第五章 -2
「お久しぶりね」
静歌に通された部屋では、篠園さんが待っていた。この場所は応接間のようで、天板がガラスでできたテーブルを挟んで、ソファが向かい合わせになっている。
僕は静歌に促されて篠園さんの正面に腰を下ろした。ソファが柔らかく、やたら身体が沈んで落ち着かない。
「失礼します……」
静歌は篠園さんの隣に座ろうとしたが、篠園さんは鋭く手で制した。
「待って。あなたは席を外してちょうだい」
「え……でも」
「もう一度はっきり言うわ。あなたに席はない。下がって」
静歌は一瞬、狼狽した表情を見せたが、無理に押し隠すとそさくさと応接間から出て行った。僕はただ、それを黙って見ていることしかできなかった。緊張で心臓が爆発しそうだった。
僕と篠園さんだけが、この空間に残された。
篠園さんは僕を静かに見据えると、
「一度犯した失態を挽回する手段は限られているの……東村には各方面に対する信頼を失った責任を取り、今回の事件から降りてもらうことにしたわ」
「そ、そんな……」
「何か異論でも?」
ギロリ、と、篠園さんは目を眇める。相手が敵か味方か見定める、蛇のような眼差し。
僕はなんとか、その威圧に負けないように言った。
「静歌が最初に見つけた手がかりですよ……それなのに、関わることができないのはおかしいと思います」
「……あなたもその目で見たはずよ、東村の初期対応の手際の悪さを。被調査対象者の同意を得られていないにも関わらず得られたと虚偽を伝え、その結果、当社員、医療関係者、そして事件関係者へと多大な迷惑をかけた。かく言うあなたも、その迷惑を被ったうちの一人でしょ?」
「そうですが……でも……」
僕は食い下がろうとしたが、篠園さんの言いは呆れるほどに正しかった。ただ、その対処が身も蓋もないというだけで。
「でも──静歌が媛倉事件の解決に、情熱を注いでいたことは知ってますよね? だから、有休を消費してまで媛倉まで来たことを、知ってますよね? それなのに、こんな風に降ろすだなんて──」
何とか噛み付いた僕を、篠園さんはふふ、鼻先で笑った。
「情熱……ね。非合理なことがお好きな国民性だから、しょうがないわね」
脚を組み直し、篠園さんは続ける。
「私だって別に情熱とか、信念とか、そういうのをバカにしているわけじゃないわ。ただね、そういう非合理的な衝動を結果として求めることには、何の意味もないのよ──頑張ったから、苦労したから、必死でやったから、ハイ、『よくできました』……虫唾が走るわ。最低の褒め言葉よ、『よくできました』なんて」
篠園さんは吐き捨てるように言った。
「よく覚えておきなさい……情熱で、信念で、義理人情のため、友情のため、頑張って、苦労して、必死で、非合理な衝動を積み重ねて出来上がったものは、一点の曇りもない、全くの合理的な結果でなくてはいけないのよ。それを取り違えて、情熱とかいうものを結果に据えるのはやめなさい」
「……」
僕は何も言い返せなかった。
僕のこれまでの行動は、どれも非合理なものばかりだった。会ったこともない両親の足跡を追い、たまたま出会った女の子を助けようともがき、それで──何かを得ようとしている。
僕は媛倉で何を得ようとしている? 生きる許しだって? それは、合理的なものなのだろうか? 誰もが認める結果なのだろうか? それを得ることで、誰かが喜んだり助かったりするのだろうか?
わからない。きっと、意味なんてないんだろう。
それでも僕は、不安でたまらないのだ。僕は、僕が生きていて良いという証拠を見つけなければ、心配でしょうがないのだ。そうでなければ、何の謂れもなく突然一人ぼっちにされてしまうような気がして──怖いんだ。
「まあ、前置きはこれくらいにして……、これからのことについて、話し合いましょう。よろしくお願いします」
篠園さんの唐突な事務口調に、僕は現実へ引き戻された。
「これからのこと……」
「はい。衣桜さんは媛倉事件に関する、重要な証人です。ご本人の意向を汲み、中浦さんの媛倉滞在の間は調査に協力頂けないということになっておりましたが……明日、お帰りになられるのですよね?」
「……はい」
「ですので明日からは『ご意向通り』、弊社の調査にご協力をよろしくお願いします」
ご意向通り。──差し出される契約書を見つめながら、僕はその言葉を頭の中で転がす。
それはそうだ。僕が媛倉出身でなくとも、真相に少しでも近づき、明かされることを望んでいただろう。
でも、それは僕の話であって、最も意向を聞くべき人がいないじゃないか。
「あの、どうして衣桜がここにいないんですか」
僕は訊ねる。最終的に僕が契約書にサインするにしても、衣桜がいないのはおかしい。
篠園さんは、どういうことかわからない、という風に片眉を上げた。
「あなたの意志がそのまま彼女の意志になるのであれば、彼女が不在でも構わないでしょう」
「でも……それは公平じゃないと思うんですが」
「あなたがサインした後で同意を得れば良いでしょう……その際に、拒否されるのであれば当然こちらも代替案を用意します」
僕が先に署名をすれば、確実に衣桜が拒絶しないことを見越しているのだ。よく言えば安全策。意地悪く言えばやったもん勝ち。
そもそも僕は拒否するつもりは全然なく、衣桜をポストプロテスに保護してもらうのは良いことだと思っていた。だけど、しっかりと包囲されているようなこの感じは、正直言って居心地が悪い。がっちりと囲まれて、監視されているような──。
まぁ、いいや。僕は篠園さんからボールペンを受け取る。
「その契約書に書かれていることは、以前のものから更新されています」
篠園さんが言う。僕はボールペンの芯を出す。
「日鞍衣桜さん本人の身体並びに、証言、所持品は、弊社ポストプロテスが証拠材料として管理しますが」
僕は乙欄に僕の名前を記す。そのすぐ下に、日鞍衣桜と書こうとして、
「今回はそれらに加えて、現在解読中だという広垣真輝の手記及び読み下した文章も加えられています」
ペンを繰る手が止まった。「鞍」の字の途中で。
手記と、ノートも回収する?
ゆらり、と視界が揺れる。書きかけの文字が滲み──、まるで父さんの手記にある文字のように見えた。
……それは、ダメなのでは?
と、僕が言いかけた、その時。
部屋のドアが、すごい勢いで開いた。
「ダメ!」
衣桜だった。衣桜は父さんの手記を両腕で抱え込み、鬼気迫る叫び声を上げ、
「この本はわたしのものだから!」
駆け出した。ばたばたと、遠ざかる足音が聞こえる。
一瞬だったが、僕は見た。衣桜の顔は恐慌に染まっていた。
僕は弾かれたように立ち上がり、走りだした。衣桜の後を追うべく。背後から篠園さんとか社員の声が聞こえたが、どうでも良かった。
──あれが、媛倉事件で媛倉市民を襲った症状なんだよ!
初めて会った静歌をしてそう言わしめた、忘れもしないあの表情。
ポストプロテス営業所を出ると、剥き出しの太陽光が僕に突き刺さった。衣桜の姿はない。見失った。
でも、僕にはわかる。衣桜が行く先なんて、一つしかないだろう。
僕は迷わずそちらに足を向け、生まれて初めて全力で駆けた。
何が「大丈夫」だ、ふざけるな。父さんの手記が持っていかれることなんて、わかりきっていたことなのに、どうして今まで放っておいたんだ。どうして何もしなかったんだ。
……何もできなかったんだ。いま、僕は自分の無力さを、死ぬほど呪った。
急げ、急げ、急げ……このままでは、手遅れになる。
このままでは、媛倉事件最後の犠牲者が出てしまう。




