第九十三睡 ニガサナイ
「何を……言ってるん、ですか、漢ちゃん……?」
「え……いや、何って……」
わたしも、漢ちゃんも、相手の言っていることが分からず、動揺したお互いの顔を見つめ合いました。
「伊沢先生……伊沢っちですよ! 不良三人組に怒る時は怖いけど、いつもパワフルで! 優しくて! 生徒のことを第一に考える、わたしたちの自慢の担任で……漢ちゃんも、今朝言ってたじゃないですか! “元気だけが取り柄みたいな熱い男”って!」
「あのさ、アンタ……寝てたんじゃないの?」
「寝て……た?」
わたしが聞き返すと、漢ちゃんの顔に笑顔が戻りました。
「そうだよ、アンタがボサッとして怒られるなんて、変だと思ったんだよ! アンタ、授業中に寝ちまってたんだよ! その時に見た夢で、その伊沢……ってのが出てきたんじゃないのか? なんてたって、アタシらの担任はずううううっと、“中原ちゃん”だろ?」
「中原……ちゃん……?」
そして満足そうにわたしの手を握りました。漢ちゃんの笑顔と正反対に、わたしの心の中は曇っていくばかりでした。
「違う……何を言ってるんですか! 中原先生は今日、ここに来たばかりで……! 目を覚ましてください、漢ちゃん!!」
「目を覚ますのはアンタの方だ!! 怒られたのが気に食わないからって、そりゃ中原ちゃんに失礼だろ! アンタいい加減に……」
「先生がどうかしましたか?」
「ひっ……!」
漢ちゃんとのやり取りで注意力が散漫になっていたわたしは、いつの間にか間近にいた中原先生に気付くことができませんでした。
「中原ちゃん! 杏菜、別に体調が悪いとかじゃないみたいだし、大丈夫ダってヨ!」
「そうですか……ご苦労様です、幹切さん。さあ、十諸さん、教室に戻って授業の続きをしましょう。みんな待っています」
「いやっ……離して!!」
わたしは中原先生の細い腕を慌てて払いのけました。
「あなた……誰なんですか! 漢ちゃんに何をしたんですか!!」
「……何もしていませんよ。先生はただの、十諸さんたちの担任です。昔から……ね」
「違うっ!!」
わたしは先生の横を通り抜け、校舎へとひた走りました。
わたしが建物の中に入った瞬間に、一時限目の終わりを告げるチャイムが鳴りました。同時に校内が騒がしくなります。
わたしは自分の教室に戻ってきました。
「ぬおっ、十諸氏、帰ったのか! 何処に行っておったのだ? 急に教室を飛び出していくものであるから、心配したではないか!!」
「志恣……さん……はあ……はあ……!」
一番後ろに座っていた志恣さんが、心配そうにわたしに話し掛けてきました。
「疲弊しきっておるではないか! 事情を話してみよ!」
「中原先生……が……危険なんです、あの人! 皆さんに、言って、早く、逃げないと!!」
「落ち着け落ち着け! 中原教諭の、何が危険と申すか!」
「何って……志恣さんも見たでしょ!? 中原先生の、あの恐ろしい顔……先生は絶対に悪い人なんです! だから……」
「お主……中原教諭のことを悪く言うのは許さぬぞ」
顔に影が差した志恣さん。
「ちっ……違うんです! 本当に彼女は……」
「シネ」
「っ―――――!!」
次の瞬間、志恣さんの顔は、世にも恐ろしいものになっていました。
白目をむき、口が半開きになり、ケタケタ、ケタケタと、直前の台詞とは反対に、嬉しそうに、全身を震わせて笑っています。そして、彼の後ろから、まったく同じような顔をしたクラスメートたちが、わらわらとわたしに近付いてきました。
「ナカハラセンセイヲ、ワルクイウ、ヤツ、ハ、シネ」
「コロシテヤル、ナカハラ、センセイ、ノ、テキ」
その中に、正気の者はもはや存在しませんでした。
「いや……来ないで!! 来ないでぇぇっ!!」
「ここまで見せたら誤魔化す必要もないですね」
気が付くと、中原先生がわたしの真後ろに立っていました。
「この校舎の中にいる人間は、全て先生によって洗脳されました。最初は先生が“元からこの学校にいた”という記憶が刻み込まれ、だんだんと先生に忠誠心が芽生えてきます。そして最終的には先生の言うことしか聞けない、人形のようになってしまうのです」
耳元で認めたくない真実を囁かれ、ショックを受けました。
わたしが出ていってすぐに、皆が洗脳されたとしたら、あの時様子が変だった漢ちゃんも既に……。
「ここにはもう、十諸さんの味方なんていません。先生はこの学校中に特殊な結界を張り巡らせましたから、外に出ることも出来ませんし、助けが来ることもありません。諦めて、ここでシニナサイ」
「やめて……やめてよっ!!」
混乱したわたしは中原先生を突き飛ばしました。
「ナカハラ、センセイニ、ナニヲ、スルンダ……!!」
「ニガサ、ナイ……!!」
どこに逃げればいいのか、分かりませんでした。
中原先生の言った通り、他の生徒も先生も、同じような状態でした。学校中がわたしの敵となったのです。絶望したわたしは、がむしゃらに校舎内を駆け抜け、襲い掛かる生徒たちを紙一重でかわし、奇跡的に無傷でグラウンドに到着しました。洗脳された生徒たちの動きが遅かったことも幸いしました。
先ほどは見つかりやすい場所と言って避けていたグラウンドの、体育倉庫に目がとまりました。
追っ手も来ていないし、隠れるなら今しかないです! 体力が底をついたわたしは遠く離れたその小屋まで最後の力を振り絞って疾走し、飛び込みました。
内側からしっかり鍵をかけます。ここならひとまずは安全です。中に誰かいたら詰みですが……薄暗い中を目を凝らして見渡します。
「誰だ!!」
急に聞こえた野太い男の声に、わたしは自らの死を確信しました。しかし、それは今逃げながら聞いてきた生徒の呻きにも近いそれとは違った、ハッキリとした自我を保った人間の声でした。
「あ? おめえ……十諸か? こんなところに何の用だ?」
「そんなにゼエゼエして、鬼ごっこでもしてるでヤンスか?」
「でもちょうどいいでごわす! 腹が減ったから、何か買ってきてほしいでごわす!!」
「そ、その後半二人のキャラ作りの露骨さ、まさか、あなたたちは……不良三人組!!」




