第一章 -3
「!?」
僕は思わず手記を取り落とした。鈍い音がして、ページが翻る。その次のページもそうだった。その次の次のページも、次の次の次のページも、そのまた次も、次も、延々と──文字ならざる文字が連なっていた。
しかも、後にいくほど文字は文字としての形骸を留めず、放埒な線がぐちゃぐちゃとのたうち回っているようにしか見えなくない。最後に至ると、もはや筆記用具すら使ってなくて、血のような赤黒いものがべっとりと塗りつけられていた。僕は、これが何らかの意味を持つ可能性があるということを信じたくなかった。
「なにこれ……」
僕が呟くと、静歌はうんざりとしたような口ぶりで、
「見ての通り、読めない文字。統合失調症の人が書く文字に似てもつかない、謎の文字。他に似たような文字を書いたものがないか、媛倉市をくまなく探してみたけど見つからなくて、解読できないか試みたけど法則性も全くないために頓挫。それで、ずっとうちの社倉で眠ってたってわけ」
僕は手記を閉じて、じっと見つめる。ここに記されているのは、ただの無意味な文字列なのかも知れない。それでも、僕と父さんの、たった一度の接触の瞬間に立ち会ったものなのだと思うと、なんだか愛おしく感じられた。
「……これ、僕が持ってていい?」
「もちろん、遼喜には持つだけの権利があるからね。……一応、返さなきゃいけないから、この一週間の間だけだけど」
僕の持つ権利は、最初におさえた調査会社の権利には及ばないらしい。しょうがないけど。
僕は了解して、その手記を丁寧に鞄にしまった。
「それで、明日からのちゃんとした予定を立てなきゃね……って話をしようと思ったんだけど、アンくん平気かな。今どこにいるんだろ」
静歌はそう言って立ち上がる。僕はそこで彼がまだ仕事中だったことを思い出したのだが──あのやかましい駆動音が聞こえないことにも今更気がついた。
「充電切れてるんじゃない?」
「そうなのかな……三時間は持つバッテリーなんだけどな」
僕と静歌は顔を見合わせる。まだ稼働を始めて一時間半程度だから、元気ならば嫌でも耳につくはず。
それから二人で家中を探してみたが、アンくんは見つからなかった。
掃除ロボットが登場したばかりの頃は、「家出」なんていって、外に出て行ったきり帰ってこないなんてことがあったらしいけど、今の時代にそんな猫みたいなロボはいない。GPSで追尾されていて、屋外に出たと判断されると自動的に戻される仕組みになっている。
だから、確実にこの家のどこかにいるはずなんだけど。
静歌は二階に上がっていったが、いくらなんでもアンくんを過大評価しすぎで、掃除ロボに階段を上る機能などない。僕は地道に一階を隅々まで探すが──。
……ん。
どこからともなくモーターの唸る音が聞こえてきた。けれども、どこが音源なのか分からない。
耳を澄まし、注意深く廊下を歩く。玄関から入って左方向、一直線に伸びる廊下の突き当りは、右手にトイレ、左手に浴室、正面に小さな物置部屋があるのだが、ちょうどその岐路の地点からくぐもった音が聞こえた。
「──まさかな」
僕は物置部屋に踏み込む。一応、さっき調べてみた時には、アンくんの姿はなかった。けれども、何かがあるとしたらこの部屋しかない。
物置部屋とは言うものの、ものは全くない。調査資料には、両親が溜め込んだ本とかHDDとかDVDとかBDなんて古いメディア諸々を溜め込んでいて、全て回収された旨が記載されていた。残っているのは大きな本棚二つといくつかの衣装ケース、そして大きな引き違いの窓。
改めて見てみると、衣装ケースが随分散らかっているように見える。まるで、何かが無遠慮に衣装ケースの間を突き抜けて行ったかのような──。
果たして。
衣装ケースをどかすとその後ろの床板がずれていて、ぽっかりと穴が空いていた。アンくんはお掃除中、ここから床下に落っこちたのだ。それで、今も健気に床下を掃除し続けていると。
僕は思わず苦笑して、穴の傍らに屈みこんで覗き込んでみる。
──そして、絶句した。
「……え」
床下には空間が広がっていたのだ。そこにアンくんのうるさい駆動音が響いている。
地下室だ。この物置部屋と同じくらいの広さの地下室があるのだ。
「……」
僕は生唾を飲みこんで──、そこに入ることを決めた。もしかしたら、調査会社が見逃した事件や両親に関する情報があるかもしれない。
床板をずらすと、ちょうど五〇センチ四方の穴が出現する。昇り降り用の梯子がかかっていて、一番上のステップ近くにあるスイッチを押したら、地下室全体の照明がついた。僕は滑り落ちないよう、慎重に降っていく。
アンくんが徹底的に掃除してくれたために、床の埃は気にならなかった。僕は感謝の念をこめてアンくんの電源をオフにする。地下室に静寂が訪れる……と、思いきや違った。まだ低い唸り声みたいな音が聞こえる。まるで田舎に置いてある自販機のような。
僕は地下室の中を見回す。どうしてこんな場所があるのか分からないが、調査会社の手も回らなかったようで、かなりの数の物品が一七年分(あるいはもっと?)の埃をかぶっていた。
電気街で見るような部品やハードウェアが無造作に並んでいるところを見ると、機械工学系の研究部屋のように見えなくもない。低い唸り声を上げる機械が、そこら辺に転がっているのだろうか。僕は音のする方へ、歩み寄っていく。
音の主は地下室の隅っこに置かれた小さな箱だった。一瞬金庫かと思ったが、よく見たら違う。
これは冷蔵庫──いや、冷凍庫だ。
冷凍庫が、ゴーストタウンの一角の家の、誰にも見つからなかった地下室で稼働している。
何故? そして、一体誰が? 何のために?
そして、中には何が入っている?
一斉に去来した疑問の数々に、僕の頭はまともにものを考えられなくなっていた。
気がつくと、僕は冷凍庫の取っ手に手をかけ、ぐいと引っ張っていた。小さい割に重量のある扉が、もったいぶるように開いていく。
そして、開けきる前に中から誰かが転がり出てきた。
「わあああああああ!」
僕は悲鳴を上げて、その人を受け止めた。蝋人形のように真っ白いその身体は、熱いのか冷たいのかすら分からないほど冷えている。僕は無我夢中でその身体を冷凍庫から引っ張りだし、その重たい扉を脚を使って閉めた。
そこでひとまず落ち着いた僕は、その人がパジャマ姿の女の子であることに気づいた。僕は思わず、生気の抜けた眠りの表情をまじまじと見てしまう。眠れる森の美女も、こんな感じだったのだろうか。それは確かに、王子もくちづけをしたいと思ってしまっても無理はない──。
いやいや、と僕は正気になる。何を見とれているんだ、早く静歌に救急車を呼んでもらわないと。
僕は首を地上の方へ向けて、「静歌!」と大きな声で呼んだ。二階にいたら聞こえないかもしれないが、とりあえず聞こえたと信じて僕は視線を女の子の方へと戻す。
すると、女の子と目があった。
冷気の漂う瞳は、どんな色も帯びることなく僕の顔を見つめていた。
「…………」
やがて、女の子が言った。乾いた樹の枝が擦れあったような、掠れた声がした。
「………………」
何かを言っているのだけど、何を言っているのか全然わからなかった。
そこで、僕は自分まで声を出せなくなっているのに気がつく。静歌を呼ぼうと口を開くも、声が全く出てこない。この女の子のまとった冷気で、僕の声帯まで凍りついてしまったかのようだった。
突然、ガタガタと女の子が震えだした。寒いんだ、当たり前だけど。
動転した僕はとにかく彼女を温めようとして、その蝋人形のような身体をぎゅっと抱き寄せた。氷の彫像を抱擁したような、強烈な冷たさが僕の全身を襲う。
「遼喜ー、どこいるのー?」
ちょうど良いタイミングで静歌の声が聞こえてきた。僕は必死で声を張り上げる。
「こっちだよ! 物置の奥! 地下室がある!」
「え、地下室ってなに……ここにいるの?」
ひょいと出入り口から顔を覗かせた静歌は、僕が見知らぬ女の子を抱きすくめているのを目撃して、
「えぇ、何その子! いつの間に!?」
「静歌、この子生きてる! 救急車呼んで!」
「生きてる!? ええ、どういうこと!? 救急車? 呼べばいいの?」
「そう、呼んで! 119!」
僕は自分のこんな悲鳴のような声を、初めて聞いた。