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宇喜多秀家の履歴書

所員:(思い通りとならず良かったのか悪かったのか……。)

私(三成):(……そう言えば関ヶ原において、秀家は西軍の中では数少ない本当に戦った大名の一人でありましたね。でもなんで秀家は家康に対し敵意を剥き出ししたのでありましょうか。)

所員:(宇喜多家は元々備前東南部の領主でありましたが、秀家の祖父興家の代に居城を奪われ、興家と共に身を隠す生活を余儀なくされたのが秀家の父・直家。そんな直家にチャンスが訪れたのが15の時。備前の戦国大名・浦上宗景に仕官し戦功をあげます。そんな直家に対し主君・宗景は、300貫の知行と30人の配下を与え、所領境の前線基地の城主に抜擢します。既に親戚縁者を失っていた直家にとって、与えられたとは言え。貴重な部下たち。しかも場所が場所。最も条件の悪い土地であったこともあり、結果的には配下との繋がりを深めることに成功しました。その人物が戸川秀安、長船貞親と岡利勝の3名。これに弟の忠家などと共に直家の成り上がりに貢献することになるのでありました。)

私(三成):(直家に与えられた配下も、直家と似たような状況。浦上見れば居ても居なくても……。だったのかもしれませんね……。)

所員:(そんな直家の成り上がりの仕方なのでありますが、基本的には上司を殺すことによりその所領を奪う。と言う手でありました。当然、そうならないよう上司となった人物は直家から人質を取りましたり、姻戚関係を結んだりするのでありましたが、直家はお構いなし。そんなことを繰り返した結果。直家と血縁関係にある身内は、幼い嫡子を除いて4名のみ。)

私(三成):(幼い時に親戚筋から相当酷い目に遭わされていたのでありましょうね……。)

所員:(身内を重視しない。出来なかったことが戦国大名となる過程に置きましては良い方に向かいまして、当初の3名のほか。領土拡張の過程で従属して来た者の中から有能であった花房に明石を加え、直家を頂点とした直臣たちによる領国支配が確立されるのでありました。)

私(三成):(織田家のような体制が備前においても実現した。と……。)

所員:(最終的には備前一国のほか播磨や美作にも勢力圏を拡大した直家でありましたが、織田家と毛利家との抗争が激化した1581年に53歳でこの世をあとにするのでありました。一代のカリスマがこの世を去ってしまいますと『内紛』と言うモノが勃発するのが世の常でありまして。しかも宇喜多の所領は織田と毛利に挟まれた係争地帯である上、直家の遺児秀家はまだ9歳。)

私(三成):(普通に考えますと織田・毛利の斡旋により家臣が割れ……。)

所員:(……となるのでありますが、こと宇喜多に関しては微動だにすることはなく。これまで通り織田家の。正しくは羽柴秀吉軍の一翼を。宇喜多家臣団が一致団結し、備中高松城攻め。本能寺直後の『大返し』の殿軍の役目を果たすのでありました。)

私(三成):(宇喜多は秀吉にとって、毛利同様自らの天下取りに貢献した家であった。と……。)

所員:(そんなこともあり秀吉は、直家の遺児に自らの「秀」を与え、秀家に改名させるなど丁重に扱うと同時に、秀家の家臣にも官位を与えるなど彼らの功績に報いるのでありました。そんな秀家を秀吉は文禄の役の総大将に抜擢。当然、そのいくさに宇喜多家の家臣団も参陣することになるのでありましたが……。岡利勝は出兵中に。叔父・忠家も帰国直後に亡くなってしまうのでありました。帰国後。五大老の1人に抜擢されるなど豊臣家のホープとなった秀家でありましたが。どうしても出てしまうのが、直家時代からの宿老たちとの意見の違いでありまして……。)

私(三成):(家督を継いでから約20年。当時9歳だった幼子も三十路近くともなれば、当然『自我』と言うモノも芽生えて来ることでありましょう。)

所員:(そんな彼らの溝を更に深めることになったのが、秀家の妻の実家である前田家からの家臣。それに秀家と同世代の面々。)

私(三成):(経験値が豊富な。それもどうでも良いような辺境の地に放り込まれた時からの面々からしますと、『今の環境。60万石近い所領。前田家から来たものからしますと100万石近い所領が普通』で育って来た者共の発する言葉は危険極まりないと思うのは仕方ないことなのでありますが、若い世代にはその意見が伝わらない……。よくある話ですね……。)

所員:(秀吉にとっては『善かれ』と思っての縁組であったのでありましたが、皮肉にもこの縁組が契機となり秀吉の没後。宇喜多家中は乱れに乱れまして……。で。その時、秀家が味方したのが……。)

私(三成):(新たに加わった家臣のほうであった。と……。)

所員:(1600年現在。宇喜多家に残る直家発足以来の宿老と呼べるものは誰一人としておらず。辛うじて最後に加わりました明石を残すのみ。と言っても明石は客将待遇……。)

私(三成):(会津遠征中の家康の動きに対する秀家の考えを冷静に分析することの出来るモノが……。宇喜多の中には居なかった。とも言えるのでありますね……。)

所員:(でなかったら、増田長盛があそこまで危険な橋を渡らされる羽目にも遭わなかったでありましょう……。よく毛利を担ぎ出すところまで持って行ったと見たほうが良いのかもしれませんね……。)

私(三成):(でもそれが直『家康憎し』とはならないと思うのでありますが……。)

所員:(秀家と対立し、宇喜多を去ったモノを、家臣として迎え入れたのが徳川家康でありまして……。)

私(三成):(直家創業時からの家臣でありますから当然有能なモノであることは言うまでもありませんが。秀家から見ますと……面白くはない。)

所員:(史実で見ますとその後。秀家のもとを去った直家以来の家臣は、備中勢として大坂の陣や福島正則改易時の上使を務めるなど活躍。と同時に仕官先の徳川家並びに秀家の妻の実家であります前田家を通じ、宇喜多家の復興に尽力。大坂の陣後。秀家の罪は解かれ。前田家から10万石を分けることにより再興が実現することになったのでありましたが。八丈島の暮らしが良かったのでありましょうか。秀家はこれを固辞。その後、秀家は40年間八丈島で暮らすことになったのでありましたが。固辞された側の旧臣。秀家から追放された経験を持つ花房正成はショックのあまり、しばらく寝込んでしまったとか……。)

私(三成):(本当に思ってくれているのが誰であるのか……。その時は、なかなか……ね。そんな1600年当時の秀家と秀家の取り巻きに……豊臣家と毛利家は巻き込まれてしまったのでありますか……。そりゃ広家も怒るわな……。)

所員:(恵瓊は、逆にこれを好機ととらえたのでありましょう。)

私(三成):(勝つことが出来たら。でありますけどね……。でも肝心の秀家が無策ですからね……。)

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