第八睡 ドーナツの旨味のピークは最初と最後
固い地面に降り立った俺は、すぐさま後ろを確認した。穴らしきものは、もうなかった。いや、俺にはもう見えなくなっていた……と言うのが正しいのだろうか。とにもかくにも俺は、タラ子の住む世界に無事に到着できたらしい。異世界とはいかなるものか。俺が住む世界とどのような違いがあるのか。確認のため、俺は前を向いた。
真っ先に飛び込んできたのは……木だ。うん、どこをどう見ても木しかない。もといた世界と何ら変わっちゃいない。しかし、しっかりとした変化はあった。
「あっついな……おい」
素直な感想を述べる。先ほど山に沈みかけながら俺を見送った真っ赤な夕焼けは、空高くから熱と光のシャワーを豪快に降らせ、俺を出迎えてくれた。やっぱりどこの世界にいても、お前はアツい奴なんだな、太陽よ。
天気は見事な日本晴れ。日本じゃないけど。何時間かの時差はあるものの、季節にそう差はないらしく、さっそく体から汗が吹き出てきた。ジャージで良かった。ピューエントの中ではもとの世界へ帰りたいと言っていた俺は、わがままにも今度は光もなく涼しかったピューエントの方が恋しくなった。
「ダメですよ」
肩がビクッと跳ねた。おお、怖い怖い。心配しなくても、もう見えないって。
「こっちに来てください。ここ、山の頂上近くですから、この国の全景が見られますよ」
俺は手招きをするタラ子のもとへと、気だるそうに近付いていった。そして隣に立ち、その「国」とやらの景色を見渡した。
だが、そこに映っていたのは「国」とはお世辞にも言えないくらいにこじんまりとした「逆ドーナツ」だった。
中心部は、ここから見ただけで拒絶反応を起こしてしまうほどに夥しい数の建物が密集している。恐らく人の数もとてつもないだろう。反対に、周辺にはぽつりぽつりと民家らしき小さな家があるだけで、非常に物寂しい。でもそこがいい。中心街の人々が周辺地域に移動することで起こる“ドーナツ化現象”とは、見事に対をなした構造だ。
過密っている中心部の更にド真ん中には、自分を中心に世界が回っていると思ってそうな立派な白い城らしきものが建っているのが見える。ここから見ても圧巻だ。おそらくあれが国王の城で、周りの過密エリアは王都と言ったところか。
過疎っている方は、ゲーマーアニオタにしては視力に若干の自信がある俺でさえ、目を細めなければただの空き地に見えてしまうほど。
更にその周りを覆うのは、夏の日差しを存分に浴びて育った、青々とした山ばかり。おそらく俺たちが立っているのもその一部分だろう。この国をあえて分かりやすく言い表すなら……「穴の部分が一番豪華なコーティングで完全に塞がれたドーナツを、元気なコケの上に落としちゃった」みたいな感じだ。もうそれドーナツじゃないけどね。色んな意味で。
「なんつうか……個性的だな」
「さんざん時間をかけて見ておいて、感想はそれだけですか。これで将来、詩人になる道は潰えましたね」
「もともとなる気ないっつーの」
「まぁとにかくです。これがあたしの国、レシミラ小王国です。では早速、山を降りて王都の方へ行ってみましょうかね」
あたしの国て。まあとにかく、ここでしばらく暮らしていかなければいけないわけだし、暮らしに不自由しないためにも何がどこにあるか、くらいはざっくりとでも把握しておいた方が良さそうだ。
「でもまた山道を歩くの面倒だから羽」
「無理です。下りなんで歩いてください」
気持ちいいくらいの即答。俺は露骨に肩を落として歩き始める。気だるさという大荷物を背中に背負い、足取りを重くしながら。
「うわっ……何これ、なんかキモいの踏んじまった」
進んで数歩、俺は赤い草のようなものをグシャリと潰してしまう。その直後、血しぶきのようなものが俺の裸足の右足にベッチョリと付着した。ていうか俺、なんで裸足なの。せめて玄関から出発すりゃ良かったのに。靴とか売ってるのかな?
「あ、それチモドキソウです。その名の通り、踏むと血みたいな液体を一気に噴出します。その液体、なかなか取れないんで注意してください」
「事後警告かよ。どうすんのこれ」
「大丈夫ですよ、そのうち何とかしますから」
んないい加減な……。説明からして毒とかはないようだし、とりあえずは放置でも問題はなさそうだけど、なんか気持ち悪い。
「この世界にはあなたの知らない生き物や食べ物がたくさんあるかも、ですよ。特に今の時期、ワンキルザンコクグモとかには要注意です」
「何その一文字たりとも無駄にすることなく人に底知れぬ恐怖を植え付けてくる名前。刺されたら絶対にヤバイやつじゃん。俺裸足なんだけど」
「大丈夫ですよ、あなたが刺されても、あたしがあなたの分まで強く生きますから」
「デジャブだわ。俺の屍を踏みつけて強く生きたすぎだろあんた」
そんな中身のない会話をしている間に、俺たちは山を降り切り、ドーナツの生地部分の野原に到着していた。民家は何十秒に1軒ぐらいのペースでしか存在せず、日向ぼっこには最適な草の生えた野原がどこまでも続いていた。こっちでの暮らしがある程度まで落ち着いたら、毎日ここでゴロゴロのびのびと過ごそう。きっと夢心地だろうな。楽しみが1つ増えた。
これからベチャベチャにコーティングされまくったドーナツの穴の部分、王都に向かうわけだ。やれやれ、体が持つか不安だな。