4-1-2.最後のデート その2
小柄な体。腰から下あたりの衣服がひらひらと揺れる。
(ユウコだ。)
ひと目見るだけで十分だった。長そうな髪。衣服からすらりと伸びる手足は白い。まだ距離があるためなのか、顔はぼんやりとしていてよく分からない。しかし魔王にはなぜか確信があった。この世界のほかのどこにあのように輝く存在がいるだろうか。眩しく輝く美少女が。まだ出逢ってそれほど経っているわけではない。しかし魔王はあの少女をずっと前から、それこそ何年も前から知っているような気がしていた。見間違うはずはなかった。
少女が口を開いた。
「マオさん!」
そう、それはユウコが魔王を呼ぶときの名だった。あの勘違いを魔王は正さなかった。正す必要があるとも思えなかった。正すとしても一体何と? 真名を教えるにはまだ早い気がした。かといって適当な名前をでっち上げるには、魔王はこちらの世界の名前の常識を知らなすぎた。なら正さぬ方がマシというもの。それに実を言うと魔王はこの「マオさん」という名をちょっと気に入っていたということも正さぬ理由のひとつではあった。
魔王が口を開いた。
「ユウコ!」
ユウコが腕の中に飛び込んできた。歳の頃は十代半ばほどに見える。もちろん魔王は彼女に歳を聞くような野暮はしない。魔王の胸に薄紅の頬を押し当てた。柔らかく、ほんのりと温かい。上目づかいに見上げる目。満面の笑み。魔王がこれまでに見たあらゆる女よりも輝く美少女が目の前にいた。
「さあ、行きましょう」
ユウコが魔王の手を引っ張る。すぐにも駆け出していきたいといった様子で。小さな手。優しく、しかも魔王の手を決して離さないと感じられる手。指の一本一本が愛おしく思われる。彼女が向きを変えたとき、髪が風をはらんでふわりと陽光の中をきらめいた。
魔王は見とれた。そして見惚れた。彼女のあまりにもかわいらしい様子に今日の予定のことなど頭の中からすっぽりと飛んでいってしまった。もうずっとこのまま彼女を見つめていたいとさえ思った。だから思わずあまりにも間抜けなことを口走った。
「行くって、どこへ?」
「ええっ、忘れたんですか。前から約束してたじゃないですか」
「ごめん。思い出せない」
「ひどーい。あんなに楽しみだと言ってくれてたのに」
ユウコは頬をぷうっと膨らませた。比喩ではなく本当にまるで風船を膨らませるように。でもそれが彼女の可愛さをよりいっそう引き立てる。
ワンテンポもツーテンポも遅れてようやく魔王は思い出した。そうだ、今日は「ゆうえんち」というところに行くのだった。そこで「でーと」という行為をするのだった、と。
もちろん「でーと」自体はこれが初めてではない。ユウコともう何度か経験済みだ。しかし「でーと」とは一体何か、実は魔王にはまだよく分かっていなかった。どうやら決まったことがあるわけではなさそうだということだけは分かってきた。だから今日の「でーと」がどのようなものになるのかは魔王には見当がつかなかった。もし魔王に女性とふたりきりでどこかに出かけるといった経験があればまた違っていたかもしれない。だがあまりにも若くして魔王の地位についてしまったためか、そのような経験が今の魔王にあろうはずもなかった。こと恋愛ごとについては、凜々しい青年然とした背格好にも関わらず、魔王は現代日本の中学生男子にも劣る知識と感覚しか持ち合わせてはいなかった。
ユウコが駈ける。手を引かれた魔王が続く。やがてふたりは長さのある馬車のようなものに乗り込んだ。しかし馬車にしては馬が見当たらない。だが魔王はこれが何か知っている。もう何度か乗ったこともある。しかしまだ違和感が消えない。ふたりは空いている席に腰を下ろした。ええっと、この馬なし馬車のことは何と言うのだったかと魔王が考えているうちに、馬なし馬車は「ブオン」と低い音とともに動き出した。
「うふっ、まだ慣れないんですね、“バス”に」
「『バス』?」
そうだった、と魔王は思い出した。この乗り物は“バス”と言うのだった、と。
魔王国においては、機械工学はある意味いびつな発達の仕方をしていた。技術レベル自体は「召喚勇者発見装置」を造れるまでに発達している。しかしいかに高度な技術があろうと、それを一般社会に役立てようという考えに欠けているところがあった。電気はおろか、化石燃料でさえ一般社会における機械の動力源として使われることは稀だった。大きなパワーが必要な機器を動かす動力には魔獣の怪力があれば十分と考えられていたほどだ。
魔力を動力源にすることはあったが、小規模な機器に限られていた。大量の魔力を供給してくれる魔鉱石みたいな都合のよいものはそうそう採れなかった。動力源のための魔力を供給するのは機器を使用する魔族自身であることがほとんどだった。
だから魔王はこの“バス”をはじめ、道行く自動車や、鉄道、はたまた空を飛ぶ飛行機を見る度に、この世界の人族の知恵に驚嘆し、同時に魔王国で応用できない歯がゆさを感じるのだった。それが違和感の正体でもあった。
もちろん魔王にこの世界の様々な事柄を教えたのがユウコであることは言うまでもない。ユウコと話す度に魔王は彼女の聡明さに心の中で舌を巻き続けた。魔王にとって彼女の話す事すべてが非常に興味深く思われた。ただ単に魔王がこの世界のことを知らないからだけとは思えなかった。彼女は話が巧みなのだ。魔王がある話題にわずかでも興味を示すと、聞きたいという欲求を高めた上で満足のいく回答を与える。所々にジョークさえも。またある話題について魔王がうまく理解できないとみると、すぐに別の方向からやさしく説明を試みる。話題自体も豊富。すべてが彼女が非常に頭の切れることを示していた。
「マオさんほら、見てください! 遊園地が見えてきましたよ」
ユウコの声に魔王は指差された方向を見た。窓の向こうに大きな施設が見えた。多くの人間が楽しそうに入って行く。出てくる者もみな笑顔だ。
ふと魔王は何か強烈な既視感に囚われた。あそこは初めて来る場所のはず。事前に写真などは見ていない。だが魔王はあの場所を知っているような気がしてならなかった。いや、ただ“知っている”だけではない。“悪い記憶として”知っている気がした。あそこには近づいてはならない気がした。近づけばとてつもない不幸が待ち構えているような気が。
(なぜだ。我は何を知っているというのだ。どうして知っているというのだ。だがこの感覚は何だ? 単なる気のせいとも思えぬ。なぜだか分からぬが、我はたしかにあの場所を見知っておるとしか考えられぬ。)
“バス”が停まった。降りるふたり。ユウコが駆け出そうとする。
その瞬間に魔王の脳裏に電撃のようなものが走った。反射的にユウコの腕を掴む。
「えっ?」
突然に、しかも乱暴に腕を掴まれてユウコがびっくりした表情で魔王の方を振り返った。そして魔王の普段とはまるで違う鋭い眼光に2度びっくりした。
(ユウコをひとりで行かせてはならぬ!)
魔王の眼光の鋭さは彼の決意の強さを現していた。彼はついに既視感の正体に思い至ったのだ。
(そうだ、これはあの夢のシーンにそっくりだ。)
険しい顔をしながらも、魔王は内心が恐怖でいっぱいになるのを感じていた。ちょっとでも気を抜くと全身に震えが走るのではないかという思いを振り払うことができなかった。魔王は自身がいまできることを頭の中で繰り返した。ユウコのそばを片時も離れないこと、彼女を召喚魔法陣から護り通すこと、ただそれだけを繰り返した。




