第三話
加賀の別荘内へと招き入れられるミステリー研究部の面々。
そこで外観に勝るとも劣らない内装や調度品に目を奪われる春明であったが、花より団子とばかりに騒ぎ出す腹の虫を鎮めるため、キッチンへと向かう。
材料などについては出発前にあらかじめ購入してあり、昼食は部員全員でカレーを作る予定になっているだが……。
「春やん……涙が、涙が止まらへん……!」
「あー、玉葱は僕が切っておくから秋森さんは顔洗ってきて」
「はっ、ダメダメね。アタシが真の包丁捌きってのを見せて――アンギャァァァ! 指切ったァァァ!!」
「何やってんですか、アンタはァァァ!!」
「す、鈴原さんの指から血が……!」
「ちょ、八坂先輩! こんなとこで倒れないでくださいよ!! ――というか、三嶋先輩! 洗剤持って何しようとしてんですか!?」
「ん? お米を洗おうかと」
「何考えてんですか! お米洗うのに洗剤なんか使っちゃ駄目ですよ!」
「な、何故……!」
「はっはっは、なかなか壮絶な眺めだねぇ、朝塚くん」
「いやぁ、まったくですなぁ、部長」
「ちょっと、そこの先輩二人も高みの見物をしてないで手伝ってくださいよ!」
「うん、そうしたいのはヤマヤマなんだけどね? 実は僕って、いつも専属のシェフが作ってくれているから、料理なんて作ったことないんだよねぇ」
「悪いな加藤。かくいう俺もカップラーメンを作るのなら得意なんだがなぁ」
「くっ……! あー、もういいです! わかりました!! あとは僕一人でやりますから、みんなは向こうで待っててください!!」
かくして、決して料理が出来るというわけではないのだが、春明が一人で全員分の昼食を作るハメになってしまったのであった。
※ ※ ※
「あー、食った食った。最初はどうなることかと思ったが、なかなかやるじゃねぇか、加藤」
「そうだね、うちの専属シェフに勝るとも劣らない味だったよ」
空腹が満たしたミステリー研究部の面々は、リビングにて和やかな談笑を行う。
特に話題の中心となったのが、やはり春明作のカレーについてであった。
「それはどうも」
先輩二人のお褒めの言葉に素っ気なく返す春明。
しかし、内心は満更でもないようで、その表情にはわずかばかりの照れが交じっている。
「いや、ほんまに、美味しかったで……」
苦しそうな声でそう告げるのは秋森である。
特に彼女は春明の作ったカレーがいたく気に入ったらしく、おかわりを二回ほど繰り返して計三杯ものカレーを平らげていた。
「うぅ、美味しいからって食べ過ぎた……暫く体重計乗るのやめとこ……」
それ、根本的な解決になってないよね――春明の頭にそんな言葉がよぎるが、それを口にしないだけのデリカシーが春明にはあった。
「しかしまぁ、これだけ人数がいるのに、まともに料理出来るのが加藤くん一人だけとは……いやはや、愉快な話だねぇ」
「笑い事じゃないと思うんですけど……」
「まぁ、何にせよご苦労だったね。後片付けくらいは僕たちがやるから、加藤くんはゆっくりしてるといいよ」
「そうですか? じゃあ、お言葉に甘えて僕は外の空気吸いに行ってきますんで、あとはお願いします」
「ま、待って。私も行く――うっぷ!」
「……大丈夫? というか、秋森さんは大人しく休んでた方がいいと思うけど」
「うー、そうする……」
「あ、一息付いたら、部屋の割り振りとか色々と説明するから、あまり遠くへ行くんじゃないよ?」
「わかりました、十分程度で戻ってきます」
そうして春明は別荘の外へと向かうのであった。
※ ※ ※
「すぅ~~~、はぁぁぁ……」
新鮮な空気を肺に送り込み、そしてゆっくりと吐き出す。
山の澄んだ空気を吸っていると、まるで体の中の悪いものが浄化されていくかのような錯覚を春明は覚えた。
(しっかし、合宿っていったい何をやるんだろうなぁ)
春明と秋森の一年生コンビは、合宿の内容について詳しい説明を受けていない。
加賀や鈴原に何度か確認したことはあるのだが、そのいずれもが『行けば分かる』や『当日のお楽しみ』といった返事ではぐらかされてばかりだったのだ。
(なんか嫌な予感がするんだよな……)
ふと空を見上げると、そこには到着した頃のような青空は既になく、代わりにどんよりとした雲が空一面を覆っている。
その光景はまるで、これからの彼の行く末を暗示しているかのようであった。
「……ねぇキミ、じっと空を見上げて何やってんの?」
「え……っ!?」
完全に油断していたところに声をかけられたせいで、思わず春明は驚きの声をあげる。
声のした方を見やると、怪訝な表情をした鈴原がそこに立っていた。
「なんだ、鈴原先輩ですか……驚かせないでくださいよ」
「なんだとはご挨拶じゃない。それとも何、私よりも秋森ちゃんのが良かったとか言いたいワケ?」
「いや、そんなこと言ってないじゃないですか……」
やはり、どうにもこの先輩は苦手だ――そんなことを春明は思う。
鈴原は思ったこと、感じたことをすぐ口に出す人間であり、また思い立ったら即行動に移すだけの行動力をも持ち合わせていた。
春明がそんな彼女に持っているイメージは“直情的行動派”、この一言に尽きる。
即断即決と言えば聞こえはいいが、裏を返せばそれは何も考えていないに等しく、特に彼女の行動に振り回される周囲の人間にとっては堪ったものではないのだ。
何故かいつもその周囲の人間の一人にされてしまう春明にとって、彼女はお近づきになりたくない、可能であれば出会う前からやり直したい人物なのであった。
ただ、春明がミステリー研究部に入部したのは、そんな彼女に出会ったからこそなのだが……。
「というか、なんで先輩がここにいるんですか? 後片づけは?」
「ん? あぁ、アタシは後片付けなんかしなくていいの」
「はぁ、それはまたどういった理由で?」
「だってほら、私は材料切るの手伝ったじゃない?」
そう言って鈴原は胸を張る。
自信満々なその態度に、思わず春明はため息をついた。
「……いや、先輩が切ってたのは材料じゃなくて、自分の指じゃないですか」
「うっ、うっさいわねー! 後輩のくせに先輩に口答えしないの!」
「なら先輩だって、先輩らしく、もう少しちゃんとしてくださいよ」
「もー、またそんな生意気なこと言う! あ~あ、初めて会った時は素直で良い子だったのに、いつからそんな風に変わっちまったんだろうねぇ……」
よよよ、と大袈裟な泣き真似をする鈴原。
入部当初は、このようにあからさまな泣き真似でも動揺を隠せないでいた春明であったが、今では慣れたもので――
「あ、そういうの結構ですんで」
そう言って冷たくあしらうのであった。
「……キミ、ホントに変わったよね」
「すみませんね、擦れちゃって。で、ホントに何しに来たんですか?」
「んー、特に用というほどのものはないかな。ただ風に当たりにきただけ」
鈴原の言葉に春明は『そうですか』とだけ相づちを打つ。
それを皮切りにして、彼らの間に奇妙な沈黙が流れた。
気付けばあれほどけたたましかったセミの鳴き声はいつの間にか止んでおり、今春明たちの耳朶を打つのは風に揺られて奏でられる葉擦れの音のみである。
上空に浮かぶ分厚い雲といい、これは一雨くるかもしれないな――と、そんなことを春明が考えているその時であった。
「……あの、さ。この部活に入ったこと……後悔してない?」
唐突に鈴原がそんな言葉を口にする。
その顔にいつものからかうような表情はなく、至って真剣そのものであった。
「……なんで、そんなこと聞くんですか?」
「いや、ほらさ? キミを入部させたのって私じゃない? 結構、無理矢理な勧誘だったから、実際のところはどう思ってるのかなぁって」
そう、鈴原の言葉通り、春明は自発的にミステリー研究部に入部したのではない。
彼女の少々強引とも言える勧誘によって入部することになったのだ。
なお、どのくらい強引だったかと言うと、出会い頭に『推理小説とか好き?』と問われ、春明は思わず『はい』と答えてしまう。
それだけで部室へと強制連行されてしまい、そのまま入部という運びになる程度には強引であった。
「まぁ、勧誘した手前、実は嫌々来てるんじゃなかろうかーとか、おねーさんは色々と心配になっちゃうワケなんですよ」
そう言うと鈴原は気恥ずかしそうに視線を逸らす。
その普段とはあまりにもかけ離れた姿に春明は、内心驚きを隠せないでいた。
(いや、それよりも……)
ふと春明は気付いたことがある。
入部以来、何かにつけて鈴原に絡まれていた春明。
しかし、それらは全て、早く部活に馴染めるようにとの彼女なりの気遣いだったのかもしれないと思い至ったのだ。
(――だとしたら、なんて不器用な人なんだろう)
春明は心の中で苦笑する。
「……何ニヤけてんの?」
「あ、いや……鈴原先輩も人の心配することあるんだなーって思いまして」
「は、はぁ!? 私は真面目に――」
「――大丈夫ですよ」
「えっ!?」
「そりゃあ、きっかけは無理矢理でしたけど、入部を決めたのは先輩に言われたからじゃありません。僕自身が“ミステリー研究部”に入部したいと思ったから入部したんです」
そもそも、いくら部室に強制連行されたからと言って、そのまま入部を決めてしまうほど春明は気弱な人間ではない。
元より推理小説を好む春明は、ミステリー研究部に並々ならぬ興味を示していたのだ。
にも関わらず入部にまで至らなかったのは、ひとえに“世間体”を気にしてのことであった。
春明は、自分の趣味が一般的ではないことを理解している。
入学したてで、しかもまだ友人とも呼べる人間がいない状態で、そんなニッチな部活に入ろうものなら“変人”の烙印を押されかねないと判断したのだ。
興味はあるが、興味がない振りをしないといけない。
入学して暫くの間、春明はそんな悶々とした日々を過ごしていた。
しかし、そんな時に忽然と現れたのが鈴原なのである。
春明の窮状を知ってか知らずか、彼女は強引に部室に連行すると、そのまま入部まで取り付けたのだ。
これは春明にとって、まさに渡りに船であった。
なにせ、『なんであんな部に入ったの?』と問われても、『強引な先輩に押し切られて』と言い訳が出来るのだから。
故に――
「だから、先輩が心配する必要なんかないんですよ」
それは春明の本心からの言葉であった。
「……それ、ホント?」
「ホントです」
「嘘ついてない?」
「ついてません」
「……そう、良かったぁ」
そう言って鈴原は静かに微笑む。
その顔に浮かぶ表情は、まるでずっと背負ってきた“何か”からようやく解放されたかのような清々しいもので、春明はそんな彼女を見て、不覚にも胸を高鳴らせてしまうのであった。
それから暫くの間、二人は何の会話もなく黙りこくってしまう。
先ほどまでは会話がなくとも平気だった春明だが、妙なもので今はその沈黙が妙に気まずく感じてしまうのだ。
春明は、何か会話のネタはないかと必死に考えて、やはりまず彼女に伝えるべきは“これ”だろうという結論に達した。
(今までのお礼、言っておなきゃな)
春明が意を決して、口を開こうとした瞬間のことであった。
「――お?」
春明は、頭にポツリと何かが落下した感触を感じて空を見上げる。
「あー、雨降ってきたね」
鈴原も同じように感じたのか、春明と同様に空を見上げながらそんなことを呟いた。
「降るだろうとは思ってましたけど、意外に早かったですね」
と、暢気に会話をしていられたのもそれまでで、雨は瞬く間に勢いを増していき、数秒後には殴りつけるような雨となって春明たちを襲った。
「ちょっ、山の天気は変わりやすいって言うけど、これは変わりすぎでしょ!?」
「先輩、戻りましょう!」
その言葉を皮切りにして、春明たちは別荘へと駆け出す。
走りながら春明は、お礼を言いそびれてしまったことに気付くのだが、その時の彼は、また今度言えばいいかと軽く考えていた。
後に彼は、この時の判断を激しく後悔することになる。