやもやが脈動する。単なる脈動ではない。素早く打ったかと思えば次の瞬間にはゆったりと。それぞれが同一の動きをするわけでもなく、さりとててんでバラバラというわけでもない。その様子はまるでオーケストラの楽器がそれぞれのメロディーを奏でながら全体でひとつの音楽となるかのよう。音楽は対象者の回りの空気を震わし、対象者の体を僅かに持ち上げた。
と、次の瞬間、さっきまで対象者が足を着いていた地面に黒い丸が現れた。丸は音もなくすうっと大きさを広げた。円? いや、それは黒い穴。対象者を吸い込もうとする時空の穴。対象者を人族の王城へと呼び寄せる暗黒の穴だ。
(あやつを召喚させてはならぬ!)
魔王は走る脚によりいっそうの力を込めた。ギアを1段も2段も上げた。大地を蹴るピッチが速くなる。今まさに魔王は生まれてこの方出したことのないようなスピードで対象者めがけて矢をも越えようかという速度で駈けた。
水しぶきが魔王の足もとから左右に壁のように立ち上がる。凄まじい音を立てる。その音に驚いたように対象者が傘を放してチラリと魔王の方を見た。
対象者は時空の穴に引き込まれようとしていた。いったん浮き上がった体は穴に引かれ、足先がもう触れようかというところ。一刻の猶予もない。
魔王が大地を強く踏み切った。渾身の力を込めて宙を飛ぶ。真っすぐに対象者めがけてダイブ。己の体を魔法陣へと躍り込ませる。驚愕の表情のまま固まる対象者の脇をすり抜けざまにその体を抱きかかえる。勢いのままに魔法陣から外へと飛び出す。水のたまった地面へと転がり込む。
激しい水音、上がるしぶき、水の冷たさ。
ふたりは激しく転がった。転がりながらも魔王は対象者を庇うように抱きかかえていた。やがて転がるのが止まる。魔王は対象者が無事なことを確認すると、上体を起こして今飛び出してきた魔法陣の方を振り返った。
「主」を失ったオーロラはまるでのたうち回っているかのように見えた。だがそれもさほど長くは続かなかった。のたうち回りが収まったと思うと、緑の光の輪っかはさっきとは反対に再び音もなくサイズを縮めた。最初に現れた時よりも小さく縮んだそれは、まるで地に吸い込まれるかのように姿を消した。後には何も残らなかった。最初から何もなかったかのようにただ雨が降り続いていた。