第七睡 転移っていうか移動
中は思っていたよりも浅かった。タラ子は俺を連れてピューエントの入り口に飛び込み、すぐにシュタッと忍者のように着地した。中は外から見た通り真っ暗だったが、さっきまではなかったはずの、水色を更に薄めたような頼りない色をした一本の道が、どこまでも先へと続いていた。それはボーッと薄暗く光っており、なんとなく精神的不安を与えるものだった。
後ろを見ると、飛び込んでから一歩も歩いていないにもかかわらず、もうその穴はなかった。ここに来る途中でさんざん浴びたはずの夕日がいとおしくなる。
タラ子は俺の首根っこを掴んでいた手を離した。
「随分とまあ、ぞんざいに扱ってくれるじゃないの。いくら俺にやる気がないとは言ってもさ」
「あら、あたしはあなたを信頼していますよ?きっとあたしが命の危機にさらされた時は、全力で助けてくれると思ってます」
「そうかい。まあ期待すんのは自由だけどさ。こんな一高校生以下のロースペック二次元オタクにできることなんざ何もない。荷物持ちもロクに任せらんないかもだよ?」
「だからこそ、ですよ」
俺には分からない。なぜ自分なのか。タラ子の発言から推測するに、抽選で無作為に決まったとというわけでもないらしい。俺でなければならない理由、俺にしかない特別な要素が、おそらく存在するのだろう。とうの本人がそれに気付いていなければ宝の持ち腐れな気もするが。
そう言えば「世界を救うには無気力が必要」とかなんとか言ってたな。まぁそんなことはこれっぽっちも信用しちゃいない。何かの冗談だと思ってる。でも、俺の他の人から抜きん出ている個性っていったら、もうそれぐらいしかないわけだが……。
「そいじゃ、行きましょっか」
俺はゆっくりと光の道を歩き出したタラ子の後に続いた。なんか歩きにくいな。
「あぁ、この道は一本道ですからお節介になるかもしれませんが、一応言っておきますね。道を少しでも外れたら奈落に真っ逆さまです。着地点はなく、ずっとずーっと、下に落ちていく恐怖を死ぬまで味わい続けることに」
「ちょっと手ぇ繋いでいい?ねえ?」
俺に背を向けたまま歩き続けるタラ子から淡々と放たれた恐ろしい言葉に、俺は震え上がった。考えるだけで背筋が凍る。深い深い闇へと吸い込まれていくが決して終わりはない。その中で少しずつ、少しずつ、自らの肉体が衰弱していくのを感じながら、誰にも見届けられることなく死んでいく。残酷極まりない。俺はつい内股へっぴり腰になってしまう。急に道がとてつもなく細くなったように感じる。
「まったく、情けないですね……お忘れですか、あたし飛べるんですよ。もしあなたが落ちてしまっても、あなたの分まであたしが強く生きます」
「助けますよ、じゃないんだそこは。飛べるのくだりいらないだろ」
俺はまだ、いまいちタラ子の思考が理解できない。本当に彼女は安心なのだろうか。杏菜の言う通り、少しは疑いの目で彼女を見た方が良いのではないか。ここから先は俺の知らない世界。目に見える全てが初めましての世界。ほんの少し、1ナノぐらいは気を引き締めておいた方が良さそうだ。
「ていうかさ、異世界に行くにはそれなりの準備が必要なんじゃないの?」
「準備、と言いますと?」
タラ子がやっと足を止め、クルリとこちらを向いて聞き返した。相変わらず人形のように無表情、無機質、無気力な顔だった。色白な肌が両側の道からの薄明るい光に照らされて、青白さを帯びていた。
「いやね……マンガとかゲームとかでは、主人公は目を瞑って開けたら異世界に、とか、寝て起きたら異世界に、とか、不慮の事故で死んで生まれ変わったら異世界に、とか、そういういきなり異世界展開ドーンな感じがほとんどなわけよ。でも俺はどうだ。今まさにこうして異世界への道を一歩一歩踏みしめて歩いている。おまけに家でもあんたと結構長いこと、話をしてたし。じゃあさ、家で色々と必要そうなものを準備する時間くらいはあったんじゃないか、と。こんな上下ジャージ姿で、持ち物も慌ててポケットに押し込んだ携帯電話だけでなく、もっと身支度をしてから出発できたんじゃないか、と。俺はそう思っとるわけだ」
「あなたの世界での必要なものとやらが、あたしたちの世界で役に立つとでもお思いですか? 例えば何を持っていくつもりだったんですか? 通貨が違うから財布は役に立たない。電波がないから携帯電話も使えないんですよ?」
「え、マジで? 携帯ムリなの?」
俺は確認のため、ポケットから慌ててスマホを取り出す。そりゃこの手の展開では携帯が“圏外”になるのはお約束だけども……。
電源を入れると、俺の予想していた通りの二文字が画面右上に出現した。
「くそっ、やっぱり“論外”か───“論外”!?」
どういうこっちゃ。初めて見たぞこんな表示。こんな異空間丸出しのところで携帯を開こうなんていう俺の頭の出来を評価しているのか。こんな所でエクスクラメーションマークが使われてしまった。本当に動揺した時にしか大声は出さないつもりだったのに。
「……気が済みましたか? 所詮、異世界は異世界なんですから、割り切らないとダメですよ。元いた世界と完全に同じような生活ができたら、それはもう“異世界転移”じゃなくて“旅行”です。カテゴリー変更です」
タラ子が諭すように言ってくる。なんかとんでもなくメタい話をされているような気がする。つかこれも“転移”とはちと違うと思うんだが。
「じゃあアニメは? ゲームは? マンガは? 俺の心を満たしてくれる娯楽の品々は?」
「あいきゃんとあんだあすたんどじゃぱにい~ず」
「帰る」
最悪スマホがあれば、アニメもマンガも見られるし、ゲームもできる。そう考えていた俺は、タラ子の反応についつい膝をつきそうになった。だが挫けている暇はない。今は少しでも後ろに戻らなければ。俺は軍人のようにキビキビと後ろを向き、歩き始める。娯楽ゼロの生活なんて地獄だ。やってられるかっての。
「背中、向けていいんですか?」
「っ───」
とてつもない殺気が背後から感じられた。雷に撃たれたかのような衝撃が背中を襲う。それはすぐさま恐怖に変わり、俺の体の内側へぬるりと入り込んでくる。頬を冷えた汗が滑り落ちる。俺は急いでタラ子の方に向き直った。しかしタラ子はその場から一歩も動いていない。
何だよ今の……もしもあのまま戻ろうとしたら、俺は……。
「ごちゃごちゃ言ってないで、先に進みますよ。もうすぐ着きますから、ね?」
「あ……ああ……」
従うしかない。戻ることは、もう許されない。
その後俺たちは、出口が見えるまで一度も言葉を交わすことはなかった。「もうすぐ」と言われたはずの道のりが、永遠と言われるほどに長く感じた。
そしてその時が来た。
「見えますか?あの円が出口です。お疲れさまでした」
「いよいよあんたの世界にご到着ってわけか……三日分くらい歩いた気分だ」
「そうですか。残念ですが、着いたらもう少し歩いていただくことになります。ピューエントの穴はあなたの世界と同じく山の上にあります。そこからあたしの家まで、結構ありますから」
確かなる絶望。しかし俺は何も言わなかった。
こうして俺は、俺たちは、ついにピューエントを抜けたのであった。
皆さんは異世界に何か1つだけ持っていけるとしたら何がいいですか?
次回はタラ子の世界をぶらり旅です。