第七十四睡 どんぶらこ、どんぶらこ
むさ苦しい王都を抜けた先には川が広がっていた。やれやれ、人波に流されて死ぬかと思ったが……素晴らしい、美しすぎる。俺の心のように清らか……って言おうとした途端に鳥が水の中にフンを落としました。無情。
人里から離れ、山を入って少し歩いたところ。タラ子に場所を聞いていたとはいえ、無事に着けるか不安だったが、えがったえがった。方向オンチの称号は俺には勿体ないようだ、と道に迷ったせいで殺された男が言ってます。
話に聞いていた通り、そこは楽園だった。黄緑色の鮮やかな毛布のようにフワフワとした草が、見渡しきれないほどずっと奥へ奥へと続いている。俺が行った天国より、なんか天国っぽいな。
「さすがにこんな平和な空間に魔物は出ないだろうな」
フラグにしか聞こえない台詞。レイジネスは持ってるし、大丈夫っちゃ大丈夫だろうけど……。
「さてと、そんじゃ洗濯タイムといきますかな」
俺は持ってきたジャージを川に浸した。歪んだ服の像が鮮明に見える。よほど水が澄んでいるのだろう。俺の心のように……って言おうとした途端にそこそこデカい虫の死骸が流れてきた。分かったよ、もう汚れてるってことでいいよ。
こうして地面に腰を降ろして川で洗濯をしていると、思い起こされるのはただ一人、桃太郎のおばあさんしかいないだろう。洗濯をしていたら川から大きな桃がどんぶらこ、どんぶらこ、と。
長年、日本の御伽話の代表として語り継がれてきた桃太郎。それを聞くことは、もはや一種の通過儀礼とさえ言えるのではなかろうか。最近になって「この部分は論理的に考えておかしい」「ここの矛盾はどう説明するのか」と、鋭いツッコミを入れる者が徐々に現れてきたが、それは野暮というものだ。長い歴史を刻んできた事物のあら探しをしようだなんて愚かな行いは、俺は好かないな。誰でもフィクションだって分かってるんだし、わざわざ茶々を入れることもないだろうに。
余談だが、俺が物心ついたばかりの頃、お袋が“バイオレンス昔話”なるものを毎晩聞かせてくれた。言うまでもなくそれは子どもが寝る前に耳に入れていいような代物ではなく、従来のストーリーを、上で述べた輩とはまた違った方向からぶった斬るような、過激な内容だった。“犬は鬼の足を食い千切り咀嚼しながら、今までに見せたこともない幸せそうな笑みを浮かべました”の部分で幼き俺はとうとう泣き叫んだのを、昨日の事のように覚えている。“咀嚼”の意味も知らないのに号泣した。それから暫く犬恐怖症になった。しかし何故だか毎晩楽しみにしてしまう、中毒性のある話だった。もう一回、聞いてみてぇな。
まあ、先ほど述べたように御伽話なんてのはフィクション。そう割り切って楽しむことに意味がある。現実は現実で、フィクションが介在する余地なんてないんだ。まあ、今こうして天使に連れられ異世界に来てしまっている俺が言っても説得力は皆無だが。
でっかい桃が流れてくる、なんて、いくら異世界でもあるわけが……。
「ん?」
水の流れが僅かに変わった。本当に僅かだが、目に見えるほどの変化。俺は嘘だろ、と心の中で呟きながら川上を見た。
何やら大きな物が確実にこちらに流されてきていた。こちらに向いているのは、足の裏だった。人間……だよな。俺は洗濯物を引き上げ、それがこちらまで辿り着くのをひたすらに待った。
だんだんと、その全貌が露になってきた。体を覆い尽くせそうな立派なマント、ポラリスさんを彷彿とさせるような荘厳な鎧、頭から生えた二本のツノ。その全てが漆黒に染まっていた。
どう考えてもこの穏やかな風景に不釣り合いすぎる格好をした男に、俺は戸惑いを隠せなかった。
と思いきや、顔は平和を絵に掻いたような安らかなもので、長い睫毛をカーテンのようにして、すやすやと眠っていた。
「タンマ……ちょっと待ってくれよ、おいおい。もしかして……」
ツノが生えていることからして人間じゃない。人間の姿をしていることからしてベスチャやメダイオじゃない。それに、相手は寝ているというのに、このただならぬ悪寒は何だ? ゴバーネイダー……いや待て、ひょっとして、ひょっとすると、ひょっとしたら……。
「これ………魔王じゃね?」




