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第二章 -1

 算数の話。

 一般的な知識として、全ての子どもには二人の親がいることは知っていて、ただ、僕の場合、親と呼べる人は母さん一人だけだったというだけのことだった。

 二ひく一は、一というわけで。

 ところが、実は僕の場合、親と呼べる人は三人いたのだった。母さんは二から一を引いたのではなく、二に加えられた一だったのだ。

 二たす一は、三。

 それがどうした、という話になるけれども、冷静に考えてみてほしい。親の数が三倍になったのだ。この単純な数の差は見かけよりとても大きい。僕は幼稚園の時、高熱を出して、母さんに見捨てられそうになった。それが嫌だったから、なんとか生き抜いて母さんに生きる事を認められた。

 それをあと、もう二回だ。あと二回だ。僕はまだ、存在をちゃんと許されていない。


 翌朝、日鞍衣桜が目を覚ました、という報せが病院から入った。予想以上に早い覚醒に驚きつつ、早速僕と静歌はタクシーに乗り込んで、媛倉中央病院へと向かう。人口が大きく減った現在、媛倉市唯一の総合病院だ。

 日鞍衣桜が目を覚ました、とは言うものの、それ以上の事態はないらしい。目を開き、虚空を見つめたまま停止している状態で、どんな呼びかけにも反応しない。フリーズしたコンピュータのように……というのが向こうの言。

 病院の前に着いた時、静歌の携帯に会社からの着信が入った。「先に行ってて」と促された僕は、一人で彼女の病室へと向かう。

 面会するのは自由ですが何かあったらすぐ呼んでください、と看護師さんは言って、僕を病室の前まで案内してくれた。言外に、普通ならこんなことは許さないのに、というニュアンスが伝わってくる。病院としては患者の健康が第一、調査会社としては事件の真相が第一。その欲求の交差点に立たされた僕は、愛想笑いをするほかない。

 病室はとても静かだった。究極に気を使った病院の内装は、正直僕は落ち着かなくて好きじゃないのだけど、ベッドに横たわる彼女の姿はどことなくこの雰囲気に似合っていた。

 彼女は目を閉じていた。冷凍庫から転がり出てきた時の、死んだような様子に比べれば、ずっと血色は良くなっているけれど、それでもまだだいぶ青白い。

 まさか起こすわけにもいかないので、僕はベッドの傍らの椅子に腰かけて、鞄から父さんの手記を取り出した。文字ならざる文字で記述された八月一日以降の記録。昨晩、日鞍衣桜の手帳に書かれた文字と、父さんの手記に記された文字を並べてみたりしたけど、違いすぎて比べようがなかった。日鞍衣桜専用の文字と、父さん専用の文字、というわけで。

 僕は、じっと父さんの手記の文字を見つめるが、何の意味も読みとれない。何なんだろう。父さんは、この文字ならざる文字を書いて、誰に何を伝えたかったんだろうか。

 そこに僕へのメッセージは含まれているのだろうか。

 僕は、父さんに生きる事を許されているのだろうか。

「あ!」

 突然、大声が上がったので、僕は文字通り跳び上がった。一瞬、静歌が入って来たのかと思ったが、それにしては声が高すぎる。

 混乱した頭で声の方を見ると、日鞍衣桜がいつの間にか上半身だけを起こし僕を凝視して、

「あ! ……あ!」

 あ! と連呼していた。それからニコニコと、まるで僕からチョコを貰うのを待っているような、楽しそうな笑顔を浮かべる。

「えっと……日鞍さんで良いんだよね」

 一応、名前を確認したけど、ニコニコされるばかりで反応がない。

「何か覚えてることはある? どうしてうちの冷凍庫にいたの?」

 ニコニコニコニコ。

 なんというか、僕の問いかけがまったく聞こえていないようだ。無表情ならともかく、笑顔だから悪い気分じゃないけど、気味は悪い。

 どうしよう。僕の手には負えそうにないから、誰か病院の人でも呼んだ方が──。

 と、ナースコールに手を伸ばしかけたその時、誰かが病室に入ってくる音がした。

「ごめん、電話長引いちゃって──って、あら、おはよう……」

 静歌だった。起きている日鞍衣桜に驚きつつも、優しく声をかける。それでも彼女は変わらずに、ニコニコし続けるのだろうと思ったけれど──

「ふ……、ふ…………」

 彼女の顔に笑みはなかった。目を見開き、口元を引き攣らせ、荒い呼吸をして、ベッドの上で後ずさる。後ずさった勢いでヘッドボードに背中をぶつけて、どたん、と大きな音がした。なおも後退ろうとして、何度も背中をぶつける。

「あ……あぁ……」

 恐怖の塊を投げつけられたように、顔が歪み、身体がガタガタと震えだす。

 異常だった。さっきまでの笑顔が嘘のような怖がりようだった。

 あまりにも突然すぎる豹変に僕は呆然としていたが、我に返って、すぐにナースコールを押そうとした。が、その寸前で手首を掴まれる。静歌だった。

「遼喜、外で話しましょう」

「え、なんで……」

 僕は静歌にそのまま腕を引っ張られて、病室の外へ出た。廊下は嘘みたいに静かで、看護師さん達もこの病室の異変に気づいていないようだった。

「どうしていきなりあんなに怖がり始めたんだろう……」

 と僕がぼやくと、静歌は真剣な面持ちで力強く言った。

「あれなんだよ!」

「あれ……って?」

「あれが、媛倉事件で媛倉市民を襲った症状なんだよ!」

 僕はその突拍子もない発言に、なんともリアクションが取れなかった。

「えっと……情緒不安定になることが?」

「あの表情を見たでしょ? ただの情緒不安定じゃない、剥き出しになった恐怖感情だよ……あれが更に悪化したら、人を襲い始めても不思議じゃない。仮にベッドの脇にハサミが置いてあったら、まず間違いなく私の方に飛んできていたと思う」

 確かに何か手頃なものがあったら、彼女はとにかくそれを利用して僕らを遠のけようと抵抗したに違いない。それくらい鬼気迫っていたのだ。

 通じない言葉。唐突な錯乱。

 僕は彼女のように恐怖に顔色を染めた人々が、そこらじゅうを歩きまわっている図を思い浮かべた。伝染する恐怖感情、身を守るために人々を襲う人々。集団ヒステリーと、歯止めの効かない暴力。自滅し破滅していく街。

 でも、それは十七年前多くの人々に目撃されて、とっくに知れ渡っている現象だ。今更、彼女をサンプリングしてこういう症状なのです、と世界に見せるのはあまりにも遅すぎるというか、今更過ぎる。

 だから、静歌はこう言う。

「ウチであの子の身柄を預かって、徹底的に調べる」

「……『ウチ』って、静歌の会社のこと?」

「そう。今日中にでも、ウチの提携している病院に搬送して、精密検査をするの。十七年前に何も見つけられなくても、今の技術なら何か手がかりが得られるかもしれない。病理的な原因が見つけられなくても、長期の観察で精神的な遠因を見つけられるかもしれない」

 淡々と告げる静歌は、もう僕の従姉の静歌ではない。調査会社ポストプロテスの調査員、東村静歌だった。ここまで完璧にスイッチが入ってしまった以上、有休なんてもはや有名無実どころの騒ぎじゃない。

 つまりもう、日鞍衣桜の件はプライベートではないということだ。

 ということは、

「……僕はそれに着いていく必要性はないんだよね」

「うん。遼喜はこの街に留まって、ご両親について調べてて良いよ。一人だとちょっと大変だと思うけども……できるよね?」

 僕は返事に困る。静歌の謂はあまりにも自然すぎて、筋が通りすぎていて、僕が「うん、わかった」と答えてしまえば、何の障害もなくすぐさま実行に移されるだろう。

 そう考えると、もはや僕の同意すら意味がない。僕は既に、蚊帳の外にいる。

 でも、それならそれでいいじゃないか、と僕は思い直そうとする。僕はたまたまあの子の第一発見者だった、というだけであって、それ以上の何かが僕らの間にあったわけではない。あの子だって所詮、普段意識しなうちにすれ違っているたくさんの人々のうちの一人であるに過ぎないのだ。

 ただ──僕には、あの子の笑顔が引っかかる。日鞍衣桜が最初に僕に向けた、ニコニコ顔が頭から離れない。

 もし、日鞍衣桜が僕以外にはあんな態度を取らないのだとしたら? もちろん、そうかはわからないけれども、僕より遥かに親しみやすい外見をしている静歌ですら怯えられたのだ。見知らぬ人ばかりの環境に放り込まれて、あの子は果たして平気なのだろうか。まだ、冷凍庫の中で眠っていたほうが幸せだったんじゃないか。

 もちろん、全部憶測だけども、僕はすっきりしなかった。もやもやしていた。

「遼喜?」

 静歌が僕の様子を不審に思ったようで、首を傾げる。もうこれ以上は粘れない。僕は決断しなければいけない。

 僕は顔を上げ、自分でも何を言おうとしているのかわからないまま口を開けた。

「うん、わ──って、何だ?」

 僕は途中で思わず言葉を止めて。静歌も僕と同じことに気づいたようで、病室の方に顔を向けた。

 病室の中から、朗々とした少女の声が聞こえてきたのだ。

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