3-1.魔王城内に広がる不穏な空気
「あの日」について語る前に、魔王が旅立った後の魔王国について述べておくことにしよう。
魔王が異世界へ渡ってから10日ばかりが経ったある日のこと。
魔王子飼いの部下たちはある種の混乱の中にあった。
理由を知ればだれでもなるほどと思うだろう。なんせ自分たちの王である魔王が異世界に行ったきり帰ってこないのだから。
本来なら異世界へ渡ったその日のうちに。また、何らかの理由で遅れることがあったとしても遅くとも2,3日中には帰ってくる、そのはずだったのに。
だがこともあろうに魔王が異世界に渡ったその日のうちに、当の魔王から次のような連絡が届いたのだから。
「対象者を殺すのは止めにした」
天地がひっくり返るとはこんなことを言うのだろうか。だいたい「異世界に転移して対象者を始末する」と言い出したのはだれだったのか。魔王その人であったのではなかったのか。
「いったい魔王様は何を考えておられるのか」
子飼いの部下でなくとも困惑するのが当然といえただろう。
「対象者を殺さず、ひたすら召喚を阻止するお考えだそうだ」
「なんと! なぜまたそのような」
「魔王様によると『対象者を殺してしまうと人族の連中はまた別の世界から別の人間を召喚する。さすれば発見装置で対象者を特定しDTOWを構築してその世界へ転移、といった作業を繰り返さねばならない。それでは魔王国にかかる負荷が大きすぎる。しかし召喚を阻止するだけなら負荷がかかるのは人族のほう。あやつらは必ず同じ人間を再度召喚しようとするであろう。失敗しても何度もリトライするであろう。だがやがて限界が来る。人族の魔道士どもに致命的な打撃を与えることができよう。それはやがて来る魔王軍全面侵攻の際に邪魔になる存在を取り除くことにもなる』だそうだ」
「おお! さすがは我らが魔王様。まさかそこまで考えておられようとは」
ここまではまだよかった。子飼いの部下たちも心配はしていなかった。万にひとつも魔王が失敗するなどあり得ない。魔王は勇者召喚を阻止し続けるだろう。膨大な魔力を必要とする勇者召喚を何度も繰り返した人族の魔道士どもは疲弊し、やがて限界を迎えて倒れるだろう。人族最後にして最大の秘技は失敗に終わり、召喚勇者がいない上に最強の魔道士軍団をも失った人族は簡単に魔族の軍門に降るだろう。そう楽観していた時期が彼らにもあった。
しかし魔王が異世界に転移して5日が過ぎ、6日、7日と経つうちに、魔王城内に不穏な空気が広がり始めた。
魔王不在の事実が漏れ始めていたからだ。
魔王が異世界に転移したことは、子飼いの部下を含む一部の幹部のほかは研究所の中だけでしか知られてはいなかった。彼ら全員に箝口令が敷かれていた。もし漏らせばその者だけでなく親兄弟や家族も含めて命はないと厳命されていた。魔王不在の事実は絶対に漏らしてはならないトップシークレットだった。
前にも書いたが魔王の配下は全員が全員、現魔王に真に忠誠を誓っているわけではない。圧倒的な現魔王の力の前に仕方なく従っている者らがいるというのは紛れもない事実であった。前魔王に恩義を感じてる者もいれば、自分自身があわよくば魔王の座を奪ってやろうと虎視眈々と狙っている者もいる。ほかにもいるかもしれない。
そのような者らにもし「魔王不在。帰還時期未定」の事実が知れたらどういうことが起こるだろうか。
おそらく騒乱は避けられない。それが魔王城内だけにとどまる保証はどこにもない。最悪の場合、魔王国全土を巻き込んだ大騒乱、さらには内戦に発展する恐れもある。いや、十中八九まず間違いなくそうなるだろう。
だから魔王不在の事実は絶対に知られてはならない秘密だった。だがどうやらそれが漏れ始めているらしかった。だれがどのように漏らしたのかは分からなかった。いや、もう既に漏れているのであれば、だれがどのように漏らしたのかなどどうでもいいと言ってもよかった。最重要な点はそこではなかった。魔王不在の情報はフェイクニュースであると、大至急魔王城内あまねく納得させる必要があった。グズグズしている暇はない。早急に手を打たねばならない。
しかしこれも前に書いたことだが、魔王が真に信頼できる子飼いの部下は数が少なく、何より経験が足りなかった。だれひとりとしてこのような事態への効果的な方策を思いつけなかった。かといって経験豊富な他の幹部らに相談することもできない。現魔王に対して謀反の心を抱いている者がどこに、どれだけいるか分からない。
「いつになったら魔王様にお目通りがかなうのだ!」
事情を知らぬ他の幹部から連日のよう入る苦情に対処するだけで精いっぱい。
「魔王様はお忙しい。もう少し待たれよ」
「待て待てと言われてこれで何度目か。遠征中ならともかく、城内におられるのに、かほどに長い間お姿を見ぬのはこれまでになかった。おかしいのではないか!」
すっきりせぬ対応に、不信感を募らせる者が増えていったとしても不思議ではなかっただろう。
「今日にもお戻りになられるのではないか」
「いや。しかし明日には……」
子飼いの部下たちの間ではこのような会話が連日のように繰り返された。彼らにできることは、ただひたすら魔王の帰還を待つことだけしかなかった。
しかし彼らの懸命な隠蔽工作にも関わらず、事態は少しずつ動き始めてしまっていた。
魔王城内ではあちらこちらで噂話が飛び交うようになっていた。魔王の身に何かが起こったのではないか、と。「食事に毒が盛られた」とか、「実は重い病気なのでは」といった噂がまことしやかに語られた。「刺客に襲われた」というのもあった。それも最初は「撃退したが用心のために姿を見せないようにしている」だったのが、そのうち「軽傷を負った」になり、「実は重傷」「深手を負って命が危うい」とエスカレートするのにさほど時間はかからなかった。
先にも書いたが魔王城は広大。数が少ない子飼いの部下たちの目はすべてには届かない。しかも間の悪いことに、その時魔王城には将軍を含め魔王軍の有力者が何人か滞在中だった。彼らの元に多くの魔族がひっきりなしに出入りしているという報ももたらされた。しかしいかに魔王子飼いの部下たちといえども格上の彼らに対して強く意見することは憚られた。
いつの間にか魔王城内には、有力者の何人かをそれぞれの中心とする一種のグループがいくつかできつつあった。魔王子飼いの部下たちの求心力は急速に失われていった。
8日が経った。魔王から進捗についての色よい返事はない。城内では建物の内外を問わず有力者グループが隊をなして行軍する姿が見られるようになった。子飼いの部下たちが抗議したが、「魔王様がお姿を現されぬいま、不測の事態に備えて何が悪い!」と一蹴されてしまう始末。
9日め。相変わらず魔王帰還の見通しは立たない。魔王城内では有力者グループが関わったトラブルの報告が目に付くようになっていた。多くはちっぽけと言えばちっぽけなもの。だが中には彼らに負傷させられたといったものもあった。しかしもはや子飼いの部下たちは彼らにもの申すことすらできなくなってしまっていた。彼らの圧力が子飼いの部下たちの周囲にも目に見える形で及んでいたからだ。だが早急に対策を取らなければ、有力者グループ同士の衝突という最悪の事態に発展することは、だれの目にも火を見るより明らかなことのように思われた。
そして10日が過ぎた。いや、11日だったか。とにかくそのあたりでついに事態は急展開を迎えることになってしまった。




