4-1-3.最後のデート その3
魔王はあの夢のラストを今でもまざまざと思い出すことができた。いや、反対にどうして忘れることができるだろうか。「ゆうえんち」へひとり駈け出すユウコ。突然彼女の足もとに広がる召喚魔法陣。飲み込まれ、時空の穴へと落ちて行くユウコとそれを助けられない不甲斐ない自分……。
思い出す度に全身に冷や汗をかく。息が苦しくなる。思い出したくはない。忘れ去りたい。できることなら自身の頭の中からその忌まわしい記憶だけをちぎって投げ捨てたい。
だがいまや夢と現実に差異が生じていた。魔王自らの意思で生じさせた差異が。夢ではユウコがひとりで駈けていった。現実では魔王がそれを阻止した。もはや夢と現実は同一ではなくなったのだ。
(この手を放さないでおれば、この先に起こるかもしれない召喚魔法陣への飲み込まれをも阻止できるだろう。いや、既に差異が生じたのだ。召喚魔法陣自体、発生しないかもしれない。何ごとも起こらないかもしれない。いや、「しれない」ではない。きっとそうだ。あれは単なる夢だったのだ。現実とは違うのだ。)
魔王はユウコの顔を見た。恐れおののいているような表情がそこにあった。魔王は瞬時にそれが自身の険しい顔のせいだと悟ると、一転していつもの優しげな顔に戻って言った。
「ひとりで先に行こうなんてずるいですよ。一緒に行きましょう」
そのひと言にユウコの顔がぱあっと明るくなった。ふたりはしっかりと手を繋いだ。そして並んで「ゆうえんち」へ向けて歩き始めた。
(これでよい。)
魔王は自身の恐怖が消えていくのを感じていた。
(夢と現実はもはや同じではない。もうあの夢とまったく同じ事は起こりようがない。召喚は起こらぬ。この我が起こさせぬ。)
魔王は確信していた。しかしこの確信は半分しか当たっていなかった。なぜなら……
突然、ユウコの足もとに魔法陣が展開した。あっという間に緑の光が彼女を包み込む。彼女の顔が恐怖で引きつる。
だがやはり夢と現実は違っていた。夢では魔法陣はユウコひとりを飲み込んだ。しかし現実ではこれまでよりずっと大きな魔法陣が、ユウコだけでなく魔王をも一緒に飲み込んでいた。
「しまった!」
魔王は自身の油断を悔やんだ。だが後悔より先に体が反応していた。魔王は咄嗟にユウコの体を抱きかかえると魔法陣から外へ飛び出そうとした。飛び出すために強く地面を蹴ろうとした。
蹴るべき地面がなかった。
ふたりの足もとに暗黒の穴が開いた。時空の穴だ。魔王の脚は何もない空を蹴った。支えのなくなったふたりが時空の穴に落ちていこうとする。だが魔王は諦めない。片手でユウコをしっかりと抱きかかえながら、もう片方の手を懸命に時空の穴の縁へと伸ばした。穴の外の地面を掴もうとした。ほんの指先でいい。地面に手が届きさえすれば、自身の強力な腕力で、あるいは身体強化魔法の助けを借りて、ユウコを抱えたまま穴の外へ脱出できるはずだ。
もちろん夢の中やこれまでの召喚魔法陣サイズなら余裕でできただろう。だが時空の穴は大きかった。いつもの倍を優に超えていた。魔王は必死に手を伸ばした。しかしその努力をあざ笑うかのように、穴の縁はあと僅かのところで魔王の指先をすり抜けた。
ふたりは落ちて行った。穴に底があるようには見えなかった。暗黒かと思われたその穴は、魔王がこちらの世界に来るときに通ったトンネルに似ていた。
(このままではいかん。)
懸命にユウコを抱えながら魔王は思った。
(このままでは我とユウコは人族の王城に落ちるだろう。あやつらは全力でもって我とユウコを引き離しに掛かるはず。もちろん我も全力でユウコを守る。だが地の利は向こうにある。万が一ということもある。なんとかして“確実に”彼女が王城の連中の手に落ちぬ方策を考えねば。)
もはやユウコのいた世界へ戻ることは、いかに魔王といえども不可能であった。魔王の元いた世界に落ちることは確実。その中で自分にできることはあるのか。彼女を王城の連中に渡さぬ方策はあるのか。
(彼女の軌道を変え、王城とは別の場所に落ちるようにするしかない!)
もうその手しか残されてはいなかった。王城からできるだけ遠くへ。遠ければ遠いほどいい。それだけ彼女が召喚勇者だと気づかれる可能性が低くなる。またいずれ気づかれるとしても、それまでにかなりの日数がかかるものと思われた。数週間から数か月。あるいは年単位。ならばその間に魔王が彼女を救い出すこともできよう。
だがそのためには魔王にはひとつの大きな、苦しい覚悟が必要とされた。
「ユウコ、よく聞いてくれ」
魔王はいつにない真剣な表情でユウコに向かい合った。
「マオさん?」
「ユウコ、何があっても我を信じてくれるか」
「えっ?」
「これから何が起こっても我を信じていてくれるか」
ユウコは魔王の言葉を咄嗟には理解できなかった。急に自身のことを「我」と言ったことも彼女を戸惑わせた。しかし彼の真剣なまなざしを目にし、言葉の意味が分かってくるにつれて、何か重大なことが起ころうとしていることが彼女にも理解できた。
彼女もまた真剣なまなざしで魔王の目を真っすぐに見つめ返した。
「うん、信じる!」
ふたりはしばしの間、互いにじっと見つめ合った。そしてやおら魔王の方から彼女を強く抱き寄せた。
魔王は決意を固めた。ユウコの顔を両手で持つと、自分の正面に据えた。まるで彼女の顔を自身の脳裏に刻もうとするかのように。
次の瞬間、魔王は自分とユウコの額をくっつけた。途端にものすごい量のイメージがユウコの脳内に雪崩を打って注ぎ込まれた。同時に魔王の全身から凄まじい量のエネルギーがユウコの全身に強烈な衝撃をもって送り込まれた。
「ああああああ!」
あまり衝撃にユウコが思わず体を仰け反らせる。しかし魔王は構わず、イメージとエネルギーを彼女に注ぎ続けた。
「ユウコ!」
「マ、マオさん!」
「済まぬ!」
魔王はそれだけ叫ぶと、自身の持てる力を込めてユウコを突き飛ばした。
ユウコと別れ別れになる、これが魔王の覚悟であった。
魔法が使えぬいま、翼やジェットのような空間移動手段を持たない魔王は自身の落下軌道を変えることができない。ユウコが魔王と一緒にいる限り、ユウコ自身の落下軌道も変えられない。ならばユウコの軌道を変える方法はただひとつ。魔王とユウコが別れ別れになること。そのために彼女を突き飛ばすこと、それだけしかなかった。
例えそれが自身とユウコを分かつことになろうとも、ユウコと別れ別れになるという自身の不幸を受け入れてでも、魔王にとってはユウコを人族の王城に渡さぬ事がいま己の成すべき最重要なことであった。他のことなど、特に魔王自身のことなど、どうでもよかった。
しかしそれではユウコが魔王の保護なしであちらの世界に落ちることになる。もちろん魔王はそれも十分承知していた。だから魔王はそのための対策を彼女に施した。魔王が彼女に注ぎ込んだふたつのもの、イメージの正体はあちらの世界の言葉や知識、エネルギーの正体は魔王の持つ魔力の半分。それだけの魔力があれば、人族どころかどんな魔物に襲われても、自分の身を守るには十分に過ぎるはずだった。魔王が迎えに来るまで生き延びることができるはずであった。
「マオさん!」
時空の穴の中にユウコの絶叫が響き渡った。
「待っていてくれユウコ! どこであろうと必ず君を見つけ出す!」
「私が! 私がマオさんを見つけるから!」
そのやり取りが最後だった。ふたりの距離はあっという間に離れていった。互いの姿は小さくなって時空の穴に消えていった。




