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 ◇◇◇


「まったく、犬が座る席はねぇってよ。だったらあの婆ちゃんはなんだ? 可愛いピンクのリボンを押しつけたプードルを抱えて見るのか? 俺の方が礼儀正しいぜ。ちゃんと肛門を尻尾で隠しているからな」

 開演前の劇場ロビー。カーニスケールは不貞腐れながらファズに煙草を要求し、周囲の奇異な視線などお構いなしに煙を吹かす。

「申し訳ありません。さすがにそれはまだ無理だと知人が……。いずれ貴方も堂々と観られる日が来ますよ」

 アニミアが腰を落として言った。今回は撮影されることになっているため、同じものを後日見ることはできる。ただ生演奏という価値が消え、迫力も感動もガタ落ちとなるだろう。

「おめぇさんが舞台復帰する時は、否が応でも見てやるさ。それにしても、最後の演目に『吸血鬼』を添えるたぁ、あのネエチャンもセンセーショナルなことをしやがるぜ」

 人面犬はちらりと、大々的に貼られたポスターを見やる。

「いえ、この曲は最初から決められていたもので、けしてあの事件があったからでは」

「わかりきったこといちいち口にしなくていい。予定変更しなかったのは英断だったと思うぜ。そうじゃねえんだよ。俺はだな、よくもまあ怪物課のポリ公(モンポリ)に見せようって気になったなって話をしてぇのさ」

「勘繰らないでくださいよ。私はただ、オーガストの演奏を一緒に観たいと思っただけです」

 カー二スケールは「どうだかね」と片眉をひそめ、煙の塊を吐いた。

「元はといえばダンテの野郎も一枚噛んでるっていう噂じゃねえか。奴はいるのか?」

「さあ、どうでしょう……。今は探偵業が楽しいようですからね」

 結局、あの不倫の件はどうなったのかファズは気になるも、無粋な気がして口には出さなかった。

「それにしてもモンポリさんよ。随分と似つかわしくねえ格好をしてるじゃあねえか。今日にためにこしらえたか?」

「違いますよ。これはレンタルです。持っているのはあの背広だけでして。しかもクリーニングに出しちゃってて」

「おいおい、礼服ぐらい一着持っておくもんだぜ。いつ誰が結婚しても死んでもいいようにな」

 犬がそれを言うかとファズは口角を引きつらせた。しかし笑い事ではないのである。モンポリである以上、いつしか誰かが殉職するかもしれないのだから。

「腕のいい仕立屋を知っていますので紹介しますよ」

「え、ああ、それはどうも」

 アニミアの配慮は嬉しかったが、オーダーメードとなると貯金と相談しなければならなくなる。彼のタキシード姿は気品にあふれ、婦人たちの注目の的になっていた。独りでいたなら声をかけられていただろう。

 マナゲラが手を無邪気に振りながら近づいてきた。「やあやあ、きみが目印になったよ」と屈託のない笑みで言われると、ファズも傷つきはしなかった。それどころか、オペラ観劇に足を運んだことのない彼は格式高い空気に息苦しさを感じ始めていたところであったので、係長の登場によって幾分か気が楽になった。

「いやあ、貴重なチケットをありがとうございます!」

「こちらこそ来ていただいてありがとうございます」

 マナゲラとアニミアが握手をする。係長は遊園地で並ぶ子どものように終始浮かれていた。

 代役バイオリニストの名はオーガスト=テティクス・ベルトロッティ。係長曰く、ようやくプロとして安定し、これからだという時に謎の引退をして長い間行方をくらましていた、知る人ぞ知る伝説の男で、今はバイオリンを作る方に勤しんでいるという。アニミアによれば彼は『吸血鬼』の時に出演するという。係長が購入していたパンフレットを確認してみると、シルクハットを深々とかぶった宣材写真があった。顔半分が影で隠されていたが、ファズは見覚えがあった。間違いなくウェストミノスへ向かう列車で出会った老紳士である。そのことをアニミアに伝えると、彼は「そうでしたか!」と表情をほころばせた。

「昔の古い友人でして、ようやく連絡がついたのですよ。ダンテさんの人脈の広さには驚かされましたね。ずっと音信不通で……まあ、私の方が一方的に連絡を途絶えさせまして、心配をかけさせたのですけれど」

 アニミアは苦笑いしながら目を背けた。路頭に迷っていた時期があったとミスター・カーニスが言っていたのをファズは思い出す。

「アニミアさんは誰かと一緒ではないんですか?」

 ファズは言う。

「お誘いしたかった女性はいたのです。彼女は多忙ですから」

「何せオリオンちゃんは記者だからな」

「あれ? 彼女も役者では?」

 ファズが言う。

「向いてないと言って辞めたのさ。じゃ、せいぜい楽しんできな」

 カーニスケールは興味をなくしたかのように使用済みの煙草をファズに突き出し、人の脚の間を通り抜け、最後は若い女のドレスの中をくぐって外へ去っていった。

「二人も警察がいるのに」

「申し訳ありません」

 アニミアが代わりにマナゲラに深々と謝罪した。

「……それと、向いてないからというのは嘘なのです」

 吸血鬼はバツが悪そうに言う。

「センスが問われ悩んでいたのは本当です。歌唱力も演技力も申し分ありませんでしたが、光るものがないと言われ続けていました。その代わり宣伝のビラを作るのが上手でして。辞めるか辞めないか、それを決める転機のつもりで役を掴んだ時だったのです。私が仕出かしたことというのは。入院する羽目になった上、ここぞとばかりに〝吸血鬼に噛まれた不潔な子〟と、とある女優にまくし立てられ降板させられたらしいのです。もしも吸血鬼である私が、人間を押し退けて主役を演じる時が来たら大々的に記事にする。そう笑顔で言いました。救われたようで、情けない気持ちで一杯です。……ベンギース・ライラという方は……」

 ファズはその名にドキリとする。

「彼は、ずっと孤独だったのでしょう。他の吸血鬼を探そうにも、役所は教えてくれません。もしも私が彼だったなら、きっとオリオンさんを殺していたことでしょう。愛が失われる前に自ら摘み取ってしまう」

「俺、そこがよく理解できなくて……」

 ファズはベンギースが命を落とす姿をまたしても思い出す。まるで昨夜の出来事であるかのように鮮明に。

「今日演奏される『吸血鬼』というオペラはアンネ・モーガンの『吸血鬼』という詩に曲をつけたものなのです。内容をご存知ですか?」

「いいえ」

「この詩は本来、吸血鬼目線で書かれたものだったのですが、当時の検閲に引っかかり女性目線の内容に書き換えられたのです。曲がついたのはその改訂版の方なのですが……。初版の方こそが我々吸血鬼の核心に触れているもの。絶望を書いたものなのです」

「絶望?」

「吸血鬼は絶望の(ふち)から誕生するのです」

 アニミアはまっすぐファズを見つめながら、自身の喉を抑えた。

「それは……つまり……」

「会場が開いたよ!」

 ファズが答えへと導かれる前にマナゲラが喜々と声を上げた。

 アニミアが招待した席は後ろ過ぎず前過ぎず、役者の顔がぼやけないまま舞台全体を見渡すことができる良いところであった。マナゲラは席でそわそわしていた。

 会場が暗転し、舞台は始まる。あっという間に演目が進み、レモン色の煌びやかなドレスに衣装を変えたオペラ歌手がスポットライトの下に現れ、ハミングを響かせた。しばらくすると、もう一つのライトが彼女の斜め後ろを照らす。そこに帽子をかぶった彼がいた。

 音楽は佳境に入る。ベルトロッティは弓をそっと添え、相棒を弾いた。一瞬にして空気は緊張感に支配され、前後の観客が息を飲むのをファズは感じ取り、彼自身も鳥肌が立った。

 そして女は『吸血鬼』を歌う。この強く尖った旋律に殺されまいと、前へ、前へと歌のエネルギーを送り込む。


  蝙蝠の夜は窓を閉めよ。

  期待をしてはいけない、脈一つさえ、愛を望んではいけない。

  処女かどうかは問題ではない。心臓(ハート)を一握り、彼は持ちたがる。

  これを支配と云えようか、その瞬間を逃れた私は知れたものじゃないが、

  夜になれば窓を閉め、まるで無邪気な少女のようにノックをしてこようと、

  これを無視せよ。

  確かに夜には違いないが、私が見たそれはそうではなく、

  無数に覆い尽くしていた蝙蝠だったのだ。

  しかし思えば、あの時逃げてしまった私は、

  心から彼を愛していた訳ではないと知ってしまった。

  一瞬の恐怖より永遠の愛を取るものだと彼が云ったならば、

  私はもう何も云わない。

  死後の世界がより美しい楽園だったならば、私は羨むだろうか。

  私は未だに、夜になれば必ず窓を閉め、

  あの音を聞かぬよう布団の下に潜り込んでいる。

  もしもまた、彼が白い手を差し伸べたならば、

  喜んで受け入れ、もう一度彼を殺す方法を考えよう。


 ファズは圧倒された。穏やかな表情を浮かべていた老紳士はどこにもなく、殺気すら感じた。

 今までの押し込めていた思いを全て吐き出すかのように、弓を弦に叩きつける。音が弾ける。恐ろしい吸血鬼を前に悲鳴を上げる少女。

 女は歌う。飛び出してしまいそうな強い眼力。世界を取り込むように両腕を振るい感情を最大限に表現する。夜の世界で待つ吸血鬼への恐怖を耐え忍び、朝を願う少女。

 熱気がこもる。額に光る汗。二人は鬼の形相をしている。

 女は最後の音を吐き出した。長く、限界まで会場を響かせた。空気が震え上がった。

 それが切れる瞬間、ベルトロッティも弓を天に掲げた。二人の汗が飛び散った。観客が一斉に立ち上がり地響きが起こった。やり遂げた女は何度も胸を大きく膨らませながらお辞儀した。マナゲラは頭上で手を叩いてぴょんぴょん跳ねた。

 彼もついに帽子を取った。ファズの「あっ!」という驚愕はスタンディングオベーションの波に吸い込まれる。

 二本の長い銅色の触角が揺れていた。「わかったでしょう?」とアニミアが耳打ちした。

 ベルトロッティの頬に涙がつたう。気づいた女は抱擁した。彼女が何か言っている。確かに口元が「ありがとう」と動いていた。彼を前へ(いざな)うと、さらに歓声が強まった。

 今だからこそ、あの奏者は堂々と舞台に立つことができた。この会場で怪物である彼を蔑む者は誰一人いない。彼はこの瞬間を長年待ち望んでいた。スポットライトの中で光る触覚は、止まない大喝采を受け止めようと揺れ続けている。切れてしまった一本のバイオリンの弦も、ようやく終わったのだと言わんばかりに垂れ下がっていた。

「私も必ず舞台の上に戻ってみせます。それが私にとっての償いです。後ろに進むことはけしてできませんから」

「誰だってそうですよ。下に落ちることはあっても、後ろへは行けない。俺はどんなに怖いからって家に逃げ帰ったりなんかしない。帰るなら、警察官として誇りを持って」

「ええ。素晴らしいと思います。もちろん」

「彼も」

 二人の会話は喝采の嵐の中へ消えた。カーテンコールが起こる中、ファズはひたすらこの感動を舞台に集合する彼らに送った。

 そして、アニミアは心の中で静かに「吸血鬼」の初版を歌うのだった。


  蝙蝠の夜は窓を閉めよ。

  期待をしてはいけない、脈一つさえ、愛を望んではいけない。

  処女かどうかは問題ではない。(ハート)を一握り、私は持ちたがる。

  これを支配と云えようか、その瞬間を逃れた彼女は知れたものじゃないが、

  夜になれば窓を閉め、まるで無邪気な少女のようにノックをしてこようと、

  これを無視せよ。

  確かに夜には違いないが、彼女が見たそれはそうではなく、

  無数に覆い尽くしていた蝙蝠だったのだ。

  しかし思えば、あの時逃げてしまった彼女は、

  心から私を愛していた訳ではないと知ってしまった。

  一瞬の恐怖より永遠の愛を取るものだと私が云ったならば、

  彼女はもう何も云わない。

  死後の世界がより美しい楽園だったならば、彼女は羨むだろうか。

  彼女は未だに、夜になれば必ず窓を閉め、

  この音を聞かぬよう布団の下に潜り込んでいる。

  もしもまた、私が白い手を差し伸べたならば、

  喜んで受け入れ、もう一度私を殺す方法を考えよう。


〈了〉

 ここまで読んでいただきありがとうございます。

 これを書いたのは8年前です(笑)だらだら修正を重ねてやっと小説らしくなったかなと思い投稿しました。

 吸血鬼の話はこれで終わりになりますが、いつしか怪物課シリーズとして別の怪物の話も投稿しようと思っているので、その時は何卒よろしくお願いします。

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