第九十二睡 サヨウナラ
授業中、わたしは先ほどのピッタくん……もとい、人形頭さんとのやり取りを思い出していました。
結局、あの後すぐに始業のチャイムが鳴り、話は終わってしまいました。
リルさんと戦っていた所を見ていた? いったいいつから、どこで? 街の住民はほぼ全員、リルさんの魔力で石にされたはず。その中で人形頭さんはその力から逃れ、誰にも気付かれない所でわたしたちのことを見ていた。
リルさんは言っていました。わたしや杏菜ちゃん、俊くんを除く「住民全員の記憶を消しておいてあげる」と。もし本当に人形頭さんがあの場に居合わせていたのなら、どうしてリルさんのことを覚えているんでしょうか。
やはり彼女も、何か特別な……。
「……さん。十諸さん」
「あっ……はい!」
中原先生の冷たい声に名前を呼ばれ、わたしは反射的に立ち上がりました。
「今先生が読んだ英文を訳してください」
「え……えっと……!」
まずい、考え事していて全然聞いてなかった……! わたしは慌てて教科書を闇雲にめくります。
「杏菜、黒板黒板!」
漢ちゃんが隣から小声で何かを言ってくれていますが、混乱したわたしの頭には入ってきませんでした。
「……もういいです。授業を真面目に聞く気がないなら退出しなさい」
「す、すみませんでした……」
やってしまった。勉強面でも生活面でも、絶対に怒られないようにって、今まで頑張ってきたのに……。
わたしは生徒会長として、部長として、常に生徒たちの見本とならなければいけないと、常に細心の注意を払ってきました。授業中にボケッとして指名されても答えられないなんて失態、初めてです。
わたしに限らず、このクラスの生徒は真面目な方が多いのです。もちろん、漢ちゃんもですよ?
ただ、特別に先生方からマークされている、ある三人の男子が、このクラスにいるのです。授業をサボるのは当然のことのように繰り返し、タバコや飲酒、先生への暴行など、とにかく手がつけられない不良三人組。真面目な生徒で構成されたこの教室に先生の怒号が降り注ぐとすれば、決まってその三人の誰かです。本当に困った人たちで、わたしを含む全員が手を焼いています。今も教室には空席が三つ。どこをほっつき歩いているのやら。
そんなわけで、まさかあの三人を覗いた、しかも十諸がお叱りを受けるなんて、みたいな空気が絶賛蔓延中なわけですが。はあ、早くこの授業.終わらないかなぁ……。
先生が黒板に書かれた英文に、日本語を書き添えていきます。細く、美しい字でした。
“I can no more get back to the normal daily life than a man can fly.Good bye my peaceful days. ”
印刷かと疑いたくなるほどピチッとした単語の羅列を見て、その意味が頭の中で完成していくとき、冷や汗が背中をゆっくり伝って落ちていきました。
「では訳していきます……人間が飛ぶことができないのと同じように、私が普通の日常を取り戻すことなんかできない」
先生はわたしから一瞬たりとも目をそらさずに、書いた日本語を読み上げていきます。術でも掛けられたかのように、わたしも視線を先生から外すことが出来ませんでした。
「サヨウナラ……ワタシの平穏ナ日々よ」
その時、中原先生は初めて笑いました。目を見開き、口を裂かんばかりに両側につり上げ、白い歯を見せて、ニンマリと、ただわたしの方を眺めるのでした。ただただ不気味な、その笑みで。
わたしは椅子を素早く引いて席を立ちました。それは後ろにいた志恣さんの机に当たり、物凄い音が鳴りました。
「ぬおおお!! い、いきなりどうしたのだ、十諸氏!?」
次の瞬間、わたしは逃げ出していました。人の視線を掻い潜り、教室のドアまで辿り着くと、それを乱暴に開けました。
一瞬だけ視界に入った中原先生は、まだこちらを見て笑っていました。あの顔のままで。
「逃げなきゃ……あの先生、普通じゃない……!」
本能的に感じたことを口走りながら、わたしはシンと静まり返った廊下をひたすらに走っていました。
恐る恐る後ろを振り返ります。どうやら追ってはきていない様です。しかし、わたしは恐怖を拭い去ることができず、足を止めませんでした。
やって来たのは体育館の裏でした。逃げ場のない屋上よりも、建物から丸見えのグラウンドよりも、都合がいいと感じたからです。
飛び出そうな心臓を両手でおさえ、その場にしゃがみこみ、肩で息をしながら呼吸を整えます。
静かすぎる、わたしの周りの世界。
タッタッタッタッ……
「っ………きゃっ!!」
真っ直ぐにこちらに近付いてくる、一つの足音が、その世界に響きました。逃げようと思いましたが、恐怖で足がもつれ、わたしは転んでしまいました。
しまった……早く逃げなきゃ、早く、早く……!
「あっ、いたいた……って大丈夫か杏菜! アンタ、何してんだよ!?」
「え……漢……ちゃん……?」
予想外の人物が現れ、わたしは唖然としました。漢ちゃんはわたしに近付き、心配そうにわたしの顔を見てきました。
「おいおい、どうしたってんだよ、杏菜? いくら寝不足でボーッとしてて怒られたからって、授業を抜け出すなんて……」
「ち、違う! 違います! そうじゃなくて……とにかく杏菜ちゃんも逃げましょう! 中原先生は危険です! 伊沢先生の代わりなんて嘘! このままここに居たら何をされるか……」
「ん……? ちょっと待てよ杏菜」
漢ちゃんはわたしの言葉の“ある一単語”に対して、眉をひそめて首を傾げました。そしてわたしと同じ高さまで腰を落とし、わたしの目をしっかりと見て、こう聞いたのです。
「誰だよ……伊沢先生って?」




