第百四睡 おたふく風邪と思春期
ここは、どこだ。
天国か? それともそこまでの道中か?
はて、前回は急だったからよくは覚えていないが、天国に、あるいは道中に、こんな不快感あったっけか?
臭い。何か変な匂いがする。俺が吐いたものの匂いか? だとしたら俺は今、地に伏していることになるんだが……何かがおかしい。
こう、感覚的に、頭が下に向けられているような気がする。言うなれば逆立ちの姿勢。
誰かに足を持たれている。苦しくて息ができない。周りは水なのか? 変な匂いのするドロドロした水……。
ま、まさか……これは……!
目を開ける。世界は濁った緑色だった。俺はその中心にいた。
これは天国なんかじゃない。天国にこんな地獄みたいな光景が広がっていてたまるか(まあどこぞの大天使さまには地獄みたいな扱いしかされていないけれど)。
俺は生きている。何故ならこの緑色の世界に覚えがあるからだ。
俺はこの世界の……創造者なのだから。
「がばばごごごごごががががごごがごごばばぼぼぼ!!!」
「あ、おはようございます勇者さん。眠気覚ましにあと十秒いっときましょうか……いいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいちいいいいいいい、にいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい、さああああああああああ」
「げ、げべえ………がごごごぼぼっ!!! ぼぼぼばばばぼぼっ!!! がっ……」
復讐されている。全く同じやり方で、俺は、タラ子から、復讐されている。目覚めたばかりなのに気絶しそうなんですけど。
足の方からタラ子の間延びしたテンカウントが聞こえる。俺は足をばたつかせて脱出を試みるも、体が弱っているせいか、すぐに力が入らなくなった。
そんな俺のだらんとした足を、タラ子が軽々と引っ張りあげた。空気が俺の口に一斉に駆け込んでくる。目の前には真っ黒な微笑をたたえたタラ子の姿。
「冗談ですよ、スリーカウントで勘弁してあげます。あたしと同じお風呂に入ることができた気分はどうですか? 最高ですか? ミドリムシさん……あ間違えたクソムシさん」
「ああ、いいお湯だったよ。あと訂正するならちゃんとしような。つかテメエこの野郎、どうしてくれるんだこの服。一着しかねぇんだぞ畜生め」
「もともとドブみたいな色のジャージなんですから、別に良いじゃないですか。あたしなんてセーラー服ですよ。真っ白だったんですよ。それが今はこの様ですよ」
「お前は戦闘中に寝てたっていう、ちゃんとした罪があるだろうが。ミュガナッチェの魔術のせいで地獄を見るだけ見切った末に気を失っただけで、怠慢なお前と同じ罰を受けた俺の方がダントツで可哀想だっての」
最近、こいつとよく言い争いをしているような気がする。端から見れば本当にどうでもいい掛け合いだろうが、俺にとっては負けられない戦いなんだ。一度でもこいつに負けてしまえば、もう主導権を握られっぱなしになるだろうから。
「てか、こんな事してる場合じゃねぇだろ。アイツは、ミュガナッチェはどうなった?」
タラ子は俺を地面に降ろすと、右側を見た。
そこには、このクソ暑い季節に不似合いな、大きい氷の塊がどんと置かれていた。その中には白目を剥いた氷付けのミュガナッチェ。幾重にも積み上げられた氷は、その一つ一つが結晶のような形をしており、まるで満開の花のように美しかった。“雪花の牢”とはよく言ったものだ。
「お前……そうだ、確か魔法陣っぽい物の上で、詠唱みたいな奴を……」
「失神寸前だったとはいえ、えらくアバウトな記憶ですね。魔法陣っぽい物とはコレですか?」
タラ子が親指を下に向ける。だから何でそんな物騒な指の使い方しか出来ねぇんだよ。
先程、青白い光を放っていた魔法陣。すげえ、実物を見んのは初めてだが、とにかくカッコいい。アニオタ心をくすぐる。
「魔法陣も詠唱も、あたしの力を極端に高める働きがあります。血が必要で指を切らなければならないので、あまりやりたくないんですけどね。ミュガナッチェさんのような強敵に、力を出し惜しみしている余裕はありませんでしたから。多少時間は掛かりましたが、彼はもう死にました。あなたがピンピンしている事からも確実です」
確かに、あの二度と食らいたくねぇ魔術が解かれている。
でも、何か引っ掛かる。あの男が、俺にトラウマになるほどの恐怖を植え付けたミュガナッチェが、こんなにも簡単に……慢心が招いた死だろうか。
それとも、タラ子はそれほどまでの高みに位置しているのか? よく考えたらさっきミュガナッチェが初めて、それも異常なほど焦り始めたのは、タラ子を見てからだ。確かに俺は今までタラ子を一番近くで見てきて、こいつの強さと恐ろしさは誰よりも心得ているつもりだ。
だが、いくらタラ子でも、ミュガナッチェには多少なりとも苦戦を強いられると踏んでいた。敗北の可能性も十分に考えた。
それがこの有り様。たった一撃、いやタラ子にとっちゃ魔方陣書いたり詠唱したりで大変だったんだろうけど、こんな一瞬で勝負がついちまうとは、さすがに思わなんだ。
「タラ子、お前ってさ……実はメチャクチャ凄い奴なんじゃねぇの? 雷魔法だけでなく氷魔方まで使えるなんてよ」
「なに急に褒めてるんですか、気持ち悪い。自分だけでなく他人まで吐瀉物まみれにする気ですか」
「別にまみれてないんですがそれは。んで、これからどうするっての?」
タラ子は自らが出した氷の塊を虚ろな目で見つめた。
「ゴバーネイダーと、それに四天王筆頭様と対峙してこれだけの被害で済んだのは奇跡でしたね。ですが奇跡はあくまでも奇跡であり、何度も続きません。気を引き締めて、先に進みましょう。民同士の争いも、もう起こらないでしょう。そこの氷付けにされた方が、命の尊さというものを教えてくださいました。素晴らしい“ゲーム”によって……ね」
うぜえ。けど言い返せない。こいつが言ってることは全て本当の事だから。またしても俺は、何の活躍もできなかったようだ。もう全部あいつ一人でいいんじゃないかな。
「ブス姫とかポラポラはどうするよ?」
「ブス姫とルシュアさんはもともとここの人でしょう ?“民たちの争いを止めろ”というミッションは遂行しました。ここに用はありません。ポラポラさんを探し出して出発しましょう」
淡々としたタラ子の言葉。悔しいけど安心感が半端じゃない。“相も変わらず”弱い俺は、タラ子におんぶにだっこだ。悪態ばかりついて、借りばかりが積み重なっていく。
くそっ、気に食わねぇ。こんな適当な奴に護られてばかり……まったくもって気に食わねぇ。
「次こそは俺が護ってやるからな」
あ、あれ?
今、俺は何て言ったんだ?
“俺が護ってやる”って……。
これじゃまるで……。
「っ……! な、何してるんですか? 早く来てください。おや、少しばかしお顔が赤い様子ですが……おたふく風邪ですか?」
あれ、思ってたのと違うリアクション。“吐き気が止まらないので、三秒以内にくたばってくれませんか?”とか言われるかと思ってたのに。だが今は普通に流されるのがかえってムカつく。
「ちっ……何でもねぇよ、うるせぇな。お前こそ、急に落ち着きなくなったな? 思春期か?」
「……そんなところです」
タラ子は俺と顔を合わせなかった。合わせるのを拒んでいるようにさえ思えた。
なんか、スッキリしねぇな。吐いて吐いて胸の中はカラッポに違いないのに、苦しい。
俺の胸の中を、何もなくなった真っ暗な世界を、何かが一人で歩いている。一歩一歩を踏みしめるように。そしてそいつが足を進める度に、キリキリして、切なくなる。
やっぱりこいつは……タラ子は、よく分からない。




