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第二章 -2

「……あの子の声? 嘘でしょ?」

 静歌が訝しそうに病室のドアに手をかけたので、僕は反射的にその手首を掴んだ。静歌はびっくりした顔をして、僕を見る。

「どうしたの?」

 単に驚いたからだろうけれども、静歌の眼は真剣味を帯びていた。ヘタな理由を言ったらタダではおかない、とでも言いかねない目つき。自分の行動に自分でも驚いていた僕は、慌てて何を言うか考える。

「いや……その。実は、最初僕と一緒にいた時、あの子はあんな取り乱してなかったんだ。静歌の姿を見てから、怖がり始めた」

「……確かに、さっきは私が入っていってから、あの子の様子がおかしくなったみたいだった」

「そう……だから……念のためにさ、僕だけで入った方が良いと思うんだ」

 なんとも説得力が弱いかと思ったけど、静歌は僕の言いも一理あると思ったらしい。

 少し考えるように間を置くと、静歌は頷いた。

「確かにそうね。私が入って、また怯えさせたら何の意味もないし……」

 と言って、病室のドアから手を離す。それから調査員の目で僕の方を見やって、

「ただし、ちゃんとあの子が何を言っていたのか教えてね」

「わかってる。待ってて」

 僕は内心ほっとしながら、再度病室の中へ入っていった。

『七月十七日。今週はやけに忙しかった。目まぐるしすぎて、あんまり何をしていたのか覚えていない』

 覚えのある文章。声の主は果たして、日鞍衣桜。僕に気付いた様子はない。

 読み上げているのは、父さんの手記だった。何故彼女が持っているのか、僕は一瞬混乱したが、さっき病室を出る時、椅子の上に置きっぱなしにしていたらしい。

『代わりに陽代はヒマだったらしく、映画を見るに飽きたらず、俺の今までの手記を全部読んだらしい。余裕がない時は筆圧が薄くて、余裕がある時は筆圧が濃くなる傾向がありますね、と言われた。確かにそうかも知れない』

 なるほど(元?)演劇部ということで、朗読がやたらとうまい。さっきまで「あ!」と連呼していたのと同一人物とは思えない。

『それからお互い初対面時の印象の酷さについて笑いあった。あの時は、こんな性悪の女がいるもんかと本気で慄いていたが、まさかそいつと結婚することになるとは』

 僕の記憶が正しければ、父さんの手記の可読部はそこで終わっている。続くのは八月一日以降の、謎の文字列だけ。

 日鞍衣桜は、ぱらりと手記のページを捲る。

 そして、当然のように、何ら変わらない調子で朗読を続ける。

『八月二日。早朝、外が騒がしいので目が覚めてしまった』

 ──鳥肌が立った。どういうことだ。八月二日? そんなこと、あの手記のどこに書いてあったんだ?

 僕は衣桜を刺激しないように、そっと彼女の隣に回りこんで手記を覗いてみる。もちろん、そこに記されているのは解読不能のめちゃくちゃな文字の並び。

 彼女の朗読は続く。


八月二日 朝

 早朝、外が騒がしくて目が覚めてしまう。外を覗くと、道路に人が何人か倒れていた。ぴくりともしない。俺は慌てて電話をかけるが、どうしても繋がらなかった。どういう順番でボタンを押したら、警察が来てくれるのか思い出せなかったのだ。

 俺は、陽代に余計な心配をかけないように、二階のカーテンを全て閉めきって寝室に寝かせ、一日安静にしているように厳命した。陽代は俺の態度にただならないものを感じたようで、神妙に頷いてその通りにしてくれた。

 しっかり戸締まりをして外に出て、倒れている人のもとに駆け寄ってみる。頭から血を流していた。死んでいた。

 別の人は、左腕と右脚が変なふうに曲がっていて、脇腹から骨がはみ出していた。車に轢かれたか。

 別の人は、全身に殴られた跡がある。もうぴくりとも動かない。

 とにかく警察を呼びたいが、警察の呼び方が分からない。携帯を出しても、そこから先をどうすればいいのかわからない。

 とりあえず、職場へ向かう。徒歩で二十分ほどなのだが、その間だけでも山ほどの死体と、大量の吐瀉物をみた。あちこちの家から悲鳴が聞こえる。交差点は、二つに一つの割合で車が事故を起こしている。救急車や警察が来る気配がない。まるで戦場の真っただ中みたいだ。

 編集部のある雑居ビルの隣から、人が落っこちてくる。以前、媛倉の駅で起こったグモを目撃したことがあって、人がばらばらになる光景を見るのは初めてではなかったから、なんとか吐きまではしなかったが、相当心臓に悪かった。

 職場についても誰もいなかった。だいたい皆昼前に出てくるから、こんな時間にいるのは泊まり込みをした人間だけだ。それに期待してフロア内を歩きまわっていたら、給湯室に女性の編集者がうずくまっていた。

 大丈夫か訊くと、彼女はガタガタと震えだして、そこに置いてあったポットだのコップだのを投げつけてきた。どれだけ声を上げても彼女は聞く耳をもたない。手元に投げるものがなくなると、今度は持っていたボールペンを突き出してくる。それは女性とは思えない力で、ペン先を当てられた脇腹に鋭い痛みが走り、着ていた服が破けた。俺は会話を諦めて逃げた。

 彼女は、忘れ物でいつまでも放置されていた傘を、変なふうに握って追ってきた。振り抜かれたそれを慌てて避けると、空振った傘は窓ガラスにあたり、派手な音をたてて割れた。自分で出した音に驚いた彼女は、大きな悲鳴を上げてよろめき、割れた窓ガラスから外へと落ちていった。

 そして、今に至る。

 俺は、いま、誰もいない編集部でこの手記を書いている。何のために書いているか分からないが、今、何が起こっているのかさっぱり分からないが、誰に読んでもらうのかもさっぱり分からないが、とにかく書かなければいけないと思い書いている。


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