第百三睡 詠唱に難しい漢字は付き物
「お前、は…… 」
前回にも増して喉が動かなかった。干からびているのではないかと思うほどカラッカラだった。面接で緊張してアガってしまった子どものように、頭の中が真っ白になった。
「おやおや、相も変わらず恐れられてしまっているようで残念ですネェ」
ザミアの首を持ったままで俺の元まで歩いてきた老紳士。空いていた手を俺の肩に優しく置いた。
“相も変わらず”。そう、何も変わっちゃいない。俺はこいつに……ミュガナッチェに、ビビってる。心の底から。
こいつと会うのは二度目。のはずなのに、一度目よりも恐怖の溝は深かった。それは今、まともな思考ができないはずの俺の脳味噌の片隅にある、前会ったときにこいつが言っていた、とある一言の仕業に他ならなかった。
“次会った時は容赦しない”
こいつは確かに、そう言ったんだ。
“容赦しない”ってことはやっぱり、戦わなくちゃいけないってことだよな? 女の子の首を平気な顔して刎ねて、その上それを平気な顔して持ち運ぶような狂人と?
「っざけんな……ビビってなんかねぇよ。お前なんかより怖いもんなんて、星の数ほど見てきたわ。お前みたいなジジイにいちいちビクビクしてるほど、こちとら感受性豊かじゃねぇんだよ」
吠えられるのはここまで。もう喉に水気はない。逃げるか? いや……背中を向けるのは危険だ。まだザミアの殺害方法も分かっちゃいない。
「ほう、それはそれは、肝が据わっておられるようで素晴らしいですネェ。若者は成長が早くて羨ましい限りですネェ。ですがまだアナタはまだ未熟。ここで芽を摘むのは勿体無いですネェ。そこで一つ、ゲームをしませんかネェ?」
ミュガナッチェは俺から離れて上機嫌そうに言った。どういうことだ、俺を殺すんじゃないのか?
「ゲーム……だと……?」
「ええ、実にシンプルなゲームですネェ。アナタが一言声を出す度に、周りにいらっしゃる民の皆様を………ワタシが一人ずつ殺していく、なんてのはどうですかネェ? 誰を殺すかはその都度決めていきますネェ」
血の気がサァッと引いていった。なんて恐ろしい事を提案するんだ、この男は。
「ああ、まだワタシが“スタート”と言ってませんから、喋ってもいいですがネェ。ゲーム開始と同時に、アナタが少しでも声を発すれば、ワタシはそこら中に隠れてビクビク震えている皆様を容赦なく殺害していきますネェ。時間は三分ですネェ」
俺は周りを見た。ザミアが死んだことで、ハルス王国の国民たちは平静を取り戻したようだ。どうやら魔術ってのは、術者が死ねば解けるものらしい。先程まで快楽に溺れていた皆は、ミュガナッチェの決めた“ゲーム”のルールに顔面を蒼白させている。そりゃそうだ。こんなの狂ってる。
もしも“ゲーム”が執り行われたとしたら、生け贄となったハルス国民の生死を決めるのはミュガナッチェじゃない。
俺なんだ。
でも拒否はできない。したら終わる。そんな気がする。
「ああ……あと、ゲーム中、ワタシはアナタに一切の危害を加えることはありませんからネェ。直接アナタをどうこうする気はありませんのでご安心くださいネェ」
拍子抜けした。ぶっちゃけそれが一番の不安要素だった。拷問みたいに痛め付けられたらどうしようって。
好都合だ。こいつがどういう思いでこんな俺に有利なルールを設けたのかは知らないが、三分間、俺が黙って立っているだけで、誰も死ぬことはないんだ。
目を瞑った。集中しろ。俺のせいで名前も知らない奴が、あんな奴の毒牙にかけられるなんて、夢見が悪いにもほどがある。一生安眠できない。
一人も殺させない。無言を貫いてみせる。なぁに、学校でもほとんど喋らずに何年間も過ごしてきたんだ。三分くらい光の早さで過ぎてくれるだろう。
「準備はいいですかネェ? では……スタート」
「…………っ!?」
ゲーム開始の合図とともに、体に異変が襲いかかった。
頭痛、目眩、胸焼け、そこから来る尋常ならざる吐き気。俺は両手で口を押さえた。
どういうことだ? ミュガナッチェは確かに少しも動いて………。
「!!」
まさか、あのとき……俺の肩に触れたときに、何か魔術を……!?
「おや、どうしましたかネェ? どこか具合でも優れませんかネェ?」
ミュガナッチェは満面の笑みで苦しむ俺を見続けていた。視界がぼやける。憎むべき相手が霞む。「卑怯者」と叫びたい気分だった。でもそれはできない。俺の発言は、そのまま誰かの死に直結しているのだから。
とはいえ、限界が近かった。吐き気は静まるどころかどんどん強くなっていく。胸が縄で締め付けられているようだった。
ミュガナッチェがニヤリ、と笑った途端、俺は頭がまたしても真っ白になった。口を塞いでいた両手がダランと脱力した。
「うっ………げええええ!! げええっほごほっ!! おえええええええ……!!」
吐瀉物と共に、情けない声が一気に口から噴き出された。流れていく透明の液体を見たとき、俺は後悔した。しかし、もう遅かった。
「アウト………ですネェ」
「ぎゃあああああ!!!」
ミュガナッチェが腕を一振りすると、近くにいた坊主頭で筋肉質の男性の体が破裂した。血が全方位に飛び散る。それをしっかり見てしまった俺は、また腹の底から何かが込み上がってきたのが分かった。
「もう、やめてく……うっ! げほおっ!! おえええ……!!」
「はい、二人目ですネェ。では、次はあのお子様にしましょうかネェ」
「やめて、たすけて! お母さん!! おかあ………ヅァッ!!!」
悪夢を見ているようだった。俺のせいで死んでいく者を見て、また声が出てしまって、それでまた人が死んでいって……無限地獄だった。
終わりが見えなかった。三分って、こんなに長かったっけ。出すもんを全部出しても、目の前で惨殺されていく人を見たら、また胸糞悪くなって、ぶちまけて。
意識が朦朧としてきた。ああ、まさかこれ、俺も死ぬのかな。水分ぜーんぶ出し切って、それで皆と同じく、無惨に死んじゃうんじゃねぇかな。
やり直し、出来るよな? 死んでも、テスティニアに頼んだら、もう一回、無難な所に戻って来られるのかな?
じゃあもう……どうでもいいか。身体中のもん全部出し切って、たくさんの奴殺して……後で全て元通りになるなら、もういいや。
「ああああああああ!!!」
あらかた吐き終わった後、俺は喉の奥に指を突っ込んだ。胸の奥に燻っていやがる異物を、ほじくり出してやろうと思った。
出来るわけないのにそうしようと考えている俺は、もはや正気ではなかった。
「おやおや、醜いですネェ。実に醜い姿ですネェ! ですが美しいですネェ!! 生物が苦しみながら死へと歩んでいく姿は、狂いに狂った挙げ句、自らを更なる苦しみに追いやろうとする姿は、なんと醜く美しいものですかネェ!! ククッ……クハハハハハハ!!」
喉が裂けるようなイカれた笑いを続けるミュガナッチェ。
恐ろしいな、やっぱり。こんなのに目ぇつけられたら、終わりに決まってる。仕方ない、次はなんとしても戦闘を避けてみせよう。
残機を一つ、犠牲にして。
「東雲の風」
ミュガナッチェのケタケタとした笑いの中から、厚い岩を穿つような力強い声が混じった。
この声……タラ子……?
「夜の静謐破りて民、血湧き宴す。妖姫の玉尖、天を衝きて、花咲き乱れん。残夢の屍よ、氷雨に濡れ、凍て付きて叫べ」
「その詠唱、その巨大な魔法陣……まさか、アナタは!? くっ……そんなもの、ワタシの魔力で相殺して……」
「遅い」
動揺するミュガナッチェにタラ子が言い放った。タラ子の下には半径十メートルほどの青白い魔法陣。その中心に立つタラ子の体も、ぼうっと幻想的に光輝いていた。そして手を突き出すと、唇をほんの僅かだけ動かした。
「“雪花の牢”」
タラ子が技名らしきものを口走ったと同時に、俺の意識は絶たれた。
・雪花の牢”
ヒエロ……「氷」の意味を持つスペイン語“hielo”から。
キャーサ……「家」の意味を持つスペイン語“casa”から。




