無音の霧隠
「ここか」
辿り着いたのは、魔術の民が住まう区画。その市街地だった。
ここは大通りから離れており、夜ということもあって人気はない。だが、微かにだが死臭がする。この道の先から風に乗って、血の匂いが運ばれて来ている。
「ご苦労さん」
そう声を掛けると、黒猫はまたにゃーと鳴いて、どこかへと消えていった。
「さて、お仕事だ」
月明かりと血の匂いを頼りに、ゆっくりと足を進めた。
静寂に満ちた夜の街に、足音だけがこつり、こつりと響いて消える。
心臓の鼓動すら聞こえて来そうな静夜の中、どこにいるとも知れない辻斬りを警戒しながら歩く。次第に濃くなる血の匂い、次第に酷くなる死臭、敵と相対する時も近いと感じながら、一歩ずつ石畳の地面を靴底で叩いた。
こつり、こつり、こつり。
足を進めること、四歩。
「――」
違和を感じ、その場で足を止めた。
瞬間、鼻先を鋭いなにか掠め、直後には足下の地面に刃が落ちる。
音もなく。そう、音がない。
四歩目の足音がなく。刃の風切り音がなく。地面の破壊音がない。
たったいま落ちて来たこの男には、音がない。
「――ッ」
いや、違う。
周囲の音を消している。
声が、出ない。
「――」
下方から這い上がる剣閃が、容赦なくこの身に迫る。
その事実だけを認識し、無用な思考を放棄し、身体は何度も繰り返した所作を再現する。刀の柄を掴む、刀身を引き抜く、剣の軌道を読む。そして刃が届くまえに刀を振り抜いて、その攻撃を阻害した。
直後、甲高い金属音が鳴る。
魔術は、解けた。
「随分と――驚かせてくれるじゃあないか」
「――驚いたのはこちらのほうだ、少年」
剣を交えたまま、そう言葉を交し、互いに退いて距離を取る。
相対した者は、フードを深く被っていて顔が見えない。
だが、声と体格から察するに男だろう。年齢は二十代から三十代、太刀筋から見て手練れなのは間違いない。
「仕掛けていた魔術が解けた。いま、唐突に……君の仕業かね」
「だとしたら、どうする?」
「いやはや、困ったものだよ。もしそうなら私の強みを十全に生かせない。是が非でも、ここで殺しておきたくなる」
「そうでなくてもお前は殺すだろ。お前は――プレイはそう言う連中の集まりだ」
「いや、まったく。その通りだ、聞くだけ野暮だったかな」
こいつが辻斬りで確定か。また面倒な奴が出て来たな。
恐らくだが、こいつは殺しを楽しんでいる。正確には、殺し合いを。
人を殺すことに、人に殺されることに、命のやり取りに、快楽を見出すタイプの人間だ。でなければ、民族浄化を掲げるプレイの一員が、闇夜に紛れてちまちまと人を殺すような真似はしないだろう。あまりに非効率だ。
それに、それにだ。
「――随分と、お喋りが好きみたいだな」
こいつは少々、言葉が多い。
「はっ、ははっ! そうさ! 無音の魔術の使い手だが、私本人はお喋りなんだ。だから、嬉しいよ、少年。戦闘中にこれだけ相手と話せるなんて」
笑う、笑う。
異常者のように。
「だが――楽しいお喋りはここで終わりだ」
笑っていた辻斬りの表情が変わる。
目が変わる。
「死合うとしよう、少年よ」
その言葉と共に、視界に薄い白が現れる。
「其は二感を奪う虚ろの霞み――」
それは瞬く間に周囲を覆う。
「――霧隠」
再び、世界は音を失った。
周囲に展開された霧――濃霧に音を遮られているかのように。
真っ白な視界。音のない世界。
五感のうちの二つを同時に奪われ、敵の姿は霧に隠されている。
厄介な相手だ、驚くほど対人戦に優れている。並の魔術師なら、それこそ四方八方に向けて魔術を乱射するよりほかに解決策がない。
そして、そんな無作為な攻撃に当たるほど、辻斬りは抜けていない。
「――」
思わず呟いた言葉も、耳には届かない。
悪態もつけないとは、本当に厄介がすぎる。
辻斬りはこの濃霧でも俺の位置がわかるのか? 音が聞こえているのか? 魔術の対象は俺だけか、それとも両方か。
一方向に向けて駆けてみようか? 上手く行けば霧から抜けられるかも。
いや、いいや、不可能だ。
この圧倒的に不利な状況でそんな愚行を犯せば、確実に隙を付かれて仕留められる。なら、この場に止まって迎え撃ったほうがはるかにいい。
「逃げないのか。いい判断だ。視界がない、音が聞こえないでは、逃げるに逃げられないだろう」
思考が巡り巡っていると、視界の濃霧が一瞬だけ揺らめいた。
「音が聞こえていない。いや、聞こえてはいるが認識できていない無音の中で、垣間見えた唯一の情報に人は縋りたくなるものだ。ゆえに、ほかががら空きになる」
風が吹いたのか、辻斬りが通ったのか。
辻斬りだとして、自分の居場所を知らせるような失敗を犯すか? だが、風が吹いたにしては規則性のない揺れ方だった。辻斬りが仕組んだ罠かも知れない。しかし、魔術の効果が術者にまで及ぶとしたら?
次々と浮かんでは消える思考に――けれど、答えが出るまえに身体が動く。
聴覚でも、視覚でもない、経験則に基づいた反応が、後方へと刀を振るわせた。
振り向きざまに下方から振るい上げた一刀は、直後に甲高い音を鳴らし、たしかな手応えと共に静止する。
魔術と静寂を破った刀の先に――辻斬りはいた。
「――よう、久しぶりだな」
返事とばかりに、にやりと辻斬りが笑うのが見えた。
そんなに可笑しいか、それとも楽しいのか。人斬りに快楽を見出す者の思考は読み取れない。理解したくもない。
辻斬りの剣を弾き上げ、がら空きの胴に右方向から一閃を叩き込む。
けれど、敵もさる者。左手に携えた短剣によって阻まれた。それによって攻撃の手は止まり、頭上から弾いた剣が振り下ろされる。
対して、刀の柄を両手持ちに切り替え、短剣を削るように刀を上方へと強引に滑らせる。火花を散らして削り合った刀身は、自由を得てそのまま迎撃へと向かう。
上空へと跳んだ鋒は、落とされた剣を再度、弾き上げた。
しかし、今度の追撃は叶わない。阻まれたと見るや否や、辻斬りは濃霧に身を隠し、修復された魔術が音を奪う。
「楽しいぞ、少年。まさか、ここまで出来るとは思いもしなかった。恐らく、まともに戦えば私に勝ち目はないだろう。私などでは及ぶべくもない。いやはや、まったく。人生、なにが起こるかわからない」
次はどこから攻め込んでくる?
正面か? 背後か? 右か? 左か? 上ということもあれば、下ということもあるだろう。たった一人の人間に包囲されている気分だ。
「だから! 人斬りは辞められない!」
秩序を乱すように揺らめき、濃霧から辻斬りが跳び出してくる。
真正面からの突貫。
虚空を深く抉るように飛ぶ剣先を、同じく踏み込んだ刀の一撃で迎撃する。刃と刃が混じり合い、そして一呼吸のうちに数度ほど剣撃の音が濃霧に響く。
だが、妙に剣撃が軽い。
そして数度ほど打ち合った辻斬りは、また濃霧に身を隠す。
「少年とまともに剣を交える気はない。私は剣士ではないのだからな」
かと思えば、今度は右方向から剣が飛ぶ。
撃ち落とすようにして刀を振るい、攻撃を捌くとまた辻斬りの姿が消える。
今度は左から、後ろから、正面から、間を置かず、次々と角度を変えて攻め立ててくる。
「ヒットアンドアウェイ。それが私が有する殺しの常套手段。戦いとは勝つことにあらず! 勝てなくてもいい、負けていてもいい。最終的に相手を殺せればそれでいい!」
幾度となく、刀と剣を打ち鳴らす。
断続的に解けては修復されるを、魔術はもう何度繰り返しただろうか。
様々な角度から繰り出される剣撃を捌きながら、思考する。
このままでは埒が明かない。
恐らく、これこそが辻斬りの戦闘法なのだろう。これだけ度重なる攻撃を受けてもなお、まだその規則性が判然としない。
五感を二つ奪われているとは言え、思い付きでこの芸当が出来るはずもない。
せめて居場所さえ――攻撃が事前に察知できれば、一気に勝負を決められる。
けれど、この魔術がそれを許さない。
聴覚と視覚の不自由からくる、圧倒的な初動の差。
すべてを見てから反応しなければならない以上、強制的に後手へと回り続けてしまう。
この状況下で辻斬りを相手に、攻撃の予測を行うのは困難を極める。
無窮を打てるほどの時間も、与えてはもらえないだろう。
「よく捌く! だが、いつまで持つかな!」
真っ白な視界。音のない世界。
その中で辻斬りの痕跡を追う、無謀な試み。
濃霧はすべてを隠し、魔術はすべてを消し去る。
この中を自由に動けるのは、辻斬りと吹く風くらい。
そうか。
「終わりにしよう――少年よ!」
追跡する。突き止める。
辻斬りの居場所を、正確な位置を。
突き出された剣を、撃ち落とす。
背後に向けて頭上から振るい、剣先を地面に叩き付ける。
甲高い音が魔術を払った。
「――なッ」
初動の差はない。
音は響き、視界に敵を捕えている。
この状況下、万全の状態で、退避も防御も許すものか。
「終いにしよう」
馳せた剣閃は、奇しくも辻斬りの初撃に似ていた。
地を這うような、這い上がるような一刀。
短剣による阻害も意味はない。
万全の踏み込みからなる一撃は、差し込まれた短剣を断ち、辻斬りまで届く。
振り抜いて静止した刀身は紅に染まり、霧の晴れた月夜に艶めかしく映える。
勝敗は、ついた。
「……なぜ……わかった」
刀身を払い、虚空で血を拭う。
「お前は、人を斬りすぎたんだ」
それが辻斬りの敗因。
「……そう、か……匂いか」
あの一瞬、辻斬りの居場所を知ることが出来たのは、血の匂いを追ったからだ。
今夜、辻斬りはすでに人を斬っている。一人といわず幾人も。
だから、染みついていたのだ。
嗅ぎ慣れていて、意識すらしていなかった、えずくほどの血の匂いが。
「ははっ、人斬りには……相応しい……最期だ」
斬られた者の無念が、怨念が、執念が、纏わりついて痕跡となる。
人斬りの末路と言えば、そうなのだろう。
「楽しかったぞ……少年との……戦い……は」
そして、辻斬りは息絶えた。
満足そうに、月を見上げて。
「まったく、死に際までお喋りな奴だな」
刀を鞘におさめて、踵を返す。
道を歩いていると、また見慣れた黒猫を見た。
「よう。いつも通り、後処理は頼んだぜ」
「もう手配してある」
「そうかい。なら、俺はこのまま帰るからよろしく」
「報告は?」
「また今度、学生なんでな。明日のために早く寝るんだよ」
「そうか」
そう言葉を交して、帰路につく。
家に帰ると、真っ先に風呂に入った。
染みついた血の匂いを、洗い流すように。