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第二章 -4

「……あの手記を、あの子が読んだの?」

 僕は病室を出て、静歌に衣桜との会話の内容をおおむね伝えた。長いこと待たせたけれども、流石は調査会社の調査員で、待つことは得意なのか顔色一つ変えていない。

「うん。でも、途中までしか読めなかった」

「それで、真輝さんの情報が分かれば読めるかも……ねえ。つまり、遼喜はあの子と一緒に真輝さんの情報を集めていくのが良いって思ってるのね?」

 そういうことになる。僕は頷いた。

「それで父さんの手記の内容が全部わかれば、同時に媛倉事件の謎に迫れるかもしれない」

 すなわち、衣桜の身柄をポストプロテスに引き渡すのはやめてくれ、ということだ。

 静歌はうぅん、と唸って考えこむ。僕は矢面に立たされるような気分で、次の言葉を待ち続けた。

 やがて、静歌は親指と人差し指を立てて言った。

「……とりあえず、二つ問題があるかな。まず、その翻訳の内容について、間違いはないの? あの子が何の根拠もなく、適当に作って適当に読み上げただけっていう可能性は?」

 衣桜がデタラメを言っている可能性?

「……それはあり得ないと思う。七月三十一日から八月二日に移るときに、驚いたりためらったりする様子はなかったし、ほんとに読めてるんじゃなきゃ、後に読めないって言って放り投げる理由はない。それに……読めてるんじゃなきゃ、あんな上手く読めないよ」

 僕は衣桜の見事な朗読を思い起こす。あれほど筋の通ったことを即興で朗々と読めるわけがない。

 静歌は一応納得したようで、親指を下ろした。

「なるほど……それじゃ、二つ目。真輝さんのことだけども、それって遼喜が調べる必要がある? うちの会社が調べて、それをあの子に伝えれば何の問題もないし、そっちの方が遥かに効率がいいよね?」

「……」

 僕は押し黙る。この懸念は予想していたことだ──けれども、僕はそれをどう伝えればいいのかわからなかった。あの子には僕が必要なんだ! って言ってのければいいのか? 或いは、あの子は僕がいないとダメなんだ、とか?

 いやいや、全然違う。そんなロマンチックなセリフで静歌が陥落するなら、苦労しない。

 いま言うべきこと──それは、中浦遼喜自身が望んでいることだ。

 知らず、自分の顔に卑屈な笑みが浮かぶのを、僕は感じた。

「そんをなこと言ったら、僕が媛倉に来た意味がなくなっちゃうよ」

「……」

 今度は静歌が沈黙する番だった。静歌は僕の家の事情とか、僕の気持ちについてある程度理解してくれている。だからこそ、僕の媛倉訪問に同行してくれたのだ。

 長い間があった。静歌は重々しく口を開いて、言った。

「ダメ、やっぱり」

「……え」

 絶句する僕に、静歌は諭すように語りかける。

「あのね、遼喜。今は昨日とは全然状況が違ってきてるの、わかる? 媛倉事件は、たった一週間の間に三万人もの人が亡くなった……三万人だよ! その原因が未だに判明してないだなんて、私達調査会社にとっては屈辱的なことだし、許しがたいことなの。これからまた、同じような災害が起こた時に、今度はもっとたくさんの人が死ぬかもしれない……でも、今のままじゃ、私達は手をこまねいて惨劇を見ている他になくなってしまう。それを、私達はなんとしてでも阻止しなくちゃいけない。真相を、明かさなくちゃいけないの」

 申し訳ないけど、と漏らして、静歌は初めて僕から視線を逸らした。

「これは遼喜が関わるには、大きすぎる案件なの。それこそ関係者は把握できないくらいたくさんいて、未だにあの事件の中で生きている人も多い。一刻も早く、原因の究明を求めてる人が未だにいる。だから……お願い。私達に任せて欲しいの」

 それは調査員としての静歌ではない、一人の人としての静歌の思いに聞こえた。

 ただ、僕だってそんなことは重々承知だったし、それを言うなら僕も媛倉事件の関係者のうちの一人だ。でも、ここでそれを言うべきではない。その無数の関係者の中で、僕だけが特権的に衣桜と関わり情報を独占することについて、静歌はノーと言っているのだから。

 それはどこまでも正論だった。正論……だけども。

 静歌は忘れている。衣桜もまさに、媛倉事件の犠牲者の一人だということを。

「……そう言われたら、もう何も言えないけど……、あの子に了解を取るんだよね?」

「もちろん。ただ、意思を示せる状態でないのなら、その手続きは省略せざるを得ないけど」

 要するに、さっきみたいに恐慌状態に入ったら、有無を言わさず連れ出すというのだ。

 ……ここまでだ。

 無力な僕はもはや同意するしかない。最初から蚊帳の外だったのだから、ここまで食い下がれたということだけでも良しとしないといけない。

 後はもう、衣桜自身にかかっている──いや、そう考えるのもおこがましい、はなから僕にできることなんて初めからなかったのだから。

 僕は静歌に促され、病室にまた戻った。折を見て、後から静歌が入ってくることになっている。まぁ要するに、偵察っていうわけだ。

 衣桜はヘッドボードに凭れて体育座りをしていたが、僕の姿を見てぱっと両脚を伸ばした。

「遼喜! おかえり!」

「ただいま……。ねえ、日鞍さん、少し話があるんだけど」

 僕はできるだけ衣桜に近い椅子を選んで、腰を下ろした。衣桜は僕が戻ってきたことに、何の疑問も持っていないようで、ニコニコとした笑顔を僕に向ける。

「話?」

「そう、とても重要な話」

 そう言ったのは僕ではない。ふ、と笑みが衣桜の顔から消え、ドアの方に視線を向ける。

 衣桜に見守られる中、静歌が見事なスマイルを浮かべて、病室に入ってきた。

「おはよう、日鞍衣桜さん。ポストプロテスの東村静歌です、よろしく」

「……」

「えっ、うわ!」

 ぐ、と衣桜は僕の手首を握って、僕を引っ張った。十七年間、冷凍庫で眠っていたとは思えないほどの力で僕はあっさりと引き寄せられ、ベッドにだらしなく腰掛けるような格好になる。

 それから、衣桜はぴったりと僕の腕に抱きついてきた。その冷えた感触に、衣桜の恐怖で引き攣った顔が脳裏に浮かび、僕は身を硬くする。

「えっと……大丈夫?」

 静歌は心配そうに訊ねるが、その声に反応して衣桜は身体をいっそう強く、僕の方へ押し付けてきた。まるで、嵐に揉まれるヨットのマストにしがみついているかのよう。

「日鞍さん……大丈夫?」

 僕も、衣桜に小さな声で言ってみた。多少の、祈りをこめて。

 衣桜は力を緩めて、まるで初めて僕がいることに気づいたかのように僕の顔を見上げてくる。

「……遼喜」

「何?」

「翻訳して」

 僕はぎょっとして、思わず静歌の方を向いてしまった。静歌は衣桜の声が聞こえなかったようで、神妙な目つきでこちらを見つめている。

 落ち着け、と僕は自分に言い聞かせる。彼女にとって翻訳とは何だ? それは単純に文章の意味を拾ってくることではなく、文章として記述させる背景までをごっそりと拾ってきて、そこから言葉を紡いでいく作業のことだ。

 その単語を今の状況で口にする、ということは他でもない。

 東村静歌を翻訳してくれ、ということだ。衣桜にわかる言語に。

「あの人は、東村静歌。僕の従姉だ」

 僕は言った。唐突に自分の名前を出されて、静歌はきょとんとした顔をする。衣桜は真面目な顔をして、

「ひがしむらしずか……いとこ……」

 と呟き、静歌の方を向く。たった今、僕がその名前を口にしたことで、初めてそこに静歌が出現したかのようなリアクションだった。それから、ぱっと僕の方に顔を向けると、

「静歌っていうことは、遼喜じゃない人っていうこと?」

「そう。僕は君じゃないのと同じように、静歌は僕じゃない」

「わたしがわたしで、遼喜が君だとしたら、静歌は第三者ってわけ?」

「そういうわけ」

 哲学めいたやり取りだけど、衣桜には納得してもらえたようだった。第三者呼ばわりされた静歌は微妙な表情をしているけど、これも衣桜の狂気を回避するためだ、我慢して欲しい。

「静歌はポストプロテスという調査会社で働いてる」

「ポストプロテス。調査会社」

「わかる?」

「わかる気がする」

 それは助かる。会社とは何かとか訊かれたら、答えられる自信がなかった。

「ポストプロテスは、媛倉事件っていう事件を調べてて」

「媛倉?」

「この辺の地域の名前だよ。媛倉事件はその地域を中心に起こった事件の名前」

「媛倉事件。なんとなく、日鞍と似てるね」

 衣桜は無邪気に言う。自分が当事者だなんて思ってもみない口ぶりだ。

「それで、その事件の調査のために静歌はここに来た。わかった?」

「そういうことだったんだ。わかった」

 わからない問題の解説でも聞いたように衣桜は頷き、僕の腕から離れて、

「日鞍衣桜です。よろしくお願いします」

「……よろしくね」

 静歌は曖昧な笑顔で、唐突な衣桜の挨拶に応じた。僕はホッとしすぎて、そのまま床にずるずると落ちそうになる。人と人が普通に会話している風景がこんなにも新鮮に思える日が来るとは思わなかった。

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