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第五章 -3

 数分後、この一週間の僕たちの宿であり、「彼女」の十七年間の寝床であり、元僕の両親のものだった家に、僕はたどり着いた。

 錠は開いていた。郵便受けの二重底の下にあった鍵で解錠したらしい。

 僕はなだれ込むように、靴のまま玄関を上がる。先客も土足のようだし、構わないだろう。

 廊下の突き当り、物置部屋の奥、わずかにズレた床板。

 そのまま勢いで地下室へ飛び降りようとしたが、寸前で踏みとどまる。下手に刺激をして、衣桜を混乱させるのはまずい。僕はそっと床板を外して、梯子を一段一段ゆっくりと降りていった。床板を元の位置にはめるのも忘れない。

 衣桜は冷凍庫のあった場所にうずくまっていた。合鍵を床に擦りつけて、小さくキィキィと音を鳴らしている。その近くに広げた手記と放り出してある。開かれているのは、血のような赤黒い塗料でヒステリックに書かれた、最早文字と呼べるかどうかも怪しい文字が書かれている最後のページ。

「い……衣桜……」

 僕は恐る恐る、だができるだけ優しい声音で語りかけた。

 返事はない。僕の荒々しい息だけが、この地下室の静寂に響いている。

「衣桜」

 今度ははっきりと呼びかけた。すると、衣桜はゆっくりと頭を上げて、僕を見た。

 その顔に恐怖はどこにもなかった。

 ──呆れがあった。

「……この期に及んで、手記なんて書いてるのか」

「え……」

 意図の読めない発言をして、衣桜は軽く笑った。ナンセンスなジョークを口にして、少しばかりばつの悪さを感じたような笑い。

 それから笑いを引っ込め、滔々と語り始める。

「哲学者のヴィトゲンシュタインは、一次大戦の塹壕の中で『論理哲学論考』の構想をメモしていたそうだな。あの……『哲学を終わらせた』本を。お前はこの阿鼻叫喚の中、その手記で一体何を終わらせるつもりなんだ?」

「衣桜……?」

 僕は力なく呼びかけた。走りこんできて汗だくだった身体が、薄ら寒さを感じ始めている。

 返事はない。衣桜は突然、真剣な面持ちを作り、すっと立ち上がった。当惑する僕をきっと見据えて言う。

「哲学は終わらなかった──、ヴィトゲンシュタインは哲学に戻ってきたはずだ。俺は終わらせないために書いている。それ以外は……それ以外に、何があるっていうんだ」

 そこまで言い切ると、すっと、衣桜の表情が変化した。まるで、終わりの見えない映画を延々と見続けているかのような、気だるげな表情に。

「終わらせないために……か。実にお前らしいな……」

 衣桜は何もかもを見透かすような目で僕を見て、その名を口にした。

「……真輝」

 僕は──僕は金縛りにでもあったかのように、身動きがとれなくなった。

 僕は……真輝じゃない。僕は、中浦遼喜だ──、一瞬自分が誰だかわからなくなったが、わかった途端に身体が自由になった。僕は衣桜から距離を取るように後ずさる。

 衣桜はそんな僕を見て、また笑う。

「真輝、しかし残念ながら君が手記に書いてる文字は、もう君の知ってる文字じゃないし、俺の知っている文字でもない……仮に誰かが読んだとしても、幼稚園児の落書きとしか思わないだろう。なのに、書くのか?」

 自分の言葉で驚いたように、衣桜は表情を硬くする。

「……俺の書いてる文字が……俺の知ってる文字じゃない……?」

 衣桜の表情が、諦念に満ちた笑みに戻る。

「耳の聞こえない者は発音がうまくできないのと同じで……文字を認識できな人間が、文字を書けるわけがないだろう。俺たちは徐々に、何も認識できなくなりつつあるんだ」

 ──僕は、ただ呆然と衣桜の語りを聞いていることしかできなかったが、そこでようやく理解した。

 一人芝居だ。

 衣桜は、手記に書かれた内容を、一人で演じているのだ。

 演じることによって、あの手記を「読んで」いるのだ。

「誰にも読んでもらえないとわかっていて、それでも書くのをやめないか。まぁ、実にお前らしくて良い」

「京悟、お前が……お前がやったんだな?」

 衣桜──いや、『結京悟』役の衣桜は、うっすらとほくそ笑んだ。

「その通り。今、媛倉を舞台にして起こっている混乱は俺がやった」

「……京悟」

「手記に書くか。良いだろう、書けばいい。どうせもう、誰にもわからん」

『結京悟』は、嘲るように言った。

 こいつが、──やったのか。

 こいつが、たった一人で、あれだけの大災害を起こしたのか。

 呆然とする僕の前で、衣桜による、十七年前に行われた男の対話の上演は続けられた。

「お前の最初の問いに答えよう。今、何が起こっているか。一言で言うと、『自己の破壊』だ」

「自己の破壊?」

「それっぽく言えば『わたしの崩壊』だ」

 自己の破壊。わたしの崩壊。

 末野さんの話を思い出す。『長い年月を経て錯乱は沈静していき、同時に彼女の自己まで沈んでいった』。空白になった日鞍衣桜という存在。見つめ合い。刷り込み。視線触発。

「……お前は、自己というものをどう考える?」

『結京悟』が質問する。シンプルな哲学的な問いに、『広垣真輝』は眉をひそめる。

「……『俺』と思う、俺自身のことだ」

「『我思う故に我あり』ということか。じゃあ、その『我あり』というための材料は、どこから与えられる? それは、明らかに周りの世界からだ……そもそも、『お前』がいなければ『私』と区別する必要はないのだからな。自己というものの存在には、前提として『私』とは別の存在が必要となる」

 ──わたしがわたしで、遼喜が君じゃないとダメ。そうじゃないと、わたしはわたしじゃないもの。

 衣桜の言葉が蘇ってくる。衣桜はずっと、「わたし」の在り処に拘っていた……。

『結京悟』は話を続ける。

「俺の勤める『帆村製薬』は、精神病の細菌治療に着目していた。荒唐無稽に聞こえるかもしれないが、腸内の細菌が精神状態に大きな影響を与えることは、早くから知られていたことだ。俺がその研究チームに配属されたのはたまたまだが──妻と子を亡くしてからは、一層この研究に打ち込むようになった。それしか、逃れる道がなかったからな」

 結は事件の二年前に妻子を亡くしているから、研究に没頭していたのはこの二年の間ということになる。

「プログラムを施した細菌によって体内環境を変化させ、その副次作用としての精神状態の快復を目指した研究だったが……ある時、俺は実験用のマウスに対して、何の効果も引き起こさない細菌を開発した。それが後に『バベル』と名付ける細菌の原型だった」

「バベルの塔か……」

『広垣真輝』の呟きに、『結京悟』は肩をすくめる。

「ネーミングに割く余裕がなかったのさ……で、後に俺はその細菌を投与したマウスが餌を食べなくなるのに気づいた。細菌投与直後はきちんと食べていたのに。興味を持った俺は、そのマウスに対して幾つかのテストを行ったところ、出た結論が『外部からの刺激に反応するが、その価値判断が不能』だった。つまり」

『結京悟』はもったいぶるように間を置いた後、言った。

「周りの世界で起こっている現象を認知できなくなる。それが今、正に起こっていることだ。俺にも、お前にも」

 現象を認知できなくなる。

 それが、媛倉事件の時に起こっていたことだと?

 僕は身震いする──そんな、単純なことが原因で、いいのか? そんな単純なことなのに、どうして今まで解明されてこなかったんだ?

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