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エピローグ

 静歌は媛倉事件の担当に舞い戻ることができた。別人のようになった篠園さんと、激烈に静歌を推す衣桜がいるのだから、当たり前の話ではあるんだけど。

「そういうわけで、私はもう少しこっちに残るから……一人で帰れるよね?」

 荷物をまとめる僕に、静歌は訊いてきた。僕は少しムッとして、

「帰れるよ、子どもじゃないんだし……。それで、事件のことって全部発表するの?」

「うぅん、どうだろう。十七年前のことで首謀者も死んでいるみたいだし、どう対処するかは情報が出揃ってからかな……」

 父さんの手記から得られた情報が全てというわけではない。

 例えば、帆村製薬の調査は当然、十七年前に済んでいるけど、『バベル』にまつわる証拠が発見されたという報告はない。結が全て処分してしまったということもありえるが、それならどうやって父さんは『バベル』の菌株を手に入れたのか。そして、その菌株はどこにいってしまったのか。

「なにぶん十七年前のことだから、大変だろうなあ」

 静歌は憂鬱そうにぼやくが、僕はその口ぶりに調査員としての生気を感じた。

 事件はまだまだ終わっていない。静歌は果てしなく、その真実を追い求めることだろう。


 僕は大きな荷物を抱えて、衣桜がとりあえず検査入院している媛倉病院へと向かった。

「よう、中浦くん」

 ロビーに入ると、退屈そうに待合用の椅子に腰掛けていた末野さんが声をかけてきた。衣桜の精神異常がすっかり快復してしまったから、仕事がなくなってまた時間を持て余しているらしい。

 僕は昨日からずっと気になっていたことを訊ねた。

「『バベル』はどうでしたか?」

「いきなりそれかい……まあ、気になるよな。あの細菌は、それはもうえらいポテンシャルを持ってることがわかった……ってことだけ言っておこう」

「……何もわかってないんですね」

 末野さんはふふん、といたずらっぽい笑みを浮かべる。

「一晩で簡単に全部わかっちゃ堪らないぞ。まだロクに実験設備が整ってないんだ。まずは調べる人材集めだよ、御用細菌学者を探して、今頃どっかの部署が必至にその足を働かせているところさ」

「……それじゃあ、どうしてあの手記に文字として貼り付けられていた『バベル』達が生きていたのか、まだわからないんですか」

 僕達の普通の感覚で考えると、十七年間、細菌が生き続けるのはおかしい。しかし、現に篠園さんはあり得ない変貌を遂げたし、後に回収された『バベル』はその生存が確認されたらしい。

「詳しいことはわからない。ただ……本の閉じられた状態っていうのが、細菌の連中にとって良い環境だったようだな」

「良い環境?」

「生き延びるためにな。詳しいメカニズムは知らん。……で、十七年前、こいつが検出されなかったのは、コイツがどう見てもただの大腸菌にしか見えないからさ。一見同じような人間の群れの中に殺人鬼が紛れてるようなもんだ。だから、普通の大腸菌とたっぷり比較してやる必要がある……全てが分かるのはその時だな。……『バベル』の正体、気になるか?」

 窺うような視線と共に、末野さんが問いかける。僕は素直にうなずいた。

 この一週間で、僕は媛倉事件について全てを知ったようなつもりになっていたが、実際に知り得たのはほんのごく一部だ。父さんについてだって知り尽くしたわけでもなく、まして母さんのことなんて知らないも同然だ。

 すると末野さんは、指をぱちんと弾いて言った。

「つまり、君はもう既に、弊社ポストプロテスの顧客だってことさ。ここから先を知りたければ……相応の金を払うことだな」

 僕は、前に静歌の話していたことを思い出す。

 わからないという不安、気持ち悪さ、居心地の悪さがわだかまるところに、情報の需要がある。だから、ポストプロテスは血眼になって媛倉事件の手がかりをいつまでも探し求めていた。

「……なるほど、嫌な商売ですね」

「ジョークだよ。まあ……でも、確かに嫌な商売だな。みんな全てを知りたいって思うけどさ、到底ムリなんだ。せいぜいできることは『これで全てですよ』って思わせることだけ。それで安心とか健康を守れるなら、こんなに幸せな生物はいないよ」

 末野さんは投げやりに言い放つと、思いっきり伸びをした。

「で、君はこれからどうするか決めたのか? 媛倉で両親のことを調べた結果、さ」

「そうですね……」

 僕は天井を見上げて、少し考えてから答えた。

「とりあえず、色々勉強してみようと思います」

「それが一番いい」

 末野さんは笑って言った。


 僕が病室に入った時、衣桜は眠っていた。なんだか、初めて会って話した時も、こんな状況だったような気がする。起こすのも悪いし、僕は書き置きでも残していこうかと、荷物の中から適当な紙を取り出した。

 衣桜が父さんの文字を読めたのは、衣桜も同じような経験をしていたからだ。

 つまり、認識が崩壊している最中に、文字を書こうとしたこと。一般に耳が聞こえる人同士なら、通じる発音で喋ることができるのと同じように、同じ境遇で文字を書いた者同士なら、筆者の知識や思想がわかれば意味を取り出すことができる。

 その理屈が本当かどうかはわからない。何故なら、今の衣桜はあの手記を読めなくなってしまったからだ。極端な話、今まで衣桜が語ってきた手記の内容は全くのデタラメかも知れない。今の衣桜が記憶する手記の内容は、妄想の産物なのかも知れない。

 もちろん、僕はその可能性に味方はしない。彼女は間違いなく父さんの手記を読んでいた、と信じている。

 ──なんと書き残していこうかと四苦八苦していると、衣桜が目を覚ました。

「あ……遼喜。どうしたの……」

 身体を起こすと、眠そうに目をこすりながら訊いてくる。僕はその様子を微笑ましく思いながら、

「もう帰るからさ。お別れを言いに」

「あぁ、そっか。遼喜には家があるんだもんね」

 衣桜は僕を眩しそうに見た。僕は少し胸が痛くなる。

 家──僕にとっての帰るべき家はあの1LDKだ。でも、衣桜には家はない。媛倉にあったはずなのに、もう衣桜にとっての家はない。

 衣桜はこれからどうするんだろうか。そう考えると、僕はますます何と声をかければいいのかわからなかった。

「私もそのうち、東京の方に移されるんだって。……だから、当分会うことはないね」

 少し寂しそうな声。僕は曖昧に相槌を打つ。

「うん……そうだね」

「もう、二度と会わないかもね」

「もしかしたらね」

「キスした仲なのに」

「……そうだね」

「もう、鈍いなあ! だからさ、連絡先教えてよ!」

 煮え切らない僕の返答に、衣桜が声を上げた。

「うん、まあ言おうと思ったんだけどね、恥ずかしくて……」

「もう、恥ずかしいこと全部私に押しつけないでよ!」

 ごもっともだ。次の機会があったら、僕が引き受けよう。──僕は心の中で、そんな無責任な誓いを立てる。

 衣桜は何の携帯端末を持っていないから、僕の連絡先だけを一枚のメモにしたためて渡した。衣桜はにそれを受け取ると、「ありがと」と言って枕元に置いてある手帳に挟み込む。生徒手帳の代わりに、静歌にもらったという新しい手帳だ。

「それでさ、ちょっと訊き忘れてたことがあるんだけど」

「なに?」

 僕が切り出すと、衣桜は首をかすかに傾げた。

「父さんの手記の内容を、最後まで教えて欲しいんだ」

「手記の内容? 話してなかったっけ」

「結京悟が自殺するところまでしか」

 僕ははっきりと実感した。僕が生きていることそれ自体が、僕の両親の許しであることを。

 それでも、父さんが僕のことをどう思いながら守りぬこうと思ったのか、とても気になるところだった。これは単なる好奇心でしかないけど、せっかくここまで来たのだから知っておくべきだと思ったのだ。

 しかし、衣桜はほっとしたような表情を浮かべて、

「なんだ、話してるじゃん。そこまでで全部だよ」

「……これで全部?」

「うん。あの手記は結の最期を綴って終わってる。その先はないよ」

 僕はその言葉に少なからずショックを受けたけど、考えてみればある意味当然なのかも知れない。父さんの症状は対話している時点で、既に限界まで来ていたのだ。

 そこから僕という存在が生き延びるための努力を、死ぬまで尽くし続けた。

 なんだ……わかりきっていたことじゃないか。僕自身が父さんの手記の続きであって、まだ終わっちゃいないんだ。

「そっか、ありがとう。それじゃあ、またどこかで」

 僕はそう告げて腰を上げた。あまり長く居続けると、いつまでも帰れないような気がしたからだ。

「あ、ちょっと待って!」

 衣桜に慌てて呼び止められて、足を止める。

「私さ、ポストプロテスとの契約が終わったらさ、どこかの劇団に入ろうと思うんだ。バイトして、どっかの安アパートで暮らしながらね」

「いいじゃん、それ」

「それでさ、いつか大きな劇場で主役張る! ってなったら……観に来てよね」

 衣桜の表情は真剣そのもの。彼女は──間違いなく大スターになれるだろう。

 だから僕は小さく笑って、答えてやった。

「うん。別に小さな劇場のチョイ役とかでも見に行くから教えて」

「ええ……うん、わかった」

 衣桜も笑って、頷いた。


 一週間ぶりに息子が帰って来たというのに、母さんの反応は淡白なもので、どうだった、とか、何かあった、とかいう質問もなかった。

 ただ夕飯終わり、僕を食卓に残して、あまり興味無さそうに訊いてきた。

「で、どうする?」

「どうする……って」

「将来の話。この一週間を通じて何か変わったことがある? ってこと」

 この一週間を通じて、僕が得たこと。変わったこと。

 それは将来の話という話題に対しては、あまりにちっぽけな実感だった。

「わかんない。でも、色々勉強してみたい」

「それだけ?」

 母さんは訝しげに僕を見る。

「うん。今までは、無難に公務員になればいいとか思ってたけどさ。……なんだか、僕が父さんと母さんに、ああして守ってもらって生きてるんだって知って、もっと考えてみるべきだな、って思ったんだ」

「ふぅん……ま、それはそうだね」

 母さんの反応はやっぱり薄かった。タバコの箱を取り出すと、一本つまんで火をつける。紫煙が揺れながら天井へ昇っていくのを、ぼんやりと眺めながら母さんはぽつぽつと語り始めた。

「あたしさ、死のうと思ってたんだ。あんたを引き取る前は……ま、意味もなくそう考えてたんだ。ブサイクだし、頭も悪いし、愛嬌もないし、種なしだし、生きてても何も意味ないと思ってた。で、媛倉事件が起きて、なんとなく潮時だと思ってたら、あんたが来た」

 母さんは懐かしそうにふふ、と口元を緩めた。

「その頃のあたしはバカみたいに単純だったから、あんたを抱いた瞬間、育てようって気になった。初めて真っ当なな仕事にもついて、意外と順調にいったんだ。で、あんたが幼稚園くらいの時、高熱を出した。覚えてる?」

 僕はドキっとした。不安になった時に、いつも思い出していたエピソード。思えば、自分の胸に畳んだままで、母さんの側からそのことについて聞いたことはなかった。

 曖昧に頷いておくと、母さんは話を続けた。

「それは絶対に休めない、すごく重要な日だった。そこで失敗したら、あたしは会社にいられなくなるくらいの。あたしは迷った挙句に、自分の命をあんたに預けることにした。あんたを一人で置いていって、それが原因で死んだら、あたしも死のうって決めて出かけた。今思えば、とんでもないバカだったな」

 母さんはタバコを吸って、勢いよく煙を吐いた。

「でも、帰ってきてみたらあんたは死んでなくてさ、生まれて初めて生きてて良かった、って思ったよ。ま、結果論なんだけどね。で──何が言いたいかって言ったら」

 そこで言葉を切り、タバコを携帯灰皿に落として、母さんは僕を見据えて言った。

「今のあんたは、その時のあたしと同じような顔してるな、ってことさ」

「……うん、僕もそう思う」

 僕は心の底から同意して、そう言った。                     


半年以上前に書いたものなので、書いた時の心境など全く覚えていないのですが、今回公開にあたって少し修正をするまでは謎の解明をことごとく放棄していました。目的をなしたら他はどうでも良くなった。風呂敷を畳む意味も隙間もない、と。

そういう点が僕のスタンスであるとすれば、このだらしなく開かれた風呂敷の構図自体が、何かの表象として機能しているのではないかと思います。


そういうわけで、最後まで読んでいただきありがとうございます。

感想等ありましたら、ぜひよろしくお願いします。

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