ケルベロス
「なんだ、これは。それにこの匂い」
なんらかの薬品の匂いがする。
それにこの空間にあるのは異様なものばかりだ。
薄い緑色の液体に浸かった魔物の部位。臓器や骨、頭、腕、尻尾などなど。瓶詰めにされたそれらは、観賞物であるかのように棚に並べられている。
それだけに飽き足らず、不気味な色をした結晶や、試験管を彩る謎の液体、他にも用途不明の気味の悪いものが、所狭しの置かれている。
「――ふふふっ、ふふふふふふふふっ」
目に入るすべての物に眉を顰めていると、不意に何者かの声が響く。
その笑うような声音は、天井から垂れ下がったカーテンの向こうから聞こえてきていた。
誰かがいると見て、そっとこの不可思議な空間を横断する。そうしてカーテンを迂回するように動き、笑う何者かの姿を視界にとらえた。
「ほーら、あとはこれを一滴たらすだけだよー。そうすればキミは完成する、私の最高傑作ぅー――の、一つなるのだー」
それは草臥れた白衣を纏う、一人の少女だった。
彼女は何らかの薬品が入ったフラスコをもち、目の前にある肉の塊に話しかけていた。
「……おい」
あまりの光景に、思わず声を掛けてしまう。
すると。
「――わあっ!?」
そう驚いて、彼女は手に持っていたフラスコを落とした。
「なっ、なになに? 誰? キミ。どうしてここにいるの? まともな方法じゃあ見付けられないはずなのに!」
俺の存在に気が付いた彼女は、そう矢継ぎ早に質問を投げ掛けてくる。
落としたフラスコも気にした様子がない。
普通、知らない人間がいきなり現れたら警戒くらいするものだが、彼女にはそれが欠片も見当たらない。むしろ興味津々と言った様子で、ぐいぐいくる。詰め寄ってくる。
「落ち着けよ、俺はただ壁に手を付いただけだ。そしたら勝手に」
「勝手に? おっかしいなぁ。あれは魔力を――あれ?」
言葉の途中で何かに気が付いたような素振りを見せる。
そして、彼女はなんの意図があってか、俺の周囲をぐるりと歩いた。
「なるほどー。キミ、魔力無しなんだ。だから、扉が反応しちゃったんだ。あれ、私以外の魔術師のまえには絶対に姿を現さないように出来てるんだー。いやはや、盲点だったよ。まさかこの学園に魔力無しくんがいるなんて」
「そりゃ、今日きたばかりだからな」
「今日? あ、そっか。キミが噂の――」
その先の言葉は、掻き消される。
唐突に響いた音と、衝撃によって。
「GAaaaaaaaAAAaAaaaaaaaaaaAAaAaAAaaaaaaaa!」
この空間にある最奥の壁が、咆哮とともに打ち破られた。
ずしんと重みのある足音を鳴らし、こちらへと踏み行ってきたのは、見上げるほどの巨躯を有する魔物だった。それもただの魔物ではない。三つの首をもち、それぞれの口から冷気や炎や風を放つ、見たこともない生物だった。
「あちゃー……これ、ちょっと不味いかも」
彼女はそう言いつつも魔物には目もくれず、ある一点を見つめている。
それは先ほどまで彼女がいた場所であり、肉塊があった場所だ。しかし、いま、それは跡形もなく消えていた。
「あそこにあった肉塊ちゃんね。寄生生物なの。自分より大きな生き物の中に入って、身体の支配権を奪っちゃうタイプのね」
「……その寄生先が、あれか?」
「そう。私謹製のケルベロスもどきちゃん。気を付けなよー、肉塊ちゃんが寄生すると、奪った肉体を強化しちゃうから」
「へぇ、どのくらいだ?」
「魔術耐性の会得。つまり、純粋な魔術師なら封殺しちゃうくらいかなー。あはっ」
「あぁ、そう。とりあえず、やべー奴なのは理解したよ」
瞬間――彼女を抱えて背後へと跳んだ。
灼熱の炎が、すぐ側まで迫っていたからだ。
「生みの親だろ、どうにか出来ないのか?」
「無理だね。だって、最後の薬品を与え損ねちゃったもん。キミがいきなり現れて声をかけるからー」
「あぁ、そいつはどうも、すまなかったなっ」
跳躍による後退を続けながら、迫りくる攻撃に対して刃を振るう。
左手の逆手に握った柄を振るい上げ、抜刀と同時に飛来する氷柱を打ち砕く。次いで辿りつく第二、第三、第四、第五の氷柱の一群を、順手に持ち替えた刀の冴えで、次々と撃ち落としていく。
「ひゅー、やるー」
「黙ってろ、舌噛むぞ」
ケルベロスもどきは、飛び道具が効果的ではないと学習すると、直接的な手段に打って出る。それは単純にして明快な手段。その巨体を生かした猛進である。
「――外に出るぞ」
返事はない。
舌を噛まないように、口を両手で塞いでいた。
「肝が据わってるな」
反転。
跳躍を止めてこの空間を駆け抜け、扉にまでいたる。敷居をまたぎ、学園の校舎に出て、直ぐさま扉を蹴って閉じた。
直後、地震のような振動と、壁が崩れるほどの轟音が響く。
逃げられたのは幸いだが、あれは時期に出てくるな。
「ぷはー。いやー、スリル満点だね」
「喜んでる場合か。どうするんだよ、あれ。飼い主が責任取れよ」
「むーりー。私って何かを生み出すことにかけては天才的だけど、戦闘能力はまるでないんだよねー。ケリアちゃんは、子犬にだって負けてしまうのだー!」
「誇るようなことじゃあないだろ、それ」
こうなった原因の一端は俺にもある。
だから、何としてでも犠牲者なしに、あのケルベロスもどきを倒したい。
だが、生みの親たる少女は戦闘能力が皆無ときた。まったく、任務初日からなんてことに。厄日だな、今日は。
「戦えなくても、なにかしら出来ることはあるだろ?」
「んー、まぁ、動きを数秒とめるくらいなら、出来なくもないかな」
「数秒か。それだけあれば、十分だ」
いま壁を打ち壊し、ケルベロスもどきが校舎に足を踏み入れた。
「俺が奴を引きつけておく。その間に準備してろ」
「わかった。じゃあ、準備が出来たら合図するからねー」
手早く段取りを決めて、ケリアはすぐに避難する。
ケルベロスもどきは、それを二つの視線で追っていたが、残りの四つは俺を射抜いていた。単純な多数決の結果、どうやら標的は逃げるケリアではなく、相対する俺に決まったようだった。
「よう。相手してやるから付いてこい」
そう挑発して背中を見せると、誘いに乗ったケルベロスもどきが動く。
その猛進を確認しつつ、正面に捉えた校舎の壁を切り崩して外へと跳び出した。
それから一呼吸もおかないうちに、校舎の壁は派手に崩れて瓦礫と化す。その巨躯でたやすく壁を破ったケルベロスもどきは、大気を震わせるような咆哮を放つ。
多頭による三重奏。決して、聞いていて心地のいいものではない。
「さて、死合おうか」
刀を左手から持ち替えて、戦いの火蓋を切るように刀を払う。
互いに相対する者を仕留めるため、純粋な殺意を込めて動き出す。
「GAaaaaaaAaaaaaAAAaaaaaaaAAAaaaaaaaaaaaa!」
咆哮とともに放たれるは、三種。
冷気は氷柱となり、火は炎弾となり、風は鎌鼬となって迫り来る。
攻撃をまえに足は止めない。
研ぎ澄ました感覚をもってそれらを見切り、進むのに邪魔なものだけ、必要最低限の動きで斬り伏せる。氷柱が地面に突き刺さり、炎弾が土を焼き、鎌鼬が砂を舞い上げる。だが、それはもはや遥か背後での出来事だ。
この歩みは止まらない。
俺の接近に反応して、ケルベロスもどきは排除にかかる。
その太く逞しい獣爪を薙ぐ。一見して、それは無意味な行動に移った。
だが、直感が告げる。躱せと叫ぶ。
理屈も道理もなく、けれどその警告に従って真横へと跳んだ。
瞬間、地表を抉るように爪痕が走る。
「――チィッ」
魔力を込めた一撃。
それは魔術師ならば、その目で予備動作をみた瞬間、認識できる類いのもの。
だが、魔力無しの俺にその前兆を知ることは叶わない。
「面倒だな」
一爪を躱し切って、思わず声が漏れる。
魔術師には倒せず、魔術師でない者にも有利を取れる。
「こう言う手合いは」