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第二章 -3

「なにこれ、この先全然読めないじゃん」

 日鞍衣桜は、そう言ってぽいと手記を投げた。僕は色々と頭の処理が追いつかず、唖然とするほかない。簡単に手記の今まで読めなかった部分を読まれ、手記の中で父さんはたくさんの死体を見ていて、良いところで匙を投げた日鞍衣桜はさっきと打って変わって普通に喋っている。

 なんだこれは。

「あれ……」

 彼女は、ここでようやく僕が傍らに立っていることに気づいたらしい。僕の方に顔を向けると、にんまりと破顔する。

「広垣真輝くん?」

「いや……それは父さんの名前だ。その手記は父さんのものなんだ」

「じゃあ、広垣ナントカくん?」

「いや、それは父さんの苗字で、僕のじゃない」

「? どういうこと? お父さんと違う苗字?」

 衣桜はぽかんと口を開ける。どう説明したものか。

「僕は中浦遼喜。ずっと中浦で育ってきたんだけど本当は別に本物の両親がいて、それが広垣の人っていうこと」

「……出生の秘密ってやつ?」

「まあ、そういうやつ」

 なんだかさっきと調子が違いすぎて、着いていくのがやっとだ。……でもよくよく考えてみると、さっきもこんなテンションだったような気がする。言葉を使うか、使わないかの違いだけで。

「それより、さっきは随分怖がってたみたいだけど──大丈夫だった?」

 僕は椅子に腰を下ろしながら、さしあたり、恐慌からすっかり脱出した今の状態について突っ込むことにした。すると、衣桜はその時の感覚を思い出したのか、表情を曇らせる。

「うん……今は大丈夫だけど、さっきは怖かった。何でか分からないけど、ずっと怖かった」

 露頭に迷う小動物みたいに、膝を曲げ、自分の身体を抱く。

「長い間ずっと、怖いことそのものの中に閉じ込められてるみたいだった。怖いってハッキリわかってるのに、でもどういうことか分かってなくて、ただ、滑車の中をぐるぐるぐるぐる……回ってた感じがする。それからやっと解放された時……君の顔が見えた気がして」

 衣桜はまっすぐに僕の方を見据えた。穏やかな眼差しをしている。まるで僕を一生の恩人か、或いは唯一の肉親であるかのように。僕は、なんと言ったらいいか分からない。

「正直に言うと、さっきまでのことは覚えてなくって……ただ、何かが起こって、またあの怖さがやってきたことは分かった。本当に怖くてたまらなくって──その時、君が読んでたその本に呼ばれたような気がして、気づいたらもう読み始めてた。不思議とこれを読んでたら心が落ち着いてきて……今はもう大丈夫」

 衣桜は、だから安心して、と言いたげににっこりと笑う。僕が彼女から離れる可能性があることを、頭の片隅にすら置いていないような物言いだった。

 それはそれで良いのだけど──僕は病室の外で待っている静歌を意識せざるを得ない。

「またあの怖さがやってきた」と言ったのは、多分静歌が入室した時のことだろうと思う。そして、父さんの手記を読んで心の安寧を取り戻した、と。

 そうなると、やはり衣桜をポストプロテスに引き渡すのは危険だ。静歌や別の調査員、医療関係者とまみえて、再びヒステリー状態になった時、再び手記を読んで平静に戻る保証はないし、そのまま十七年前の媛倉の人々と同じように死に至る可能性だってある。

 僕はそうやって、静歌の提案を退ける言い分を見つけたが──でも、まだ説得には足りない。何せ今は媛倉事件の十七年後だ。もう同じ轍は踏まない、と強調されたらどうしようもない。

 なんとかして、この子を静歌の手に渡さないようにしなければ。

 そんな言葉が閃いた途端に、なんだか頭の中でわだかまっていたものが、すとんと腑に落ちたような気がした。これから、何を彼女に確かめるべきなのかも、すっきりと理解できた。

 どうにかして、この子を守らなければ。

「うん、大丈夫になったのなら良いんだけど……君、どうやってこの手記を読んだの?」

 僕は彼女が放り投げた手記を手に取り、開いてみせる。

「どうやってって、……書いてある通りに?」

 彼女は首を傾げた。何でそんなことを訊くのか分からない、とでも言いたげだ。

 ということは、あの八月一日以降の文字群を、ほぼ無自覚に読み下していたということか。そんなことが可能なのか?

「君は八月二日の記述を読んだけれど、そこは僕にとっては全然読めない領域なんだよ。ひらがなでもカタカナでも漢字でもアルファベットでもギリシャ文字でもない字が、無作為としか思えないように書きつけられている」

「……うん、確かにこれひらがなでもカタカナでも感じでもアルファベットでもキリル文字でもないね」

「なのに読めるの?」

「だって、書いてあるもの……」

 自信なさそうに小さな声で衣桜は言う。書いてある、という理由だけで全ての文字が読めるのであれば、僕らは古文とか外国語にもっと親しみを持てても良さそうなものだ。

 僕はページにめくっていって、

「でもここから先は読めなくなる」

 適当なところを指差したが、衣桜は首をふり、

「ううん、そこは読めるよ。女性編集者と戦ってるところ」

「……じゃあ、ここから先」

「うん、そこから先は何か複雑になってて読めない……」

「頑張れば読めるって可能性はある?」

「頑張れば……ううん、もっとこれを書いた人のことが分かれば読めるかも」

 父さんのことがもっと分かれば読めるかも?

「どうして読めるようになるの?」

「うええ……それはよくわかんない。直感? っていうやつ?」

「直感……それだとちょっと弱い」

「弱い? そんなこと言われても……」

 むろん、説得力として弱いということで。静歌を説き伏せるためには、もっと合理的な筋道がないといけない。

「うーん、わたしもよくわからないんだけどね、一番直感的にわかりやすいのはコレ」

 衣桜は父さんの手記をぱらぱらとめくって指差した。

『余裕がない時は筆圧が薄くて、余裕がある時は筆圧が濃くなる傾向がありますね、と言われた。確かにそうかも知れない』

「これをわかってると、文字そのものから、その文字の持つ意味とは別に裏っかわ? にあることがわかるようになるの。ほら、この君が読めないっていう文字も、よく見たら濃淡がはっきりわかるでしょ?」

 衣桜に示されて該当のページを見てみると、目を凝らしてみないとわかりにくいが、確かに筆圧にバラつきがあるように見える。

「こういう情報が、わっ、っていっぺんに頭の中に流れてきて、ワーワーやかましく騒ぐの。そのやかましさに耳を澄まして、なだめて、整理して、組み立てなおして、ようやく読んでるって感じ。うーんと……読むって言うよりもむしろ、翻訳に近い感じがする」

「翻訳……なるほど、そういうことか」

 そう説明されても文字は読めるように全然ならないが、衣桜の言いたいことは理解できたつもりだ。

 例えば、英文を訳してみようという話になった時、僕らは英和辞典とか教科書を駆使して、それぞれの単語の意味とか文の構造から、その文の意図を探ろうとするけど、どうしてもわからない。文法や意味はわかるのに文全体で見ると意図がわからない、という状態。そこで現れたALTからその文章の背景について教えてもらうと、一気に意味が氷解していく。イディオムとかことわざとかが、この例にあてはまるわかりやすいものなんじゃないかと思う。

 こういう類のものは、知らないと読めないが知っていれば読める。つまり、衣桜は父さんについての情報、というか文脈を知れば知るほど、この手記を読めるようになるということだ。

「ただ、このページから先は、頭の中でワーッってならないの。全然足りなくって」

 もう一度言うけど、それでも僕は全く読めない。衣桜も何故、自分がこの文字を読めるのか正確にはわかってないみたいだから、これ以上ムキに突っ込んでも何の意味もないだろう。

「わかった。それだけ聞ければ大丈夫だと思う」

 と言って僕は席を立った。途端に、衣桜は心もとない表情になる。

「どこいくの?」

「外で……姉さんを待たせてるんだ。ちょっと話してくる」

「姉さん?」

「えっと……実際は姉じゃなくて従姉なんだけどね。すぐそこにいるんだ」

「? 何がいるの? どういうこと? どこにいくの?」

 衣桜は不安に満ちた声で、矢継ぎ早に訊いてくる。その心細そうな声を聞いて僕は、熱の出た状態で母さんに置いて行かれた幼稚園の頃のことを思い出してしまった。未だに耳の奥にこびりつく、僕自身の幼い声。

 ──かあさん、どこにいくの……。

 僕は衣桜の頭にぽんと手を置いて、暗示をかけるように言った。

「大丈夫、すぐ戻ってくるから。それまでガマンしてて」

「うん……」

 衣桜は上目遣いで僕を見て、恐る恐るという風に頷いた。


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