第八話 大疾走
四限の終わり、三分前。
時計の秒針が、真上に来た頃。
授業も終わりに近づき、教師が下らないギャグを飛ばして教室を凍り付かせている頃。
私は一人、異様なほどに興奮していて。
______上履き良し、制服良し、髪型良し、財布良し。
グッと拳を握り締めて授業終了を待つと、
まもなくして、それを知らせる鐘の音が鳴り響いた。
「起立、礼」
凛とした長髪の、眼鏡をかけた委員長の号令に合わせて、
クラス全員が立ち上がって、礼をした。
……その瞬間。
「しょーこちゃん、先、ご飯食べといて!」
あくびを浮かべて立ち上がった彼女に、私は弁当の包みを押し付けると、
それだけ言い残して廊下を目指して勢いよく駆け出した。
「え……ちょ、楓!?」
困惑した彼女の声が響くが、そんなこと気にしていられる場合ではない。
授業終了後まもなくの、まだ人気の少ない廊下を全速力で走る。
普段のあのごった返した廊下では出来っこない全力疾走。
今の、この時間だからこそできるのだ。
先生に見つかったら一発アウトのこんなこと、なぜ私がやっているのか。
そんなこと、一つしかないに決まってる。
ひゅうひゅうと嫌な音を立てる喉。
ぜえぜえと荒い呼吸も気に留めず私は足を動かし続けた。
……あと、ちょっと。
………この、目の前のドアを抜ければ……!
「つい……った!!」
渡り廊下の突き当りにある三段ほどの小さな廊下を一足で飛び降りると、
上履きと地面がぶつかった、派手な音が辺りに響き渡った。
はぁはぁと激しく肩が上下するのを落ち着かせると、私は少し得意げな顔で歩き出す。
私がこんな大疾走をした、ただ一つの理由。
そんなの、「岩崎慶斗に勝つため」しかない。
あの馬鹿野郎より先にここへきて、そしてこう言い放ってやるのだ。
「昨日のお詫びとして、私にジュースを奢りなさい!!」
生まれてから何度も聞いてきた私の声が、静かな校内へ響き渡った。
「わっ……、まさか声に出てたとは……」
心の中で言うつもりだった台詞が、実際に口に出していた時のあの恥ずかしさ。
人間ならば一度は経験したことのある、あの羞恥心。
居心地の悪いそれが、顔が真っ赤の惨めな私を襲った。
「ま、まぁ、いずれ言うつもりだったし、予行演習だから。
全然大丈夫、っていうか、誰も聞いてないじゃん!」
あはは、と一人で笑ってベンチへ倒れこんだ私。
すっかり油断しきった私の横で、ピッ、という無機質な音が鳴り響いた。
「はい、リンゴジュースで良いの?」
振り返ると、私を上から見下ろす慶斗君の姿。
彼の手には、二本のリンゴジュースが握られていて。
余りの羞恥心に真っ赤になる私に、彼は嘲笑を零す。
……彼の才能は、人を煽ることだ。きっと。
馬鹿にされたのが何とも気にくわなくて、
真っ赤になった顔を隠すように顔を背けながら呟いた。
「いっ、いや、別に私一本で良いんだけど。
これじゃ慶斗君に百円の借りっていうか……」
ちらりと彼の方を見つつ、困惑した表情でそう呟く私に、
彼は既視感のあるあの腹立たしい表情で言い放った。
「そうだよ、楓の百円の借り。だから、明日もよろしく」
「え? なんでわざわざそんな……」
余計グルグルと回りだす私の脳内。
そんな私を一瞥して、彼は単純じゃん、と笑った。
「百円貸したら、それ以上のものが返ってくるかもしんないでしょ?
そうしたら、その分おトクになるじゃんか」
楓は律儀だからね、なんて柔らかく微笑む慶斗君。
「なにそれ。馬鹿っぽい」
眉をひそめてツン、とこぼすと、彼はそうかもね、と呟き、真顔で視線を戻した。
「……あ、明日はジュースじゃないのが良いなー、なんて」
購買のパンを人かじりした彼が、屈託のない笑顔を浮かべる。
めんどくさ、と呟いてリンゴジュースに口をつける私も、なんだか笑えて来てしまった。
___なんとなく、それが彼の本心ではないことは感じ取れた。
それでも、どんな理由だとしても、これがずっと続けば良いのにな、なんて考えてしまって。
……慶斗君もおんなじ気持ちだったら、もっと良いのに。
途端、ピコンと鳴る私の携帯。
驚いてポケットからそれを取り出すと、祥子ちゃんからのメッセージが光っていた。
「友達? それ」
『まだ帰って来ないの? お弁当食べちゃうよ』というメッセージ。
私が頷くと、「そっか」なんて素っ気ない返事を返す彼。
「もう行くね、リンゴジュースありがと」
えへへ、と笑って顔の前でペットボトルを揺らしてみせる。
「明日、期待してるから」
ばいばい、と手を振る彼に、私も小さく手を振った。